10
「…シリオンか」
ふっと部屋の隅でいきなり形をとった気配に、ギヌアは目を開けた。半裸の体を起こし、乱れた白髪を掻き上げながら、相手を見つめる。
「は」
低い声が嗤いを含んで響き、上げた白い顔が闇の中でにんまりと歪んだ。濡れた朱い唇が勝ち誇ったように動く。
「吉報を」
「話せ」
「ラズーンの東、崩れました」
「…何?」
黒衣を羽織りかけていたギヌアの手が止まった。訝しくシリオンを振り返る。
「『銀羽根』の撤退を装った策、『穴の老人』(ディスティヤト)が戦いに加わったことで、戦局は我が方に有利に傾きました。追い討ちをかけ、『銀羽根』は『白の流れ』(ソワルド)の東で撃破、現在我が軍はラズーンの東へと迫りつつあります」
「『銅羽根』アギャンはどうした?」
「『泥土』に詰められ身動きできない状況、何れにせよ、あの位置からでは東の守りにはつけますまい」
「しかし、東へはユーノが『泉の狩人』(オーミノ)を率いて出るということだったが」
「未だその影もないところを見れば、『泉の狩人』(オーミノ)の説得に失敗したと思われます」
シリオンの朱い唇が、一層禍々しく笑み綻んだ。
「時は来ました、今こそ中央の攻めに出る時…」
「…が、『氷の双宮』にはアシャが居る。迂闊には動けまい」
「アシャ・ラズーンなら……今や死の床におります」
「…何っ…」
ギヌアの顔が一瞬強張ったのを、シリオンはどこか冷ややかに眺めた。
「お喜び下さいますでしょうな、ギヌア様? ジュナ・グラティアスがリディノ・ミダスを使って毒を盛り、アシャはまんまと引っ掛かったという次第…」
シリオンは奇妙な笑みを浮かべた。
「我らが『運命』の長殿は喜んで下さるのでしょうな…?」
「何が言いたい、シリオン」
「いえ…夜伽の相手に重ねられるなら構わぬこと、が、戦にあっては、事と次第によっては我らの運命までも揺るがす…」
「…シリオン」
顔を強張らせていたギヌアは、不意に薄い笑みを浮かべた。
「攻めぬ、と言えば満足か? アシャが死の床にいるのなら攻めるに忍びぬと命じれば、お前は納得すると言うのか?」
「…違う、と言われるのか?」
「私は動かぬ」
ギヌアの答えに、やはりと言いたげな表情でシリオンの眉が上がった。自らを嘲笑うような皮肉な微笑に唇を吊り上げる。だが、その笑みは続いたことばに、意外そうな表情に溶けた。
「私は、な。まだ私が動くのは早すぎる」
「…と言われると?」
「『眼』に伝えよ。ラズーン内部から揺さぶりをかけろと。これまで己の生活にぬくぬくと浸っていた輩に、『運命』に攻め込まれる恐怖をじわじわと教えてやれと。流言、噂、あらゆる手段を通じて、あの外壁の中にいる平安に安心しきっている奴らに、不安を刻みつけろと。『氷の双宮』と『太皇』の存在を疑わせ、あの中にこそ人々を守る手立てがあるのに、それを自分達の王が独り占めにしていると思わせるのだ…………自分達の生活というものがどれほど脆いものか、それを知って動揺し始めた人間を襲うのと、『氷の双宮』があると絶対の安心に立つ人間を攻めるのと、どちらが御し易いと思うのだ、シリオン」
「…ギヌア様…」
「言ったはずだ。世を制するのは『運命』のみと。それ以上もそれ以下もない。始めも終わりも全ては『運命』の下においてこその生、それを望むと」
「…お許しを」
「甘いぞ、シリオン」
ギヌアは頭を下げるシリオンに背を向けた。
「『運命』に降りた時から、私の頭は己の未来で手一杯、敵の身を思う余裕なぞない」
「では…早々に」
「うむ。しかし…リディノ・ミダスか…」
「は…『父娘揃って』宿命(定め)は『運命』にあったようでございます」
「生まれ間違いおった、な」
「御意」
低い嘲りの嗤いとともにシリオンが気配を消し、ギヌアはもう一度ゆっくり振り返った。
その眼には今までの紅蓮の焔を思わせる激しさはないだろう。或いはひょっとして、暗く頼りない、誰かの姿を恋うような色に染まっていたかもしれない。
「死の床に…いるのか、アシャ」
薄く微笑む。
「まだ死ぬなよ…私が側に行くまで………お前の息の根を止めるのは……この私だ…」
掠れた囁きは甘い翳りを含んで、夜闇に吸い込まれて行った。