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「シャイラ?!」
一瞬、友の声が耳に届いたように感じて、グードスは手近の兵を切り倒しながら振り返った。
夕闇が迫る空、濁った朱の雲が不吉な想いを掻き立てる。
(シャイラ…)
久しぶりに呼んだその名は、唇に苦い後悔の味を蘇らせた。
『泥土』に果てかけた自分を救いに来てくれたと知っていた。が、同じ東の守りにつくというのにことばを交わすこともない再会に、互いの間は未だにあの剣で引き裂かれているのだと知った。
リディノがシャイラに応じたと言う話は聞かなかった。風の噂に、リディノはアシャに恋い焦がれているのだと知り、アシャがラズーンに帰還した時には、なぜか心が緩むのを感じた。命に代えても友を失ってでもと想いを寄せた女性の、恋の相手が戻って来たのだ、うろたえ慌てていいはずなのに、胸に広がったのは、これ以上シャイラと離れて行かずに済むという安堵感だった。
その想いは、こうして勝ち目のない戦いに身を投じていると、より鮮やかに湧き上がってくる。
(剣を…引き抜こう、シャイラ)
打ち掛かってくる敵の刃を寸前で躱しながら、グードスは胸の奥で呟いた。
(剣を引き抜き、酒を酌み交わそう、シャイラ)
動乱の闇、大地を染める地の紅、人の絆も揺らぐこの時代、だからこそ、誇りも何も投げ捨てて切れかけた結び目を繋ぎ直すのだ。人が人として真に生きるために、人が人としてただ一所懸命に生きるために、全てを越えてもう一度。
(今度こそ……この戦いが終わったその時にこそ!)
「アギャン公!」
「何だ!」
「兵が……動きます!!」
「何っ」
グードスははっと彼方へ目を転じた。刻一刻、暗さを増す空の下、確かに兵の流れが変わって来ている。じわじわと油が流れるように西へ、ラズーンの方へ流れて行く。その証拠に、グードスに相対する勢力がみるみる少なくなって行きつつあった。
「今なら押せます、アギャン公!」
「待て!」
勝ち誇ったように叫ぶ兵を制したグードスの頭は、その真の意味を悟って一瞬にして凍てついた。
西へ戦いが流れる。それはつまり、西の抑えが効かなくなったということではないのか。
シャイラが退くはずはない。逃げるはずもない。グードスはシャイラの気性をよく知っている。後ろに『守るべきもの』(ラズーン)を控えて、あのシャイラがその場を譲るわけはない。そのシャイラが抑えているはずの西へ戦いが流れたということは即ち、シャイラの死を意味するのではないか。
(シャイ…)
胸にせり上がってくる熱いものを、グードスは必死に噛み殺した。血を吐くように一言、
「退け!!」
「は?」
「退くんだ!」
「し、しかし! 今なら我らが押せます!」
「馬鹿者! 『運命』の後ろからラズーンに攻め込む気か!」
「っっ!!」
「全隊後退! ヨルン!」
抗議しかけた部下を叱りつけ、相手が怯むのをもはや取り合わず、グードスは険しい顔で側近の1人を呼んだ。
「はっ!」
「ラズーンへ走れ……東が崩れ、中央へ攻め込まれるのは時間の問題だ、と…」
「アギャン公…」
「失敗するようなら帰ってくるな、行け!」
「は…はっ!!」
防衛線の背後を縫い北上して行くヨルンを見送ったグードスの心には、焦りが渦巻いている。
ラズーンの東の防衛には、今誰が回されているだろう。『銅羽根』の残り少数と野戦部隊。何れにしても長く持ち堪えられるわけはない。少しでも東の兵力を減らしておきたい。が、グードスは既に防衛線を突破された身、追うにしてもかなりの速度で追わねば、逆に『穴の老人』(ディスティヤト)をラズーンに追い込む結果になる。
あるいは…東の防衛線が保たせられるほんの僅かな時間に、勝敗を決することができる攻め方があれば、万が一の活路が開けるかも知れない。
(攻め方…)
「ゴーリック! エノン!」
「はっ!」「はいっ!」
「『飢粉』を手に入れろ」
「は…?」
「できる限り、大量にな。行け!」
呼ばれた2人は、グードスの昏い表情にぞくりとしたように身を竦め、慌てて立ち去って行った。