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「レス…」
ユーノがアシャと内密の相談をすると言うことで、テラスの端で手持ち無沙汰に立っていたレスファートは、呼ばれて振り返った。
夜目に青白い人の形、淡い月光に浮かび上がる姿にぞくりとし、相手を見極めて肩の力を抜く。
「リディ…」
答えてもレスファートはすぐにリディノの側へ駆け寄らず、じっと相手が近づくのを待った。
「どうしたの、こんな所で」
微笑む紅の唇を凝視するレスファートの脳裏には、ユーノが目覚めなかった不安な夜が蘇っている。
あの夜。
ユーノは昏々と眠り続けたまま、アシャはセシ公に呼ばれて部屋を出て行き、辺りは静かに眠りにつき、レスファート1人が仄かな明かりの下に残されて心細かった。
頼みのユーノは目覚めずに、ひょっとしてこのまま自分を置いて逝くのではないか、いつかの母のように彼を1人にしてしまうのではないか……そんな想いに耐えきれずに泣き出しそうになっていた時、ふいとリディノが部屋に入って来た。リディノの心に打ち寄せる黒い波は気になるものの、それでも少しはほっとしたレスファートは、不安を訴えようとしてぎくりとした。
青い顔、虚ろな瞳、血の気を失って白い唇、いつものリディノの柔らかな温かさは微塵もなく、影のように入って来てユーノの寝顔を覗き込む……その唇に何か禍々しい昏い笑みが濡れ濡れとした光を帯びて広がるのを、恐怖に駆られて見守った。心には、今までリディノに感じたことのないぽっかりと暗い深淵を思わせる心象がひたひたと寄せてくる。
どこかでこれと似た心象を知っている、そう思ったレスファートの耳に、リディノの声が届く。
「まだ…目覚めないの」
(魔物? ……ううん、これは!)
「っっ!」
その瞬間、レスファートは一歩後ろへ下がって、リディノとユーノの間へ割り込んだ。
覚えがあるはずだ、この深淵、この闇は『運命』そのものだ。
ユーノを背中に決死の覚悟でリディノの前に立ち塞がる。唇を噛み、リディノの白い無表情な顔を睨みつける。
それほどその時のリディノの心は禍々しい邪悪さをたたえていた。断崖から落ちていく人間に命綱を投げ、掴んだ途端にこちらの手を離す、人の痛みをいたぶり屠る昏い喜び。
アシャは居ない、イルファも居ない。ユーノは無防備なまま、守る者は自分しか居ない。
不安は消えた、心細さも散った、ただ誇らしさだけが……旅で培われた、危機に際して己の全てを出し切ることへの気概だけが心に満ちる。
「レス…?」
「ユーノを…傷つける気?」
訝しげなリディノに問う。はっとしたように、相手の薄緑の瞳から澱みが消えた。
「傷…つける…?」
自分の行動を怪しむように、リディノはレスファートを見つめ返した。
「許さないから」
自分でも驚くほどの厳しさで、レスファートは言い放っていた。
「許さない、これ以上ユーノを傷つける人を」
「…レス…」
「ユーノは、ぼくの、一番、大切な、人だから」
恐怖なのか怒りなのか、体が震えた。感情が溢れて目元が熱くなる。
それを聞いたリディノの瞳に、物憂い悲しみが満ちた。
「誰…よりも?」
間髪入れずに応じたレスファートに、リディノは虚ろな目に戻って吐いた。
「…泣けば…ユーノは戻ってこないわ」
「!」
見抜かれて竦んだレスファートは、滲みそうになった涙を慌てて呑み下した。くるりとリディノが背中を向ける。そのまますうっと戸口を抜けようとして、
「ジノ…」
「姫さま……」
そこに信じられないことばを聞いたと言いたげなジノの姿があった。目の前を構わず通り過ぎていこうとするリディノを目で追い、レスファートを振り返り、慌ただしく身を沈め、ひざを突く。
「レスファート様、お許しを!」
答えを待たず、ジノはリディノを追って行った。残されたレスファートはそろそろと体の力を抜いて振り返り、未だ眠り続けているユーノの横顔を見た。閉じた瞼の青さに怯える心を、無理やり押し出す。
(ユーノ)
声にならずに心で呼んだ。それでもユーノは目を覚まさない。
(ユーノ……)
そっと覗き込む。ベッドに上り、ユーノの唇が少しでも動かないか、両手をついて見つめ続ける。レス、といつものように優しく呼んでくれないかと。
が、唇は開かれなかった。
「ユーノ……ぉ」
規則正しく動く胸にしがみつく。
(置いてかないで、ぼく、強くなるから、きっと強くなるから、置いてかないで)
イルファのように強くなりたい。アシャのように賢くなりたい。ユーノの側にいつもいられるような人間になりたい。ユーノにいつも必要とされる人間になりたい。
『…泣けば…ユーノは戻ってこないわ』
リディノの声が耳に谺し唇を噛んだ。祈ることしかできない、ユーノのために。ならば、万に一つしか叶わない祈りでも絶対叶えてみせる。
ぽんと静かに背中を叩かれて振り向くと、痛ましいと言った表情でアシャが立っていた。憔悴した顔に、それでも温かな笑みを浮かべて、
「レス?」
両手を差し出してくれる。無意識にその腕に縋って、アシャの首にしがみつく。
「…大丈夫だよね?」
「……ああ」
「ユーノ、大丈夫だよね、死なないよね、いかないよね」
「ああ」
「ユーノだもんね、ユーノ、だもんね」
しがみつくレスファートに、たとえ儚い望みでも、たとえ嘘だとあったとしても、誰でも頷かずにはいられないだろう。きっとアシャも、だが切なげな優しさを込めて応じてくれた。
「大丈夫だ」
「うん」
張り詰めていた糸が切れた。ふわふわしてくる頭の中で、それでも何度もアシャにユーノの無事を約束させて、レスファートは眠ってしまい………翌日は目覚めて昼食もそこそこにユーノを見舞い、シャイラ戦死で騒然とした邸内で、アシャの代わりにユーノを見守っていたのだった。