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「うわあああ…」
「ぎゃうっ!」
「ひいっ!!」
「わああっ!!」
「…ちいっ!!」
耳元を掠めた切っ先に鋭い舌打ちをして、シャイラは身を引いた。
胸を押し潰す腐臭、『穴の老人』(ディスティヤト)の出現で恐慌に陥った軍は、立て直すどころか、まとめて退却するのが手一杯だった。どれほどの者が生き残り、どれほどの者が戦闘能力を残しているのか、そればかりか、どの辺りまで退いてきているのかさえも見当がつかない。ただ背後の『白の流れ』(ソワルド)の音が次第に大きくなってくることで、後がないとわかる程度だ。
(後がない)
そしてそれは、『泥土』の側に追われているアギャン公の軍で一層酷い状態のはずだった。
(グードス…)
シャイラはじわじわと北の『泥土』へ追い詰められているであろう、友の顔を思い浮かべた。
グードス・アギャン。
アギャン公の一子、穏やかで朴訥な人柄、北の荒れた土地を治める父に似て、物静かな友は人との争いを好まぬ男だった。
十数年前のこと、既に『銀羽根』として訓練を受けるべく、ミダス公の屋敷に入っていたシャイラと夜会で偶然出会ってから、グードスが剣を抜くのを見たのは一度きり、それも皮肉なことに、そのたった一度剣を抜かせたのは誰あろう、穂からぬシャイラ自身だった。
『抜け、シャイラ!』
シャイラの脳裏に数年前のことが、ついこの間のことのように甦っていた。
「抜け、シャイラ!」
「グードス…」
がらんとした部屋で、グードスと向き合ったシャイラは、相手の語調の激しさに呆然とした。
「剣を取れ。抜け、シャイラ……そうせねば…」
グードスは床の上に放り出したままになっているシャイラの剣をあえて無視しながら、苦しげな声で続けた。
「俺達の付き合いを止めるしかない」
「グードス…」
大人しい友だと思っていた。滅多に怒ったことのない優しい男だと。だが、それが心の底に秘めた激しさの裏返しだと気づいたのは、その時だった。シャイラに負けず劣らずの激情家なのを抑えようとしての穏やかさだったのだと。
シャイラの声にグードスは目を伏せた。
「俺はリディノ姫を愛している。他の誰にも譲れぬほどに。そして、お前も彼女を愛している。俺と同じ激しさで」
ゆっくりと目を見開く。灰色の瞳が陽を浴びて眩いような煌めきを宿していた。
「それとも、友情に掛けて、リディノ姫を俺に譲るか?」
「…姫は『もの』ではない」
シャイラの弱い反論はグードスを納得させられなかった。瞳が強く光り、シャイラの返答を促す。
「………できん」
「では、抜け、シャイラ」
「…」
「お前に友情の欠片があるのなら」
黙するシャイラに、グードスは言い募った。
シャイラの心に様々な想いが交錯し通り抜けて行く。
リディノは彼にとって唯一の守り神のようなものだった。無邪気な笑みを見る度に、どんな訓練の辛さも忘れた。柔らかに甘い声を聞く度、己の心がひとりでにリディノに向かって駆け出すのを感じていた。ミダス公の一人娘と一介の兵士が結ばれるわけはない。リディノの想い人はアシャとも聞く。自分などに望みはない。だが、何度己に言い聞かせても無駄だった。
なるほど、世の中の全ての者はシャイラの想いを否定するかも知れない。けれど、いやそれならなおさら、己が己の想いを否定してしまうわけにはいかない。
気づいた矢先、グードスからリディノへの思いを打ち明けられ、シャイラは愕然とした。10年来の友人の恋、叶えてやりたいのは山々、けれども己の心を偽るなら、リディノへの献身も偽りになる。
考えに考えた挙句、同じ想いを抱いていると伝えたシャイラに、グードスはためらうことなく剣を打ち合わせることを望んだ。
友情は変わらぬ、けれど愛を減らすこともできない。
応じたグードスにシャイラは剣を捨てた。自分には友も愛しい人も捨てられぬ、と・
だが、グードスはそれを拒否した。それは本当の友情でもないし、本当の愛でもない。真実はいつも、たった一つだ、と。
「………」
シャイラは剣を拾い上げた。グードスが剣を抜き、構える。気迫を痛いほどに感じながら、シャイラは己の剣を持ち上げ、窓に歩み寄り、ゆっくりと手から下へ落とした。
「シャイラ…」
「……」
無言で振り返れば、グードスは灰色の眼を複雑な色に染めて、シャイラを見つめていた。
「それが…お前の答えか」
「…」
「それが…お前の真実か」
「……」
「……くっ!」
頷くシャイラにグードスは唇を嚙んだ。手にした剣を振り上げる。逃げようともせず目を閉じたシャイラの耳に、ダンッと激しい音が響き、足元が揺れた。目を開ける。石の床の隙間を削り込むように突き立つ剣と、その向こうに背を向けて歩み去る友の姿があった。
取り残されたシャイラの頭に、アギャンの古い慣習が陽炎のようによぎって行く。
互いの間に突き立てた剣は訣別の徴、死しても再び交わらぬ…と。
「ふっ!」
突き出された剣に身を沈め、下から一気に突き上げる。モス兵士らしい男が喉首を貫かれ、悲鳴をあげる間も無く絶命して崩れる。返り血が頬に飛んだのをそのままに、駆け抜けざまに剣を引き抜くと、革袋から水が吹き出すように血潮が空を染めた。
(死しても人は交われるのか、グードス?)
「ぎゃっ!!」
「がっ!」
「くうっ!」
削られた左腕が血を吐いて、シャイラはよろめいた。薄笑みを浮かべ、体を立て直す。
(何れにしても、答えは次の世で聞こう)
不思議に、恋い焦がれ、そのせいで無二の友人まで失ったリディノの面影は淡かった。それよりもやはり、北で血みどろになって戦っているだろうグードスのことが、胸に深く刻まれた。
「ターズ! ティオベベ!」
(やられたか)
ついさっきまで返事をしていた部下の名前に声は戻らない。雪崩を打って攻めてくるモディスン軍は、長を失って『穴の老人』(ディスティヤト)に追われて奔馬のよう、恐らくは『銀羽根』を突破し、この場を生き抜くことしか考えていないのだろう、死に物狂いでシャイラを襲う。漂う腐臭にむかつきを覚える間も無く大地を朱に染めて、シャイラは己の立った場所を死守する覚悟を決めていた。ほんの少しでも長く東を押さえれば、その分、ミダス公邸へ走ったジットーが、味方の防衛戦を強める時間が稼げる。
(もう少し…)
「っ!!」
左脇腹に鋭い痛みを感じて、シャイラは跳ね上がった。気配を殺して忍び寄ったらしい『運命』の黒い姿がシャイラの体に剣先を埋めている。見上げてきてにやりと笑う、朱い唇の男とも女ともつかぬ異形の者の妖しい笑みに、ふっと意識の一部が崩され、シャイラは膝を折った。バキ、と骨が砕けた音を伴って『運命』の剣が脇腹を抉りながら押し上げられ、シャイラは激痛に気を失った。