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「んっ」
「どうされました?」
ジノが僅かに息を切らせながら、先を進んでいたユーノが立ち止まるのに問いかけた。
『狩人の山』(オムニド)に入ったばかり、それでも周囲は行く手の険しさを思わせて、雪また雪の銀白の視界だ。
何かを聞いたような気がして、じっと耳を澄ませてみる。彼方を見やりながら緊張した頬に、吹き出した風が雪を叩きつける。
「いや…空耳だろう」
苦笑して空を仰いだ。
「吹雪いてくる……行くよ」
「はい」
ジノが頷くのに、再び雪の中の道を辿り始める。
既に、羽織っていたマントはぐっしょり濡れて、寒気は手足の柔軟さをみるみる奪っていく。視察官のような方向感覚はないが、こうして歩いていれば、遅かれ早かれ、例の番人、シズミーが2人を見つけるはずだった。
(…そんなはずはない)
心の中で言い聞かせる。
さっきふと、雪を舞わせる風の向こうから、アシャの呼び声が聞こえたような気がした。囁くように、ひどく甘く、切なげにユーノを求めるような声音で。
(都合のいい妄想だ)
アシャのことを気にしているから、そんなことを思うのだろう。他の誰の名を呼ぶにせよ、アシャは今や生死の境、愛しい人の名こそ呼びもすれ、ただの旅の仲間でしかないユーノの名前など、思いつきもしないだろう。
「…ユーノ様」
「…ああ」
ジノに声をを掛けられるまでもなく気づいた。
流れる雪の風、前方の白い闇に人影が動いた。ジノがユーノを守ろうとして前に出ようとするのを制して、水晶の剣を引き抜く。雪が触れても冴えた刃を濡らしもせず散る、その剣をゆっくり目の前に構えたユーノの耳に、死の国送りの風を思わせる声が響いた。
「相も変わらず…無謀な姫よの…」
(『泉の狩人』(オーミノ)? ……いや)
「私を覚えておいでか…? 聖なる王よ」
風が一陣、雪を混えず吹き渡った。雪の合間に白い骸骨の顔が浮かぶ。乗り手が操る金色の一つ眼の馬が見えた。荒事には慣れていると言ったジノが、ひ、と軽く息を吸い込む。
「ミネ…ルバ…?」
「おう…」
答えに、ミネルバは満足そうに笑ったようだ。
「そうか…覚えておいでか。嬉しいことよの、放浪の身には一層…な。……して、アシャはどうした? あの男は、どうしてそなた一人、そんなか細い供だけで『狩人の山』(オムニド)になど送り出した?」
「…アシャは」
ジノがむっとしたように顔を赤らめるのを、なお制する。
「刺客に毒を盛られて倒れた」
「ほう、アシャよりも才の優れた軍師がおったというわけか? さぞかし、口惜しかろう……惚れた娘に置き去られては死ぬにも死ねまい」
「え?」
「……こちらの話じゃ。それより、聖女王、急な出立は東への援軍のためか?」
「だと言ったら?」
「『太皇』より聞いたはず…『泉の狩人』(オーミノ)はこの世よりはみ出した魔の末裔、人間如きの命には従わぬ、と」
「聞いた。『泉の狩人』(オーミノ)が動くのはアシャか『太皇』の命のみ、とも。けれど」
ユーノは舞う雪に全身を打たれながら、相手を凝視した。
「ここには私しかいない。『太皇』にもアシャにも助けは望めない」
『太皇』は今、『氷の双宮』の奥深く、あの謎の仕掛けが狂っていくのを必死に食い止めていると聞く。
「だから、私が来た」
「供一人連れてか」
「そうだ」
「人の臆する、この『狩人の山』(オムニド)にか」
「そうだ」
「『泉の狩人』(オーミノ)は動くまいよ」
「かも知れない」
「世の興亡なぞ、彼らの知らぬこととしてな」
「かも、知れない」
「よしんば動いたとしても、代わりにそなたの命を求めよう」
「かも知れないな」
「ユーノ様っ」「黙って、ジノ」
噛みつきかけたジノを押さえ付け、ユーノはなおもミネルバを見つめた。雪の中、白い髑髏、虚ろな眼窩だけが夜闇より濃い暗黒の色……あれは絶望の色だ。希望も夢も祈りも何もかも、全て無駄になるのだと嗤い続ける酷い運命の姿だ。
「なのに、なぜ、来た?」
ミネルバの声は天からの問いかけに聞こえた。
お前が何をしようとも運命は変わらない。滅亡はすぐそこにある。辿る道は必然だ。なのにお前は運命に抗して、一体何をしようと言うのか。
口をゆっくり開く。
答えは既に決まっていた。それは分かり切ったことだった。