2
「レス?」
もう一度呼びかけられて、レスファートは我に返った。感覚を伸ばして、リディノの心象を探る。この前のような禍々しい影は見当たらない。
レスファートは小さく吐息をついた。
あの夜は何か、リディノもまた不安で疲れていたのかもしれない。
「どうしたの?」
「ううん」
首を振る。
「ユーノを待ってるの」
「ユーノ?」
レスファートの視線を追って目を上げたリディノは、テラスで話し込むユーノとセシ公に気づいたようだ。
「お話中なのね」
「うん」
「アシャ兄様は?」
「さっきまでいたけど」
「そう…」
リディノは何か物思わしげに広間の方へ目をやり、ふと思いついたように、
「レス、ユーノ達のお話、長くかかりそうよ。夜風は体に毒だわ、中に入って、お菓子でもいかが?」
「うん…」
レスファートはもう一度ユーノ達の方を見たが、確かにまだ話は長引きそうだ。リディノの顔を振り仰ぐ。もし、いつかの夜のことを思うなら、リディノから離れないほうがいいのかも知れない。
「じゃあ、行く」
微笑むリディノがこれ以上何もしないと思ったのは、レスファートの幼さだったのかも知れない。レスファートを連れて広間に戻ったリディノは、お菓子のテーブルにレスファートを誘う途中で、グラスを手にしたアシャに気づいて近寄って行く。
「アシャ兄さま」
「…リディ……レス」
笑うアシャに緊張を緩めて、レスファートもリディノの後ろに付き添った。
「東へ出られるのですって?」
「ああ」
アシャはグラスを片手にすぐにでもテラスの方へ行きたそうだったが、思い直したのか、近くのテーブルにグラスを置いて優しくレスファートを覗き込んだ。
「留守の間、『あいつ』を見張っとけよ、レス。無茶をしないように、な」
「うん。まかせて!」
「任せて、か」
にやりと笑って片目を瞑るアシャはもちろん、話し相手になっていたレスファートも、リディノの右手がゆっくりとドレスの襞を掻き分けているのに気づかない。震えそうな指先で、そっと水晶の小瓶を取り出す。蓋を外し、中の液体を1滴2滴、ためらってなお3滴4滴、アシャのグラスに落とし、素早く小瓶を再びドレスの襞の中へ滑り込ませた。
「ご無事でね、アシャ兄さま」
リディノは微笑みながら、グラスを取り上げ、手渡した。自分の分もグラスを取る。
「無理をなさらないで」
祈るように片手を添えて差し上げる。
「…分かった」
安心させるようにアシャが眉を緩めてグラスを上げる。それをきっかけにしたように、広間に居た楽師の一団が曲を始めた。
『愛している、愛しい人
愛している、あなただけ
他の人はいらないのに
あなたは私を振り向かない…」
「っ」
甘く切ない調べに耳を打たれて、リディノは振り向く。その視界に、壁にもたれて一部始終を見ていたらしいジュナの姿を飛び込んだ。
『愛は魔物、愛は魔物
恋しい人の心を手にいれるなら
この世の掟も破ろうに…』
楽師の詩にジュナが薄笑みを浮かべながらグラスを上げる。
分かっておりますよ。
その目は囁いている。
あなたの心の苦しみを、私は十分存じ上げている、だからこそ、差し上げたのだ、その薬を。
リディノは凍りつくような思いでジュナを見返した。
引き止めればいい、アシャの心を無理強いしたくないのなら。望みもしない恋情に狂わせないで、その気持ちのままに大切な女性を想わせればいい。
黙っていればいい、グラスの中身を飲み干した瞬間から、これまでとは違った新たな気持ちでリディノを見つめ、ユーノのこともレアナのことも、数々の美姫を振り向くこともなく、リディノ1人に跪かせたいのなら。
ゆっくりとアシャを振り返る。
紺の長衣、熱に上気する頬に乱れる金褐色の髪、宝石に劣ることなく煌めく紫色の瞳。華やかで豪奢な夜会のその中で、誰よりも目を奪うその姿。
だが、その相手は、無事を祈ってグラスを差し上げたリディノを見ていなかった。楽師の詩にリディノ同様、思いを込めた顔で別の方向を見つめている。愛おしそうに悩ましげに視線を送る、テラスに立つユーノの淡い紅の艶姿へ…。
(違うわ)
胸の中で声がした。
(あなたが見つめるのは、ユーノではないのよ)
「…では」
リディノは声を掛けた。はっとしたようにアシャが振り返る、その顔に嫣然と笑みほころんで、
「お帰りをお待ちしています」
「ありがとう」
アシャももう一度グラスを上げて答え、ふいと側のレスファートに目を降ろした。
「レス? どうした?」
「え…あ、…ううん」
少年はなぜか呆然とした様子でリディノを見ていたが、慌ててかぶりを振った。すがりつくようにアシャの手を掴み、引っ張る。
「レス?」
「ぼく…お菓子、もういい。行こうよ、アシャ」
「あ…ああ?」
失礼するよ、と声を掛けられ、微笑んで遠ざかる2人を見送りながら、リディノは呟く。
「…もうすぐよ、兄さま」
レスファートに何が出来よう。そもそも、リディノが媚薬を手に入れたことは誰も知らない。ましてや、こんな人の目がある夜会で使おうなどと、想像もできないだろう。
誰も知らない。誰も咎められない。
「もうすぐ……アシャ……」
アシャはテラスで談笑しながらユーノの前でグラスの中身を飲むだろう。飲む前までは親しげだった表情が、飲み終わった瞬間から、不審げな訝しげなものに変わるはずだ、自分はどうしてこんなみっともない女の前で酒など楽しんでいたのだろうと。そうしてより気持ちを誘われる美しい女性を探して広間を見渡し、見守るリディノに気づくのだ。止めるユーノを振り払い、足早にやってきて囁くだろう、どうして今まで気づかなかったのか、今宵のリディは誰よりも美しく艶やかだ、どうか夜が更けるまで、俺を側にいさせて欲しい、と。
ユーノはそれをどんな気持ちで見送るのか。
ああでも、構うことはない、人がより美しいものに魅かれるのは仕方がないのだ。そのために神々はユーノに剣の才能を与えたのではないだろうか、1人で生きていくように、と。
「私だけの………アシャ兄さま…」
微笑みを深めながら、リディノはただ『その瞬間』だけを待った。