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灰色塔に最初の報告がもたらされたのは、その日の夕刻だった。
「…以上、現在パディス近辺に野営をしている者112名、『星の剣士』(ニスフェル)様、ユカル様、リヒャルティ様、皆ご無事です」
「よくわかった、下がって良し」
「はっ」
報告を受けたセシ公は、あいも変わらず平然とした表情で頷いた。ティスタンが一礼して立ち上がるのに微笑みを浮かべながら問う。
「お前はどうする、ティスタン」
「戻ります」
当然のことのように、ティスタンはきょとんとして応じた。
「パディスにはまだ『星の剣士』(ニスフェル)も、我らが長リヒャルティもおられるのに、私1人戦線を離れるわけには参りません。トライ、シオグも同様です」
「うむ。吉報を待つ」
「御安心を」
にっと不敵な笑みを返して、足早に立ち去るティスタンが広間から消えると、セシ公は前を向いたまま、誰にともなく言い放った。
「大したものじゃありませんか。850名を200余名で食い止めた腕は」
「…」
呼応するように、玉座の背後の垂れ幕から、深紫の長衣に身を包んだアシャは姿を見せた。
「軍を指揮するのは初めてでしょうに。それに『金羽根』のティスタンに、リヒャルティよりも先に名前を思いつかせ、その元へ帰ることこそ務めと信じさせる、そこまで人を魅き付ける腕……『星の剣士』(ニスフェル)を長にしたのは先見の明がありましたね。なのに、なぜ、あなたはここに止まられたのです、アシャ殿」
正面を向いたまま、淡々と続ける。
「この結果をあなたが予想していなかったとは思えない」
「確かにユーノはよくやった」
低い声でアシャは応じた。
「失った兵も、俺の策よりはるかに少ない……やるだろうとは思っていた」
「ならば、なぜ」
セシ公が前に回ってこないアシャを訝るように振り返る。
「もし万が一、とあいつは言った」
予想より好ましい結果を受け取ったにしては沈んだ声でアシャは応じた。
「もし万が一、と言いかけて、その先を続けず俺の側を離れた。俺を呼べ、と言ったが」
眉をひそめる。
「頷きはした、わかっているとは言った、が、あいつは俺を呼ばないだろう」
ユーノの瞳をアシャはまざまざと思い出している。同意をした唇も頷く仕草も、全てを裏切って黒の瞳は哀しく笑った、呼ばないよ、と。
(なぜだ、ユーノ)
アシャは胸で問いかける。
(なぜ、そこまで俺を拒む)
ぎりぎりと絞られるような胸の痛みに目を伏せる。
「戦には勝っても、ユーノが死ぬ可能性は山ほどある。その時、誰があいつの屍体を連れ帰ってこれる? これは初戦、動乱は始まったばかりだ。1人2人の屍に構ってはいられまい。そうした時に、あいつはただ長丈草の草波に埋もれていくだけだ、それこそ土と混じり合うまで」
心臓を鷲掴みにされた気がして、思わずことばを途切らせた。遠い昔に駆けた長丈草の原は悲しいほど広く、1人居るのは生ある者でさえ辛かった。その孤独の闇に、血に塗れて愛しい娘が捨て去られるままになる……それだけは耐え難い。
「…それに」
無言のセシ公に静かにことばを続ける。
「ユーノは軍を指揮するのは初めてだ」
「しかし、腕は立派に証明された」
「腕はな。だがあいつは今まで自分の命を盾にはしても、人の命を盾にしたことはなかったはずだ」
セシ公が軽く息を呑んだ。
「言い換えれば、人の命の重みまで請け負ったことがない……死者73名、その重みは負担にこそなれ、救いにはならない」
(ユーノ)
皮肉なことだった。人を守ろうとするが為、己の命を削って生きてきた娘が、より多くの命を救う為に他人の命を犠牲にする。守ろうとした腕が逆に、友人の、仲間の生を寸断する。戦というものが持つ二つの顔に、ユーノは今、引き裂かれそうになっているはずだ。
「そう…ですね」
憂いを帯びたセシ公の呟きに、アシャはしばし彼方を、遠く長丈草の海で戦う少女の面影を追った。そして、その側に居るだろう2人の男の姿も。
(ユーノと……ユカルと…リヒャルティ)
どちらか片方でもいい、ユーノの心の重荷に気づいてくれているだろうか。気づいて自分の口から命じなくてはならない死に傷むユーノの心を受け止めてくれるだろうか。もし、それができる男なら……それができる男が相手なら。
胸の中で2つの想いがぶつかり合っている。
1つはいつまでたっても受け入れられない自分への傷み、もう1つは今戦いに傷つき続けているだろう娘への傷み。
ある一瞬はユーノの痛みをわかってやり包んでやり守ってやってくれる男になら、彼女を任せてもいいと思う。ユーノが憩えさえするのなら、他のどんな男の腕だって構わないとさえ思う。
が、次の一瞬には、ユーノを抱く『ほかの男』と言う存在を考えるだけで、じりじりと心の奥底が灼かれていくような気がする。そればかりか、自分以外の腕でユーノが心を開くと言うことが、狂おしいほど苛だたしい。
耐えられない、と心が呟く。
どうして俺はお前の側に居られない。どうして俺は、お前を他の奴の腕に任せなくてはならない。全世界が救えたとしても、お前が死ぬなら、俺にとって世界にどんな意味がある。
わかっていたことのはずだった。策を練った時から、こうなることは予想していたはずだった。
だが、ここまで自分がユーノを求めているとは気づかなかった。
恋しい、切ない、慕わしい。想いを宿すことばが見つからない。
(何のことは無い、追い詰められているのは俺の方か)
アシャは苦笑した。
(『氷のアシャ』が聞いて呆れる)
「アシャ殿」
「うむ?」
「それだけではありませんね?」
「…」
無言のアシャに、セシ公は再び正面を向いて背中を向けた。
「こうしている間にも、私の背には冷たい汗が流れている…あなたの殺気を感じてね」
にやりとアシャは笑った。
たゆたっていた想いがくるりと反転する。
凍りつくほど非情な意志、ラズーンを崩壊させる全ての原因に向けられた殺意。
それがアシャのものなのか、それともアシャに植え付けられたものなのか、既に判別はできないが、少なくともアシャの中には、この世界を保つための仕組みが深く根を下ろしている。
「気づいていたのか」
二重の意味を込めて囁いた。
「見損なって頂いては困る」
セシ公が冷ややかに応じる。
「ジーフォとテッツェほど阿吽の呼吸はなくとも、仮にも『ラズーンの情報屋』と呼ばれている、『氷のアシャ』が恋しい娘への想いだけで動くなどとは思っていない」
「ほう?』
「四大公の裏切り……私の目付役はさしずめあなた、ですか」
問いにアシャは微笑したまま答えなかった。
裏切りと目付役。
それならばまだ、可愛いものだ。
「…私は裏切っていない」
「お定まりの美辞麗句か?」
「そうとって頂いても結構……先ほども言った通り、私は『情報屋』だ、不利な取引はしない」
「…期待しよう」
灯火に2つの影が揺らめいていた。