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「……」
アシャはユーノの目に浮かぶ利かん気な表情に、複雑な想いを抱いて黙り込んだ。
ギヌア・ラズーン率いる『運命』、その配下のガデロのネハルール、レトリア・ル・レのレトラデスが、それぞれジーフォ公の動いたのを見計らって動き出したと聞いたのが3日前、アシャが『泥土』から帰還して4日目のことだった。
ジーフォ公が行方をくらましたのを作戦の成果と信じ込んで、いよいよギヌアが本格的に手駒を動かし始めたことは明らか、その前にアリオ・ラシェットをアシャに奪回されているだけに、アリオが真相を告げてジーフォ公が分領地にとって返す前に、ジーフォ公分領地を制圧しようとしているのだ、と察しはついた。
モスのモディスン・ゲルン、グルセトのシダルナン・グルセト、べシャム・テ・ラのベシャオト2世が、『泥土』でアシャを討ち損なっている以上、ギヌアとしてもジーフォ公分領地は是非とも押さえなくてはならない陣、この一戦にかなりの力を注いでくるだろうことも予想された。
『ラズーン』側としても、ここは譲れない重要な拠点、決戦の手始めとしては十分すぎるほどの乱戦になるはずだ。
なのに、その場所へ、アシャはユーノを送らなくてはならなかった。
(くそっ)
本来なら、命に代えても守ってやりたいただ1人の娘だ。
だが軍師としてのアシャは、ユーノを使わずにこの戦いを勝利に導く困難さも見抜いていた。平和な治世に慣れきっていた200年余、夜闇に疾り牙を磨いて来た『運命』軍と『ラズーン』では余りにも力が違いすぎる。一つ崩れれば全体の士気に響き、一挙に押されて敗退していかないとも限らない。
殊に初戦なら、その敗北は後々まで戦いの流れを支配して行く。
人材が足りなかった。
ジーフォ公、テッツェをはじめとする『鉄羽根』は動かせない。まんまと誘き出された風を装い、わざわざ分領地から離してある。後々に投入することになろうとも、初戦で使うのは意味がない。
アギャン公グードスは継いだばかり、しかも、アシャ達に敗れたモディスンらがどこに潜んでいるかもわからないとあっては、分領地を離れるわけにはいかない。
同様にミダス公の『銀羽根』も、例の三角州で消えた軍勢の行方が掴めていない今、守りを緩めるわけにはいかない。加えてそこにはレアナ、リディノなど守るべき人間も多く、イルファが控えているとはいえ、襲撃の際どこまで持ちこたえられるかは疑問だ。
野戦部隊は遊軍としていつでもどこでも動かせるようにしておきたかったし、アシャはと言えば、『氷の双宮』に構え、『太皇』の守護と戦全体の読み取りをしなくてはならない。
頼みの綱はセシ公とリヒャルティ率いる『金羽根』だ。今回の戦いにもリヒャルティ、バルカ、ギャティを主力とする『金羽根』が出てくれることになってはいるが、セシ公は大公の裏切りと言う策謀の嗅ぎ出しに奔走しており、それでなくとも激動のこの時、分領地にも如何なる変が起こるかもしれず、放置するわけには行くまい。
各地に散った視察官は急には集結できないばかりか、ギヌアの手配りからして、同じく各地に潜んだ『運命』支配下の手に襲われている可能性もあり、セータのように状況は『ラズーン』に不利と見て、『運命』側に寝返っている者もいるかも知れない。
『泉の狩人』(オーミノ)は仇敵『穴の老人』(ディスティヤト)の復活に守りを固める必要があるだろう。
状況は、まさにユーノが指摘した通りだった。
それを認め、しかも自らの手で進めなくてはならない無情な策が、アシャは今更ながらに腹立たしかった。代われるものなら代わってやりたい。この数日、何度そう考えただろう。自分が傷つく程度でユーノが守れるなら、我が死を望むと祈ったぐらいでこの少女が救えるならば、アシャは存在する全てのものに祈っただろう。ユーノが一筋傷を負う代わりに、自分の片腕をもぎ取って行けと『死の女神』(イラークトル)に懇願しただろう、それこそ戦士の誇りも何もかも捨てて。
だが、運命は誰にも等しく顔を見せる。
『死の女神』(イラークトル)は迎えの時にたじろがない。
「…大丈夫だよ、アシャ」
まるで、それが自分を動かす全てなのだと確信するように言い放って、ユーノはにっこり笑った。
「大丈夫。やり遂げて見せる。だから、安心して」
それから一瞬ためらうように目を伏せ、
「もし、万が一…」
「何だ?」
「……ううん、いい」
首を振ったユーノが普段より一層幼く見えた。いつもより一層華奢に見えた。
「ユーノ」
「ん?」
「俺を、呼べよ」
「え?」
目を上げたユーノに、内に滾った想いを噴き出させまいと苦労しながら、アシャは繰り返す。
「何かあったら、俺を呼べ」
「…」
ユーノが物問いたげな視線を向けてくる。迷ったが、口にした。
「『聖なる輪』(リーソン)が俺を呼ぶから」
「え…」
ユーノは固まった。
「『聖なる輪』(リーソン)が…?」
そんなことは聞いていなかった。ひょっとして、夢の中で上げた悲鳴がアシャに届いてしまったのだろうか。それで、こんなに唐突に、アシャはここへ姿を現したのだろうか。
アシャは一瞬ためらったが、
「『氷の双宮』と繋がっているんだ」
「ああ、そう、なんだ」
なるほど、これが『正当後継者』に与えられるものならば、そう言うこともあるだろう。とすると、アシャが来たのは偶然で、ユーノの声が届いてしまったわけではないのだろう。
「いいな?」
「…」
「わかったな?」
「……うん」
ユーノは執拗に確認するアシャに、こっくりと頷いて見せた。
朝日がアシャの金褐色の髪を輝かせている。紫の瞳が黄金を帯び、妖しいほどに煌めいている。その全てを見つめて、一つ一つ心の中に刻みつけた。
「…じゃ、行くね」
「ああ」
アシャを部屋に残して、ユーノは歩き出した。背中に見送ってくる視線を感じる。心が泡立って蕩けそうになる。廊下を通り抜け、階段を降りて行きながら、耳の奥にアシャの声がこだましている。「俺を、呼べよ」「何かあったら、俺を呼べ」俺を……俺を………俺を。
『聖なる輪』(リーソン)に指を当てる。いつもの、指先から何かが流れ出して吸い込まれ、別の何かが輪から指先に戻ってくるような、見えないものが循環して行くような感覚があった。
とん、と最後の一段を下りきり、廊下を歩き、戸口に立つ。
開け放たれた扉、登りきった朝日は真正面からユーノを照らす。
(呼ばない)
胸で断言した。
「ユーノ!」
リヒャルティが駆け寄ってきた。その背後に『金羽根』の面々、平原竜に身を持たせかけた数人の野戦部隊が体を起こす。
(あなたの名前は呼ばない)
一人一人を見ながら、もう一度繰り返す。
(ううん、他の誰も……呼ばない)
「おはよう、リヒャルティ」
「遅いぜ! 待ちくたびれちまった」
「悪かった」
くるりと全体を見回す。男達の目には猛々しい喜びが光を灯している。
(それが私の運命だというなら、ただ、生き抜くまでのこと)
ヒストが苛立たしげに首を振る。合図を待ち構えている顔顔に、にやりと笑って見せる。
「揃っているようだね」
「おおおおーっ!!」
どよめき、馬具、剣の鳴る音。
戦いに赴く人間達の闇を、朝風が吹き抜けていく。