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「ちいいいっ」
鋭い舌打ちを響かせた大柄な男は、怯えた目で慌てて店じまいを始める主人を横目に、手にした品物を小脇に抱え、恐慌を起こしてあちらこちらへ走る人の波を縫った。
「『運命』が…!」
「影が迫ってるってよ!」
「化け物がいるぞ!」
「もう『壁』の中に…!!」
「『太皇』は何を為さってるんだ!」
口々に叫んで逃げる人々が、壇上の男のことばを思い返すに、そう時間はかからないはずだ。不安は今や明確な恐怖となり、『氷の双宮』に対する無知と畏敬は、不信と疑惑、得体の知れないものへの憤りに育ち始めた。
「何て事をしやがる」
大柄な男、イルファはぼやきながら、大股に道を急いだ。このままでは例えミダスの公邸とは言え、安全とは言い切れまい。彼はそこに大事な仲間を2人、残してきている。
急ぎ足に戻ってきた屋敷が、出てきた時と同様の静けさに包まれており、周囲に人が集まってくる様子もないのにほっとした。群衆はまず自らを守る方向に走ったらしい。各々の家で、各々の家族に今必死に見てきたものを語っているのかも知れない。
イルファは入り口に控える緊張した表情の兵士に軽く頷き、扉を開けた。平和な治世、剣もあまり持ち慣れていないのだろう、急ごしらえの見張りは疲れた表情で礼を返し、イルファを見送った後は、再び外界へ続く扉へ目を戻す。
「イルファ!」
奥へ通ると、どこか不安そうに佇んでいたレスファートが彼を見つけて走り寄ってきた。穏やかな日差しに髪をきらめかせ、イルファを見上げる。透ける淡い色の瞳が、探るようにイルファを捉えた。
「どうした、レス?」
「…ううん、なんでもない」
「アシャは?」
「まだ…目が覚めない……レアナ姫がずっと付いているけど…」
イルファの問いにかぶりを振り、それでも緊張を隠せない様子で応じた。レクスファの第一王子、人の心象風景に敏感な少年が、外の混乱を気づいていないはずはない。だがレスファートもただ徒に旅をしてきたのではない、己の不安が泣いて訴えれば消え去るものではない事を、薄々察しているようだった。
「…そうか」
イルファは頷いて、体を寄せてきた少年の頭に己の手を乗せた。本来ならば不敬だろうが、ぽんぽんと優しく思いやりを満たして叩き、
「大丈夫だ」
見上げた瞳に笑う。
「きっと、何もかもうまくいく」
「……うん」
子どもながら、イルファの苦しい慰めを感じたのだろう、小さく頷いて、レスファートはにこりと笑って見せた。
「外はどう?」
「…なかなか派手だな」
伝えたものかどうか悩んだが、おどけて肩を竦めてみせる。
「化け物屋敷へ行きたかったら言えよ、タダで『かなりのもの』が見られるぞ」
「やだ! イルファ、消して!」
心象を思わず読んだのだろう、レスファートが青ざめて声を上げる。
「そんなの、ぼく、見たくない!」
「ああ、悪かったな」
イルファも見せたくはないが、遅かれ早かれ直面する羽目になるかも知れない。奥歯を噛み締めると、
「…それよりも、ぼく」
ためらいがちにレスファートは呟く。
「ユーノに…会いたい」
声の切なさに胸が詰まって、イルファは返すことばもなく、再び不器用に、いささか強くレスファートの頭を叩いた。憤ることもなく、自分が零したことばの苦さに気づいたのだろう、頼りなく眉を寄せてレスファートが俯く。
「…ごめんなさい」
「謝ることはない」
ぐ、っともう一度、奥歯を強く噛み締めて、イルファは話題を変えた。
「セシ公はどうしてる?」
「広間にいる…東からの使者、ジットーと言う人に会っているよ」
「ジットー?」
ジットーとは確か『銀羽根』の伝令、今頃はユーノと共に東の戦線をかけているはず、その男がなぜ。
(まさか…本当に東が…)
不吉な予感に、イルファは広間の方へ目を向けた。