10
夜会は今、華やかさを極めていた。
別れの宴と知っているのはほんの一握り、多くは、今ラズーンが直面している危機に気づかぬ平和に慣れた人々、着飾った娘達は代わる代わるアシャに踊りの相手を求め、戦のことなら少々の無茶を平然とこなすアシャも、さすがに疲れてきていた。
「あら、どちらへ」
「少し涼みに…」
「すぐ戻っていらしてね、アシャ様」「本当にすぐよ」
「ええ。失礼します」
娘達の甘い笑い声を背中に、アシャは広間を出た。
他の男達はそれなりに楽しんでいる。これからしばらく色気も何もない殺伐とした争いの只中に飛び込むのだから、無理もなかろうと思いはしたが、アシャ自身はうんざりしている。そろそろ我慢の限界だ。
こんなことなら一人馬を駆り、長丈草の原でも巡っていた方が、どれほど気晴らしになるか。娘達の中でも気の休まる相手のレアナは、今はイルファの話し相手を務め、薄い青の裳裾を翻らせて人の間を縫っている。その姿を見るともなく眺めていたアシャは、レスファートがいないのに気づいた。アシャとは違って王子様育ちのレスファートのこと、この程度の夜会が苦手ということはないはずだが、と訝しんでいるところへ、声を掛けられて振り返る。
「アシャ」
「?……ユーノ…?」
「良かった。広間の中に居るようなら、レスに呼びに行ってもらおうと思ってたんだ」
夜闇から抜け出すように、ユーノはテラスの端に姿を現した。吹き寄せてくる風に髪をなぶらせながら、アシャの見ていた方向へ目を向ける。
「レアナ姉さま…?」
「あ…ああ…」
茫然とする。
てっきりベッドに眠っていると思っていたのに、淡く煙る薄物のドレス、そこかしこに華奢な手足を透けさせて、静かに近づいてくる姿は息を飲むしかない艶やかさで。
どうしてこんなところに、なぜそんな格好を。
尋ねてもいいはずの問いは口の中で熱に溶ける。
(こいつは……こんなに……きれい…だったのか……?)
麦の女王として着飾った時も、婚礼衣装をつけた時も、十分見事に装わせたと思ったが、目の前にいるユーノは、そんな別人のような綺麗さではない、どこからどう見ても、ユーノでしかない、けれど、ユーノの一番美しい部分を、アシャだけが見知っていた部分をあからさまに差し出されて、胸が苦しくなる。
胸に過ったのは手当した時の、何一つ纏わぬ姿だ。傷つきはしているがしなやかで熱い体、もっと強くもっと深くアシャの指と唇を誘う温もり、何か言いたげにちらりとこちらを見た瞳に意識が持っていかれそうになる。
「…そう」
頷いたユーノが、どこか寂しげな翳りを浮かべて、頼りない表情になった。目が離せない、口も開けない、両手を差し伸べて抱きしめたいのに、体が動かない。
「青だね。今日のドレス……綺麗だね、誰よりも」
「あ…ああ」
そうだ、誰よりも綺麗だ。
胸の内に溢れたことばが喉に詰まった。
そんな陳腐なことばで、この美しさを称えられるとでも?
広間の喧騒が消える。夜の闇が消える。黒い瞳が再びアシャを見つめ、ぞくりと背筋が震えた。淡く唇に笑みを浮かべる、再び夜会へ目を向けるユーノに、ただただ見惚れる。
「…うん。綺麗だ………姉さま。綺麗で優しくて……アシャ、目が高いよ」
「…ん?」
一瞬、奇妙な褒めことばが響いた気がして、アシャは我に返った。胸に溢れているのはユーノへの賛美だけしかないが、それを彼は一言でも口にしただろうか。あまりの衝撃に胸を突かれて、ただただ茫然と突っ立っていたように思うのだが、ユーノは何を褒めているのか。
どういう意味だ、と尋ねかけ、ユーノがじっと視線を送っている中に答えがあるのかと考え、アシャは広間に目を向けた。
相も変わらず甲高い声で笑う色とりどりのドレスを着た娘達、アシャの目には『しゃべり鳥』(ライノ)さながらの鬱陶しい光景だが、ひょっとしてまさかユーノは、あの娘達に寄り添う男達の誰かのために装ってきたのだろうか。
「ユー…」
声を掛けかけて振り向き、いつの間にかアシャを凝視しているユーノに気づく。瞬時に願った。
(時を、止めてくれ)
真っ直ぐで強い視線、光を帯びて鮮やかな黒、他の誰でもなく、アシャだけを見つめている瞳。
(誰でもいい、こいつが側に居る時を、俺を見上げている、この時のまま、止めてくれ)
強く祈る。
確かに抱きしめるどころか触れることさえしていない、2人の間には距離があり、互いの熱さえ感じ取れない。それでも、すぐにこの魂は走り出して行ってしまう。アシャのことも、己の命さえ顧みず、運命の中を駆け抜けて行ってしまうに違いないのだから。
アシャはユーノを知っている。きっと他の誰よりも、頬の滑らかさも、頸の細さも、傷跡走る体の熱さも、唇の柔らかさも気持ちの一途さも何もかも。なのに、この少女は、アシャの幼い所有欲を苦笑するように、いつもいつもアシャの腕をすり抜ける。
身動き一つできなかった。吐息を溢れさせる唇を、もう一度だけ奪いたい。けれど動けない。
腕なり足なり、どこか一つでも動かせば最後、この薄紅の少女の幻は、少年の猛々しさに変わってしまう。アシャを拒み、炎の中へその身を躍らせてしまう。
動けない。
何も言えない。
ただ願う、少しでも長く、この時が続いて欲しいとだけ。
遠くでジェブの葉鳴りがした。眠りから突然覚めたように体を震わせたユーノは、わずかに傾げていた首を戻し、瞳を伏せた。一瞬、泣き出しそうに哀しい、諦めを含んだ笑みを浮かべた気がして、どきりとする。
(ユーノ…?)
何かを待っていたような、とようやく少し頭が働いて、はっとする。娘が着飾って男の前へ現れたなら、ことばは一つしかない。ユーノの美しさに見惚れていたアシャは、まだ一言の賛辞も口にしていない。
「ユーノ、」
「アシャ」
言いかけて遮られ、アシャは口を噤んだ。
「姉さまと踊った?」
「ああ…?」
「…見たかったな、私。綺麗だっただろうね」
俯いたまま、けれど声は明るく続く。
「あなたが濃紺の長衣、姉さまが青いドレス、姉さまが光であなたが影。凄く似合ってただろうなあ……上手だったでしょう、姉さまのダンス」
「そう、だな」
アシャは戸惑う。
ユーノが着飾って来てくれたのはアシャのためではなかったのか。それこそ、セレド皇宮から離れ、皇女扱いも禄にされない姉を気遣って、あるいは故国で繰り返し見ていた姉の艶姿を見て懐かしさを味わうために、夜会に合わせた装いを選んで来ただけなのか。
ユーノの視界に入っていたのは、アシャではなく、唯一無二の存在、レアナだけだったのか。
(俺は…勘違い、したのか…)
「そうだな、って。セレドでもね、夜会のたびにほとんど皆から申し込まれてね、よく困ってたよ」
「そうか」
落ち込みながら、アシャはユーノがくすくす笑うのを見下ろす。
(こんなことなら…)
小さく拳を握る。
(先に誤解したまま…抱き締めておけばよかった)
「…姉さまの踊りが軽いでしょ、だから、どんな人でも上手く見えるんだ。姉さまは優しいから、結局その時もみんなと踊ったけど、後でさすがにくたびれたってこぼしてた」
「そう…か」
話し続けるユーノに唇が歪む。