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ゆっくりと、遠目にはことさらゆっくり遠ざかって行くような砂埃の雲が動いて行くのを、アシャはユーノが眠っていた部屋の窓から見守っている。
今頃ミダスの館ではリディノあたりがアシャの姿がないのに大騒ぎをしているだろう。
夜半何かに呼ばれたような気がして、それが他ならぬユーノの、それも救いを求める悲鳴だったような気がして、矢も盾もたまらず宙道を開いてきてしまったものの、前のように寝込みを襲ったなどと罵られてはそれこそたまらない、寝息だけ確かめて帰ろうと思っていた。
扉越しに苦しげな吐息を耳にして動けなくなり、入ろうか入ろまいか迷っていた矢先に誰何された。理由を聞かれなかったのは有り難かったが、顔を合わせてみれば、ユーノはいつものように百戦錬磨の戦士の落ち着き、深沈とした目でアシャを見上げてくるだけだった。
けれども、今思えば、確かにアシャは呼ばれたのだ。
『聖なる輪』(リーソン)が声を届けるということについて、あえて触れなかったことがある。それは、声が届くのは『氷の双宮』だけでなく、アシャや『太皇』にも届くということだ。
それを話すと、ユーノは呻き声さえ漏らさない、そんな気がした。ただでさえ悲鳴を押し殺す悲しい習癖の娘を、これ以上追い詰めたくはなかった。
(あれは…何だった?)
声とは言い切れなかった。
夢の中のユーノが、12歳の時のように背中から深々と切り下げられ、切れ切れの声にもならない叫びをあげ、血飛沫を散らしながらのめり倒れる。その、空気を震わせる音のない悲鳴が、アシャの心を抉り取っていった。痛みは未だ胸に痼っていて、許されるなら体を抱きしめ衣服を開いて、新たな傷がないことを隅々まで確かめたいほどだった。
今も目の奥に残る、朱に塗れたユーノの姿。背中を断ち割られたユーノの肌を、とめどなく緋色の滑りが伝い落ちる。乱れた髪の下、蒼白な顔にも次々と鮮血が筋を作り、ぐっしょり濡れた衣服から浸み出す血が紅い川を作り……それでも彼女の唇は固く閉ざされて誰の名前も呼ばなかった……。
「切ない眼をされておいでだ」
「…」
背後から声が聞こえて、アシャは振り返った。こちらを見つめている黄色の虹彩、名だたる野戦部隊の長、シートスの凝視を受け止める。
「一緒にユカルが行きましたが、構わないのですか?」
「…知っている」
もちろん、ユカルがユーノに想いを寄せていることも、と言外の問いにも重ねて答える。
「2人とも若い」
シートスが目を細める。
「戦いに疲れ果てた夜を慰めあっても不思議ではない」
「…だろうな」
じりりと胸の底を焼いた嫉妬に、心の中で唇を嚙む。
「追わないのですか」
「追って……ユーノが救えるなら、そうしている」
今、アシャにできるのはできる限りの手を尽くし、ユーノの負担をこれ以上増やさないようにすることだけだ。
(あいつは、『俺のもの』じゃない)
離れている、離れて行く、心も体も、その全てが。
「ユカルも物見とは言え野戦部隊、自分より先にユーノを逝かせはしませんよ」
「そう願いたいな」
ことば少なに応じて、アシャは窓際を離れた。空気が動いて、ユーノの匂いを今更ながら気づかせる。甘く熱っぽく、吐息を漏らした唇を吸い取りたい疼きを、首を振って追い払う。
「これから先は一歩も退けん。こき使うぞ、シートス」
「御意のままに」
微かな笑みを返して、シートスはアシャの背後に従った。