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「時は来たのだ!!」
ラズーンの街角、木箱の壇上で1人の男が叫んでいる。
「今こそ真実を知り、救いを求めるべきだ!」
ぼさぼさの髪、白い衣、如何にも修行者風の容貌、だが、瞳が妙に虚ろで昏い。
「『氷の双宮』にこそ、その救いはあるはずだ、なぜなら、あそこに『太皇』が居るのだから。だが、その『太皇』は何を為さっているのか、これほど人心が惑っているのに、姿も見せて下さらないとは何事であろう!」
「そうだ!」
「『太皇』はどうしたんだ!」
頃合いを見計らったように、男の前に集まった群衆の中から声が上がった。よく見れば、その男達も木箱の上に居る男同様、どこか不吉な、ものに憑かれたような眼をしているとはわかるだろうが、並み居る群衆は辻説法に心奪われ、合いの手の巧みさに気づかない。
「『太皇』は我らを見捨てられるのか?」
「我らは見捨てられたのか?!」
「『太皇』は何を為さっているのだ!」
「そうだ、何を為さってるのだ!」
「そもそも『太皇』とは何を為さっている方なのだ?!」
「何の為に、あの『氷の双宮』に籠もられているのだ?!」
男達の掛け合いのような叫びが続く。
「……そういや……そうだな…」
「『太皇』って……王様だよな……?」
「けど、何を…してくれてるんだ?」
「赤ん坊にミルクをくれるわけじゃないし」
「俺たちに給金をくれるわけでもないし」
「どうして…『氷の双宮』にいるんだ…?」
巧みに扇動された群衆がこそこそと囁き始めるのを、近くの店で買い物をしていた大柄な男が、品物を受け取りながらじっと聞いている。
「そもそも『氷の双宮』とは何なのだ? 『太皇』はなぜあそこに籠られるのだ、これほど世の中が不安定な時に?」
「何かあるのか?」
「何か、あそこにはあるんじゃないのか?!」
2人の仲間が、辻説法の男の問いを煽り立てる。
「何か…?」
「何かって……何だ?」
「そりゃお前、こんな戦だの何だのって言ってる時だから……身を守れるものじゃないのか?」
人々の囁きが不信を含む。
「武器か?」
「…おい…何かひょっとして……途轍もない武器じゃないのか?」
「武器だとしても、どうするんだ?」
「なあ、おい、俺達にそんなもの、ねえぞ」
「けど、ラズーンの『壁』があるから…」
「聴きたまえ、諸君!」
壇上の男は一層声を張り上げた。
「私は諸君の知らないことを知っている、だから警告するのだ!」
「それは何だ?!」
「教えてくれ!」
「そ、そうだ、教えてくれ!」
煽る声の尻馬に、1人が乗った。
「諸君……ラズーンは今、最大の危機に晒されている」
壇上の男は不意に声を低めた。しん、と静まる群衆に、
「『運命』と言う謎の軍が攻めて来ているのだ」
「え…?」
「何…?」
「っ」
買い物をしていた男はぎくりとしたように、壇上の男を振り返った。大柄な男に全く気づかない様子で、壇上の男は冷淡とも言える平坦な声でことばを継いだ。
「諸君も聞いたことがあるはずだ。夜を走る黒い影の噂を。月夜に猛る野獣のような声を」
「影…」
「…そういや…」
「けど…『壁』はあるぞ!」
別の男が反論する。
「ラズーンには『壁』がある!」
「『壁』が絶対なのか!」
被せるように壇上の男が言い放った。
「現に、西の『壁』ぎりぎりに『運命』が攻めてきている。セシ公配下の『金羽根』の働きがなければ、とっくに『壁』は突破されていただろう。今や東にも『運命』は迫っている。『銀羽根』『銅羽根』の守りは、先日ついに崩れたと聞く」
壇上の男は硬直したように立ち竦む群衆に、依然、低いが人を威圧する声音で語りかけた。
「明日にも『運命』は東の『壁』に達するだろう。誰が守りに着けよう、この動乱の時期に? 東が崩れれば西も崩れ、ラズーンは遠からぬ先に滅するだろう……守り堅き……『氷の双宮』を除いては」
男のことばが人々の胸の奥に沈むまで、数瞬の間があった。
「滅ぶ…?」
「この…ラズーンが…?」
「け、けれども!」
先ほどの男が再び反論を試みた。
「まだ『壁』は崩されていないぞ!」
「『壁』…だと?」
初めて壇上の男の唇に、うっすらと禍々しい笑みが広がった。人々が笑みに気づく前に、綻んだ男の口元から嘲笑に似た嗤い声を伴って声が零れる。
「『壁』などどこにあるものか……『我ら』…『運命』にとって!!」
同時にかっと男の口が上下に避けた。閃いた手が黒剣を握り、柄まで通れと己の腹に突き立てる。鈍い音を立てて黒に近い紅の血飛沫が噴き出し、男のすぐ前にいた人々に降り注いだ。
「ぎゃっ!」「ひいっ!「きゃあああっ」
劈くような絶叫、息を引く音、喉に詰まった呻きが一瞬にしてあたりを満たし、街角はいきなり混乱と暴徒の巷と化した。その中でずるずると崩れ溶けていきながら、修行者風の人間を装っていた『何者か』が、聞くに耐えないけたたましい嗤い声を上げる。
「逃げても無駄よ、すでに『運命』はお前達の隣におるわ!!」
「きゃあ!!」「うわああっ!!」
ぶしゅっ…ぶしゅっ…と、同様の、液体の詰まった皮袋が一気に生温かい中身を噴き上げる音が、逃げ惑う群衆の中から聞こえた。それは、今の今まで男の辻説法に賛同の声を上げていた男達、1人はやはり短剣で己の首を掻き切り、もう1人は突いた胸をどす黒い朱に染めて倒れる。地面に倒れた後は腐臭を放ち、どろどろとした肉汁となって流れ広がっていくのを見たものが、吐き戻し気を失って倒れていく。