1
人は誰しも心の中に、愛と言う名の魔物を飼っている。
幼い頃、ジノの昔語りの中で聞いて、よく不思議に思ったものだ。
リディノにとって愛は救いであり慈悲であり、差し伸べる温かい手であり。問いかけ励ます優しい声だった。
愛は無償でいつも与えられ、何の見返りも持たず、ただ遥かな高みで輝く、眩いまでの美しさと神々しさを保っているものだった。
それがどうして魔物と呼ばれるのかと幾度もジノに問い、リディノより年下の、けれども彼女よりはるかに多くのものを見てきている若い詩人は、濃青の目をなお深く沈ませて、「それでも、人は自分が愛しゅうございますから」とのみ応じただけ、リディノの困惑は強まる一方だった。
だが、今こうして窓辺で1人、身近に居ながら心の触れ合わぬ男性を想う時、リディノの胸はそのことばに激しく震える。
(アシャ…アシャ兄さま……)
アシャがミダスの屋敷を出たのは数日前、気を失って未だ意識を回復しないユーノを抱いて戻ってきたのは昨夜のこと、西の戦いは見事にラズーンの勝利に終わり、アシャの肩の荷が少しは軽くなったことを、リディノは喜んでいいはずだった。大切なアシャ、大切なユーノ、双方とも大した怪我もなく、2人の無事に心から神に感謝していいはずだった。
だが、昨夜。
アシャの帰還を聞いて飛び出してきたリディノは、アシャの腕に抱かれているユーノを見て一瞬立ち竦んだ。華奢な体が紫の衣に包まれた腕で、如何にも頼りなく揺れている。胸元へ落とし込んだ顔には憔悴の色が濃く、ユーノがどれほど激しい戦いを生き抜いたのかまざまざと感じさせる。
けれどもリディノを竦ませたのは、ユーノの痛々しさではなかった。アシャがユーノを抱いている、いや、ユーノがアシャに抱かれている、その事実だった。
正視できなかった。
アシャがそっとユーノを抱き直す、その仕草の優しささえリディノの心に苦痛を与えた。そうしてリディノは、お帰りなさいと微笑むのもそこそこに、大騒ぎしているレスファートやレアナに場を任せて逃げ出したのだった。
「……」
リディノは窓越しにユーノの私室を眺めている。
昨夜からレスファート、イルファ、レアナが入れ替わり立ち替わり訪問し、医術師として当然とは言え、アシャがずっと詰めている。
遠いところでジョブの樹だろうか、鈍く緩やかな葉鳴りがしている。
(愛じゃない)
リディノは心の中で呟いた。
(これは愛じゃないのよ)
途端、胸にこれまでアシャと過ごしてきた月日が溢れ返り、リディノは思わず両手で顔を覆った。
(愛じゃない。これは、この想いは愛じゃない。私はただ、優しい兄を慕う妹のように、アシャを求めていただけなのよ)
では、この胸苦しい切なさはどうしたことだろう。
(愛じゃない、これは愛じゃない。ユーノを愛してるアシャ兄さまの心を無理やり私に向けるなんて、そんなものは愛なんかじゃない)
では、リディノはどうすればいいのだろう。
「………」
愛ではない。
何度もリディノが辿り着こうとした結論だった。見返りがない苦しさを感じるのなら、愛ではない、与えることしか望まないのが本当の愛、だが、だが………。
(アシャ…兄さま…!)
それでもリディノはアシャの心が欲しかった。ユーノに向けられる何万分の一でもいい、ユーノに注がれる視線のほんの一瞬だけでもいい、リディノのものとしたかった。
長い……長い恋だった。初めてアシャを見、黄金の髪の美しさに、紫青の瞳の深さに心奪われた時から、リディノの眼はアシャだけを追い、アシャだけを求めた。
「………」
リディノはもう一度、最後の賭けをするように、開かれているユーノの部屋の窓を、その向こうのアシャの姿を見た、心の呼びかけにアシャが気づいて応えはしないか、と。リディノとアシャを会わせた不思議な巡り逢いが、再び2人を運命の恋人同士として結びつけはしない、かと。
が、窓の向こうに人影は動かない。
「アシャ…兄さま……」
低く呟いて、リディノはゆっくり視線を巡らせた。その先、棚の上にぽつんと1つ、あの水晶の小瓶が置かれていた。