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残されたギヌアは再び黒の玉座に戻り、どこか虚ろな表情で腰を落とした。目を閉じる。周囲の闇よりも、もっとねっとりと濃い記憶の闇の中、遠くに金の輝きが見える。
「アシャ…」
呟いた声に、光は見る見る視界に広がった。金の髪……日差しにだけではない、月光にも灯火にも、輝きを減じることのない黄金色の髪……その下に、宝石をも凌ぐ深い輝きを宿す紫の瞳がある。追い詰められてもたじろがずにこちらを見据える、万に一つの可能性に己の全てを注いで悔いない、意志に満ちた強い瞳。
ギヌアが初めて『氷の双宮』に入ったのは5歳の時だった。類い稀な天与の才、賢さ、冷ややかな美貌といった、当たり前の家なら喜び讃えられるはずの要素のために、ギヌアはずっと嫉妬深い家中から厄介者扱いされていた。それ故にねじけていた心さえ、出会った瞬間に我を失わせるほど、アシャは美しい少年だった。
今も思い出すことができる。
アシャは『氷の双宮』の白い柱に凭れ、片手に立風琴を抱き、指先で退屈そうに弦を弾いていた。ギヌアが入っていくと、ちらりと見た瞳に素直な好奇心を浮かべて立ち上がり、きびきびした調子で「新しい後継者なのか」と問いかけてきた。並外れた美貌に、この世ならぬ者に問いかけられた気がしておどおどと頷くと、相手の端麗な顔が輝くばかりの笑みに変わった。無造作に手を差し出し、ギヌアの手を引く、その仕草さえも絵のように綺麗で、引っ張り回されるままにギヌアはアシャの後について回った。
アシャは随分と昔からここにいるようで、建物の詳細な作りまで熟知していた。ようやく口がきけるようになったギヌアが、君も後継者なのか、と問うと、曖昧な謎めいた笑みを紅の唇に浮かべて、それには答えなかった。
他にも数人、ギヌア同様の後継者はいたが、アシャはどこか何か違っていた。他の者に比べると恐ろしく無欲で、書物は好んで読んでいたが、後継者としての学業に加わることは珍しかった。年長になるに従って、他の者が地位に恥じない服装をしたがったのに、アシャはいつも地味な茶色か紫、紺の飾りさえない長衣一枚で、神殿の床に無造作に寝転んでいることも多かった。
だが、その才能が並々ならないものであることは周知の事実で、後継者の誰一人、アシャには敵わなかった。書を諳んじれば、その場で詩歌に組み替えることが出来、剣をとれば傷一つ負わずに相手の武器を取り上げることが出来た。
ただ、ギヌアは、その才能あるアシャが、時折疲れ切ったように物憂く、床に就いていることを知っていた。いつだったかアシャを探していて、その場に出くわし、慌てて起きあがたアシャの白い胸元にくっきりと緋色の筋が刻まれているのを見たことがあった。今思えば、アシャは既に『太皇』から第一正統後継者として、特別な訓練を受けていたのだろう。
なのに、それほどまでして『太皇』が手塩に掛けて育てた第一正統後継者は、易々と『ラズーン』を捨てると言った。自分には必要がないものだと。ギヌアが喉から手が出るほど望み、血を吐くほどの努力を重ねて、必死にすがりつくその場所をあっさり振り捨てて、ギヌアさえも振り返らない。
ずきり、と右胸の下の古傷が痛んだ。遠い昔、剣の稽古を『ちょっとばかり』本気を出したアシャにつけられた傷、あの時アシャは心配して、一晩中ギヌアの側についていてくれた。長い夜、灯火の明かりに照らされたアシャの金の髪を見ながら、側に誰かがいるというのは、これほど心が落ち着くものなのかと考えていた。疼く傷、発熱する体、取り替えられる額の冷たい布、温かいスープの匂い、含ませてくれた優しい指先に支えられた匙……。
だが。
(俺とお前は交わらぬ)
いつから分かれ始めたのかは知らない。気づいたときには、2人の距離は離れていくばかりだった。互いに相手の姿は見えていた、離れていくことは知っていた、けれどもついに、二度と歩み寄れなかった。
それは、互いの間にある埋め難い裂け目だった。
斯くしてギヌアは『ラズーン』を手に入れようとして『運命』へ、アシャは『ラズーン』を捨てて唯一の『正統後継者』へ、望みを嘲笑うように運命は2人を分けた。
「闇を制すぞ、シリオン」
ギヌアは、もう側に居ないシリオンに向かって、低く呟いた。
「闇をこそ、な」