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「ん…風が出てきたな」
ユーノの枕元に居たアシャは、窓から吹き込む風にユーノの前髪が揺れるのに気づいた。立って振り返り、窓を閉める。遠く響いていたジェブの葉鳴りがなお遠ざかり、部屋の中には規則正しいユーノの寝息が聞こえるのみだ。
「ユーノ…」
再び元の場所に戻って、ユーノの顔の横にそっと両肘をつき、低く呼びかける。
「そろそろ目を覚ませよ…俺の自制が切れそうだ」
灰色塔で2日2晩ほとんど不眠不休で策を練り、ユーノを送り出して2日、ユーノをミダス公の屋敷に連れ帰って2日、アシャは碌に休んでいない。如何に優しげな外見に似合わぬ強靭な体力の持ち主であるとは言え、この数日の心身の緊張と疲労は、アシャを眠らせるよりは過敏にさせ、張っているつもりの自制の糸はどことなく緩んでくる。
「………」
アシャはそっと右腕を倒し、指先でユーノの髪を探った。決して柔らかいとは言えない髪質、手触りも強いて求めるほどのものとは思えないのに、ほのかにユーノの温もりがあって知らず知らずに指を誘われる。
そればかりではない。惚れた娘の寝顔というものが、これほど男心を迷わせるものとは、アシャは今の今まで知らなかった。ユーノの寝顔を初めて見たわけではない、世に美姫と言われる女性達の甘い寝顔も、妖しく誘惑する瞳も満更知らないわけではない。
けれど今、ユーノの閉じた瞼の幼さも、吐息を紡ぐ唇も、時折苦しそうに寄せられる眉も、何もかもがアシャの心を誘ってあまりある。いつも抗って逃げかける唇と違って、今ならきっとそのままアシャのキスを受け入れるだろう。儚げな柔らかそうな膨らみも、アシャが望みさえすれば掌に包めるところにある。それだけではない、腕に全てを抱きしめられるほど近くに、ユーノの身体が無防備に晒されている。
「………」
アシャは髪をまさぐっていた指先を止めた。
「………」
唇に見入る。
拒まれたのは昨日のことだ。アシャに抱かれるよりはユカルをと、ユーノは無意識に呟いた。
今この機会を逃せば、この娘は永久に自分の手には入るまい。誰か他の男の(例えばユカルの)唇を受け、切なげ吐息ととものそいつの名前を呼ぶのだ。
(他の、奴の)
「…っ」
アシャは立ち上がった。慌ててベッドから離れ、背中を向け、扉に向かう。
急にユーノを抱きたくなった。ユーノの全てを奪い、他の男に攫われてしまう前に、細い首筋に自分の印を刻んでしまいたくなった。
扉の方へ一歩踏み出し、立ち止まり、静かに振り返る。自分の顔が歪むのがわかる。
ユーノは眠っている、穏やかに、安らかに、見つめるアシャの熱にも気づかず。
きっと永遠に、知ることもなく。
向きを変える。ベッドに近づく。ひどく揺らすことがないように、そっとベッドに腰掛ける。
「目を…覚ますなよ」
掠れた声で祈るように呟いて、体を倒した。手をユーノの両側につき、澄み切った泉の水に直接口をつけるように、額にそっと唇を押し当てる。汗をかいていて、しっとりと滑らかな感触に誘われ、頬にも唇を当て、顔を上げた。目覚めていない、瞬きもしていない、眠りは深い、とても深い。
「…」
少し唇を舐めた。僅かでも引っかかるような感覚があれば、きっと目覚めてしまうだろう。湿らせた口にユーノの香りがして、胸が苦しい。
(目を覚ますな)
祈りながら、キスを散らせる。軽く、ごく軽く、風が触れるよりも軽く、目元へ、頬へ、こめかみへ、耳たぶへ、顎へ、首筋へ、汗ばむ優しい甘い丸みへ…。
「ん…」
「っ」
微かな呻き声に気配を殺して身を引いた。眉を寄せて悩ましげな顔でユーノが顔を背け、再び顔を戻す。何か呟くように開いた唇が、小さな花のように見える。花芯を味わいたくて、頭が痺れる。
くす、とアシャは苦笑した。
「そこまで…挑発してくれるなよ…」
かなり限界が近づいている。両手首を押さえて貼り付け、容赦なく噛みつきたくなる感覚に息が乱れる。暴走に負けかけた寸前、顔を背けた。ユーノの頬に頬だけを当て、熱を帯びて弾む体を宥めつつ、静かに掛物の上から抱きかかえる。
じん、と響く痛みに視界が潤みそうになって、また笑った。
「……守って…やるよ」
低く微かに呟く。
「お前が戦うしかないのなら、俺が守ってやる……どこまでも」
聖女王。
『ラズーン』の行く末を、『泉の狩人』(オーミノ)の運命を、遥か遠くセレドの未来をも両肩に負って、傷つきながらも己の道を全うしようとする聖なる少女。
その瞳は振り返らない、涙を浮かべて懇願しない。その唇は繰り言を紡がない、弱音も吐かない、ただの一言も誰にも助けを求めない。鮮やかに微笑んで、眼下に口を開く灼熱の炎に翼を焼きながら、悠々と、なお悠々と命の飛翔に己を賭ける。
魅かれる、どうしようもなく、止めようもなく。
「ふ…」
「!」
ユーノが身動きしてアシャははっとした。さすがに起こしてしまったかと言い訳を考えつつ体を起こそうとした矢先、向きを変えたユーノの唇がアシャの頬に触れた。ぎくりとしたアシャは、次の瞬間、身体中が痺れるような甘い衝撃を味わった。
ア…シャ。
声ではなかった。声にはならなかった。が、触れたユーノの唇が、確かにそうことばを紡いだ。
(俺を…呼んだのか? ユーノ)
そろそろと体を起こしてユーノを見下ろす。華奢な肩から伸びたうなじ、頤、そして唇。
(もう一度、呼んでくれ、ユーノ)
悩ましい想いで願う。
(もう一度、俺を)
そうなればアシャは二度とユーノを離さない。組み敷いてでも腕の中に抱き込み、キスに応じさせてやる、たとえユーノが抵抗しようとも。
(ユーノ…)
息詰まる一瞬、自制心は針の上に乗っている。誰かの一押し、ユーノの一声で心は奔流となる。部屋の空気が甘いやるせなさで凝っていく。
「失礼いたします!」
「!」
不意打ちの声にアシャは我に返った。ベッドから滑り降りる。瞬時に恋の切なさは消えた。声音にただならぬものを感じた。大股に扉に歩み寄り、開け放つ。
「どうした?」
「お休みのところ…誠に申し訳…ありません」
乱れ切った髪、汚れた顔に必死の表情を浮かべた『銀羽根』の1人が息を切らせている。本来ならば、守りの数人を残して『銀羽根』は東の戦い、シダルナン、モディスンの連合軍1500名と『銅羽根』とともに参戦しているはず、そこにいる兵は守りの隊ではなかったはずだ。
「ぎ……『銀羽根』の長……シャイラ……戦死、いたしました!!」
泣くような男の叫びが一筋、ミダスの屋敷を駆け抜けて行った。