5
時は少し遡る。
セシ公とアシャから指令書を託されたジットーは、ラズーン中央を離れ、ひたすら東へと急いでいた。
戦局はラズーンに不利だった。西へ兵を取られているラズーン、ただでさえ兵力のないところへ、中央の守りも気を抜けないとあっては東への人員も限られている。この上はアギャン公の『銅羽根』ともども誇り高きミダスの『銀羽根』の一員として、潔く東の地に散るのも定め、そこまで思い詰めていたのは数日前のことだった。
だが、今はどうだ。
こうして懐深くに抱いている指令書が、全てをひっくり返すはずだ。シャイラの戦死とともに崩れたラズーンに、シダルナン、モディスン率いる『運命』軍は勝利の美酒に酔いきっている。そこへこの指令、効果はいやが上にも増す。
(何という策士!)
セシ公、アシャ……煌めく美貌より冴えるという軍師としての才を今しみじみと感じている。あの2人がいる限り、何をたじろぐことがあろう。勝利は必ずラズーンのもとに甦るだろう。
「止まれ!」
「俺だ!」
「ジットー!」
「よく無事で!」
明かり一つなく沈みきった野営地に戻ったジットーは、仲間の疲れ切った、けれども僅かに期待を含んだ声に頷いた。見てろよ、と心の中で声がする。見てるがいい、『運命』、我らがラズーンの力を見せてやる。
「アシャ様は?」
「援軍は?!」
詰めかける兵達を見回し、首を振る。
「来ないのか?!」
「俺達は…見捨てられたのか?!」
「違う!」
うろたえる仲間をきっぱりと制する。
「安心しろ。勝利はラズーンの元にある」
「どうしてだ?! 兵は散り散り、長はどこの野に捨てられたともわからず…」
「俺にはわからない」
苦しそうに1人が口を挟んだ。
「あの時俺は確かに『退け』と命じられたのだ。自分が死んだと伝令が入り次第退却せよ、次の命令を待て、と」
「俺もだ!」「わしもだ!」
次々と同様の声が上がり、『銀羽根』は意外そうに互いを見た。
「何、お前もなのか?」
「と言うと、お前も?」
「ああ、長戦死の報があり次第、隊を率いて退却せよと。あの命令はわしだけしか受けていない、他には知らせるな、沈黙を守り身を潜めていよ、とのことだった。何か特別な策でもあるのかと思い、今日まで黙っていたが…」
「ま、待て!」
別の1人が目を光らせて叫んだ。静まり返る周囲を見回しながら、
「誰か確実な戦死者を知っているか?」
「え?」
「何を今更…ブレーヌ、シェイカ、テーノティ…」
答えかけたもう1人が詰まる。
「他には?」
「いや、他には知らん」
畳み掛けられて男は首を振った。他の者も顔を見合わせる。戦死者はと尋ねた男が、
「俺も他には知らん……ということは、今行方不明とされている者には、同じような命を受けていて密かに各々の野営地に戻って身を潜めている者もいるのではないか?」
「ならば、潰されて散ったのではなく、無事な兵力が残っていると?」
「ラズーンは……崩されて…いない……?」
わけがわからぬ顔で互いを見やる面々に、ジットーは持ち帰った指令書を眺めた。
もし今の話が本当ならば、ラズーンは『敗退』したのではなく、個々の隊に与えられた命令によって散り散りに『退却』しただけということになる。
「ジットー…どういうことだ」
「…俺もまだ詳細はわからない。だが、この指令書をアシャ様直々に預かってきた」
「指令書? アギャン公にか?」
「いや…」
ジットーは負傷者用の天幕に顔を向けた。ゆっくりと歩き出す。
「ジットー?」「お、おい」
答えぬジットーに不審がりながら、兵達はぞろぞろと後について行った。
ジットーは天幕の戸口の幕を開け、きょとんとした顔で迎える負傷者達を見ていったが、一番奥の垂れ幕の陰、緋色の布をかけられた塊を見つけると、まっすぐに近寄って行った。
それは『羽根』でさえない見習い兵士、戦線で病に倒れ、戦うことも叶わぬまま病状が悪化し、明日をも知れぬ命とされた男だった。アギャン公が時折見回る程度の、1人寂しい死を迎えていく男だと誰もが聞かされ、憐れみは覚えたものの、前線においては一々気にかけてもいられず、それとなく放置されていたはずだ。
「ジットー?」
「何をする気だ? そいつはもう…」
周囲の問いに、ジットーは男を見下ろし、ゆっくりと側に膝を突いた。頭を下げて深く一礼し、指令書の宛名をもう一度見直す。近くに居た男が小さく声を上げ、指令書と緋色の布の男と見比べる。
ジットーは息を吸い込み、一気に吐き出した。
「長シャイラ、アシャ様よりの御指令です」
「長?!」「シャイラ?!」「まさか!」「そんなことが!」
ざわめきの中、緋の布がごそりと動いた。起き上がる、布の下には薄汚れた包帯、それがするすると解かれていく。全身に巻かれていた包帯が幻のように男の体から剥がれ落ちていく、布をぱさりと背後へ払い落とした男の肩にさらりと髪がなだれ落ちる。
「ご苦労、ジットー」
「シャイラ様!」「長!!」
ざわめきは怒濤のような歓声に変わった。
「静まれ!」
一声響かせて立ち上がったシャイラは、静まり返った天幕の中で鋭い視線を和らげもせず、指令書を一読するや否や命じた。
「ガリオン! プルシド! ケト・ニクラル! ジットー!」
「はっ」「はいっ!」「ここに!」
呼ばれた男達が居住まいを正す。
「すぐに隊を率いて続け。反撃に移る!」
「お、おう!!」
誇らしげに笑顔になったジットーが、真っ先に走り出して行った。