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「…」
「まだ怒っているのか」
「存じません」
灰色塔の上層部の客室で、ジーフォ公はアギャンから連れ戻されてからずっと機嫌の悪いアリオ・ラシェットを持て余していた。
艶やかな黒髪に縁取られた気位の高そうな横顔は、つんとしたきつい表情になって、窓の外、果てなく続くかのように見える長丈草の草原を見つめている。
「アリオ…」
「馴々しくお呼びにならないで」
ジーフォ公らしくもないおどおどした声に、アリオはきっとした目を向けた。
「あなたは、私とのただ一つの約束さえ守れない方なのね」
「……」
「私があなたのところへ行く、とお答えした時、あなたは何とおっしゃられました?」
緋の唇がアシャという極上の獲物を捉え損なった口惜しさに震えながら、ジーフォ公を責める。
「俺はお前を縛ることはない。お前が誰を愛していようと構わない、ただ、俺の側に居て欲しい……あのことばは単なる儀礼でしたの?」
煌めく黒の凝視に、ジーフォ公はゆっくり目を伏せた。
「儀礼ではない」
低く答える。
「本心だ」
言い切ってしまう自分が腹立たしく、ジーフォ公は籠った怒りに唇を歪める。
「お前は美しい。お前がアシャに魅かれているのもわかっている」
「私が、ですって?」
アリオは眉を吊り上げた。
「ご冗談をおっしゃらないで。私がアシャに魅かれてる?」
「違うのか?」
「違いますわ。私はただ……思い知らせてやりたいだけですのよ」
「何を?」
訝しげに眉をひそめるジーフォ公に侮蔑の笑みを投げて、アリオは続けた。
「あなたに申し上げてもお分かりになれないでしょうね、女の心の細やかさなどは。でも、これだけははっきり申し上げておきますわ。私は、アシャに魅かれているのではなく、あの方に思い知らせてやりたいだけなのよ。女の心を傷つけたということが、どれほど重い罪なのか」
言い捨てて、くるりと背を向けたアリオの後ろ姿を、ジーフォ公はじっと見つめた。
思い知らせてやりたいだけだ、魅かれてはいないと言いながら、アシャの名前を口にする時、アリオの黒い瞳がどれほど切なげに光を宿すのか、ジーフォ公はありありと見て取ることができた。そして、恋する者の過敏さで、アリオがアシャのことを『あの方』と呼ぶ口調の甘さも感じ取っていた。
敵うわけがないとわかってはいた。一方は都中の貴婦人をして騒がせた金の光の少年、一方は剣を取り野を駆けることしか知らない無骨者。アリオが己に傾くことはないと知りながら、それでもアシャに拒まれたアリオを望んだのも、恋する者の愚かな打算だった。
叶うわけがない、ないがそれでも惚れている。
その一言が、アリオに所有欲としかとられないのが、ジーフォ公には辛かった。
「…ジーフォ公」
「うむ?」
「もし、私に少しでも済まないとお思いでしたら」
アリオはゆっくり振り返った。禍々しいような笑みを浮かべる。
「私とあの方を会わせて下さいましな」
「っ」
「元はと言えば、あなたが邪魔なさった私の復讐…手伝ってくださるのが婚約者というものではありませんの?」
「……わかった」
苦い顔で、ジーフォ公は頷いた。