2
「…んっ!」
身体中を震わせ目を開ける。視界は闇、体を強張らせたままじっと目を凝らしていたが、やがてゆっくりと力を抜いて目を閉じた。噛み千切るほど強く噛み締めていた唇を開くと、とろりとした感触とともに血の味が広がる。拭うこともなく、ユーノは薄目を開けて脱力感に身を任せた。べっとりとした汗が体を濡らしている。右肩にはまだ、夢の続きの痛みが残っている。
「夢…か…」
ふと姿を探しかけて、ユーノは苦笑した。眉を寄せ、目を閉じる。
(誰を…探した…?)
切なさが波打っている。心臓の鼓動に合わせて、淡い紅がかった銀色の波が、いつか『狩人の山』の向こうで見た海のように、幾重もの波頭を輝かせて、暗い夜の中、限りなく押し寄せ続けている。浜に砕ける時、その波は深い溜息とともに、アシャ、と呟いた。アシャ……アシャ……決して呼べない、けれど誰よりも恋しいその名前を……。
「……」
部屋の空気が動いて、ユーノは目を開けた。
暗闇だった視界にはわずかな光が差し込み、『灰色塔』の天井の浮き彫りを浮かび上がらせている。
朝が来たのだ。
ユーノはむくりと体を起こした。
大丈夫だ、肩の痛みは消えている。
ゆっくり巡らせた目が、窓の外、雲の破れ目からじわじわと広がってくる、どこか猛々しいものを秘めた曙の光を捉える。
運命の朝が来たのだ。『運命』か『ラズーン』、雌雄を決する運命の手が動き出す朝が。
「…」
ベッドから滑り降りる。下着だけつけていたのを、膝丈の紺のチュニック、鎖帷子、腰に水晶の剣、額には『聖なる輪』を着ける。
微かな気配に振り返った。
「誰だ?」
決戦前の緊張は、燃え上がるはずの活気を結晶化したように冷静さに変えてくれている。殺意も敵意も感じないから、身構えることもなく、入って来た相手を迎えられた。
「俺だ」
「アシャ…」
さすがに少しびっくりした。
ここ数日、四大公と『太皇』との合議を繰り返していて、食事時にも顔を合わさず、ましてやここ、ジーフォ公分領地の『灰色塔』に来ていたのはユーノ1人、アシャはミダス公公邸を本拠として止まっているとばかり思っていた。
「…いよいよだな」
「うん」
なぜ来たのかをアシャは口にしない。ユーノもあえて尋ねなかった。
辛い夢にうなされた後だけに、アシャの声が染み込むほど優しく聞こえる。どんなことばでもいい、このまま出陣までのひと時、アシャの話す声だけを聞いていたいと切なく願う。
「大丈夫か?」
ふいとアシャがユーノを覗き込んで来た。今は青紫に輝く瞳に、温かな心配を読み取って、思わずうっとりと見入ってしまう。
「うん……」
頷いて我に返り、にやりと不敵に見えるように笑って見せた。
「大丈夫、やってみせるよ。『星の剣士』の名前は伊達じゃないしね」
「本当は、お前にこんな役をやらせたくないんだが」
アシャの瞳はますます深さと甘さを増していく。飲み込まれそうになって、慌てて目を反らせ、髪を掻き上げた。なお短く切った髪は、今は首に少しかかる程度の長さしかない。もうちょっと長いほうがアシャは好きかなと考え、追い払うようにくすくす笑った。
「今更何を言ってるんだよ?」
上目遣いに睨んでみせる。
「ボク以外に、誰が動けるって言うんだい?」