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「いいところまで行ったのにな、惜しかった」
さっきまでのうろたえぶりは何処へやら、悠然とした表情でネハルールが馬を降り、倒れているユーノに剣を突きつける。
「ユーノ・セレディス……女にしては大したものだよ。だが、女というものは、やはり屋敷の中でおとなしくしている方が可愛げがあるな」
嘲笑いながら、獲物を仕留めた猟師よろしく、見下ろすようにユーノの側に立った。
間違いだった。
ネハルールは、ユーノがアシャの、つまりは当代随一の視察官の薫陶を受けた愛弟子だとは夢にも思っていなかった。だからもしそれを知っていなかったら、決してしなかっただろう2つのヘマをやってのけてしまった。
1つは倒れたユーノを侮って、馬から降りてユーノの側、彼女の攻撃範囲に自ら飛び込んでしまったこと。もう1つは、ユーノの手から武器を取り上げる前に勝利を確信していたことである。
「どうだね、もう諦めて降参…」
「なんかしない!」
「ひっ」
ネハルールのことばを遮ってユーノが叫び、同時に彼は思い切り足を払われて前のめりになった。攻撃とも言えず我が身を支えるためだけのようにおざなりに突き出した剣は、誰もいなくなった大地をぐっさりと突き刺し、引っ張られて伸びきった体はもう、ユーノの一撃を防げなかった。
「ぎゃあああああああ!」
「ネハルール!」
すぐ近くで聞こえた声に振り返ったユーノは、赤銅の鎧と被り物、朱のマントに飾り紐の武人を認めて、水晶の剣をネハルールから引き抜く間も惜しく、地面に転がった。
(レトラデス?!)
刺し貫かれる可能性を考えてのとっさの動きだったが、相手は既に反撃する気力を失っていたらしい。
「ひ、退けーっ!!」
うろたえて向きを変え、大声で命じる。あちらこちらで塊になって縺れ合っていた『運命』軍が、自軍の大将の1人が殺され、1人が自ら戦場から逃げ去ろうとしているのを知って、戸惑い混乱し慌てふためきながら戦線より離脱し始めた。それを追おうと『金羽根』が動き始めるのに、ユーノははっと我に返った。
「追うなっ!!」
疲れ果てて掠れる声を、それでも精一杯張り上げる。
「追って、消耗するんじゃない!!」
びくりと『羽根』の面々が振り向いた。歪む顔を堪え、潮が引くように去っていく『運命』軍との境界から、三々五々、生き残った者がユーノの元へ戻ってくる。
「ユカル!」
「大…丈夫だ」
左手を赤く汚れた布で縛ったユカルが、青白い顔に笑みを浮かべる。
「リヒャルティ!」
「生きてるぜ、何とか」
血と汗と埃にまみれた金髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、リヒャルティも戻ってきた。軽く右足を引きずっている。馬はどこかで殺されたのか、姿はない。
「各隊、状況を知らせよ!」
休む間も無く、ユーノは点呼を命じた。疲れた、どれでもどこかまだ血に飢えているような猛々しい表情を浮かべた男達が、やはり血に塗れたユーノの姿に微かに眉を寄せながら、次々と死傷者の状況を伝えてくる。
総数112名。野戦部隊1/5、『金羽根』1/3、平原竜5頭、騎馬50数頭が、死亡もしくは傷のため戦線より離脱。
「対して、敵は200名前後が離脱したものと思われます」
報告を聞きながら、喉が詰まった。半数近く失っても、敵は1/4ほど減ったに過ぎないのだ。
(生き残れるか?)
迷う心を呑み込んで、ユーノは顔を上げた。自分を見ている1人1人の兵を見返す。ユーノのことばを待っている顔だった。
「よく……守れたと思う。みんな、よく……生き残った」
薄暗くなっていた男達の顔に微かに明るさが戻り、誇らしげな表情が浮かんだ。
「負傷者は灰色塔へ送り返す。ティスタン、トライ、シオグ、あなた達に任せる。セシ公への報告も頼みたい」
「はっ」
「死者は野辺送りに……連れ帰ってやりたいけど、今は無理だ」
脳裏にガイルの顔が過った。『星の剣士』(ニスフェル)、俯いてちゃダメだ。顔を上げて前を向けよ。通り過ぎた敵は追いつけないほど走ればいい、前からの敵だけ狙うんだ。過去から笑う顔が胸に堪える。
心の中で声がする。
逃げるな。負い目があるのは事実。だから、その負い目から、逃げるな。
「ユカル…頼める?」
「ああ」
にっと不敵な笑みを返す相手にほっとする。
「後の者は野営の準備を。今夜はここで留まる」
注目する目に、ユーノはくるりと背中を向けた。ヒストが戻ってきている。心配そうにユーノに鼻面を当て……不意に自分の体が小刻みに震え出すのを、ユーノは痛いほど感じた。