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腕が貼り付いていた。
暗闇の中、周囲に遮るもののない平面に、朱に塗れて貼り付いていた。
引き毟られたような断面からは、今もぬったりと毒々しい紅が浸み出し滴り落ちている。悲鳴を上げたようにこわばった指先にも紅は滲み、すでに持ち主から離れてしまったそれに、かすかな命の匂いを残していた。
ぐったりと横臥していたユーノは、ひくりと震えた自分の片手の指の動きを合図に、のろのろと体を起こした。視界が角度を変えてゆき、黒の壁に貼り付いていたような千切れた腕が、実は同じ平面に転がっていたのだとわかった。
その腕の持ち主をユーノは知っていた。どちらかと言うと細身の、華奢な造りの手首、男にしては細くしなやかすぎるその指は、紛れもなく自分のものだった。
(う…ぐっ)
動くと吐き気が込み上げた。胃の腑を押し上げてくるものは塊にはならず、歯を食い縛ったユーノの口元を熱く濡らして伝い、倒れていた平面を鮮やかな朱に染める。
めまいが襲い、再び頭を落とす。パチャ、と吐いた血溜まりに歪めた片頬を浸す。
逃げなくてはならなかった。追手はそこまで来ている。こんなところで気を失っている場合ではなかった。
もう一度、力を込めて平面を突いた手に、まだ、剣があった。薄紅に染まり、なお蒼みを失わぬ水晶の剣……『泉の狩人』(オーミの)の長ラフィンニより、聖女王として受けた剣。
逃げるわけにはいかない、と何処かで声がした。逃げるわけには………何故ならば、自分の背後には無数の人々の、無尽の祈りがあるのだから。無数の人々の、無限の幸せがあるのだから。
(っ!!)
不意に足音と声のない哄笑が響いた。
平面を振動が伝わってくる。体を硬直させた時には遅く、ユーノは裂かれた左の肩口を掴まれて仰向けに転がされていた。意識を千々に砕け散らせる激痛、暗くなった視界の向こう、姿なき人の気配が殺気を籠める。そして、それは次の瞬間、ユーノの自由な右肩を深々と刺し貫き、平面に縫い止める剣の刃となって襲いかかっていた。
(は、ううっ!!)
体が跳ね上がって落ちた。突き刺した剣を握っている手は闇の色、気配が笑う、動けまい、と。
胸を傷つけているようだった。咳き込み、痛みに身もがいたユーノは、口から溢れた血を必死に吐き出した。喉をねっとりと鮮血が濡らす。背けた目に、右肩が見る見る緋色に濡れていくのが映る。
朦朧とする頭に不思議に鮮やかなのは金の髪だった。
(……)
喘ぎながら、金髪の陰の瞳をユーノは切ないほどに求めた。
助かるとは思えなかった。あたりに散った血、転がっている片腕、傷口は滅茶苦茶になっているに違いない。右肩を貫かれる時に受けた殴打で肋骨あたりの骨が折れたのか、右胸のあたりで鈍い音が響いている。その痛みさえも遠い疼きにしか感じないほどの激痛………名前を呼びたかった。息がある間、声が出る間に、ただ一人の『あの人』の名前を、声が途切れるまで呼び続けたかった。
だが、その名前が思い出せなかった。あるはずの名前、忘れるはずがないその名前が、胸の裡から奪い去られていた。ただ、心に残っているのは金の影、涼やかに、時に熱情込めて深くなる至上の紫の瞳……。
(あ…!!)
ぎりっと右肩を貫いた剣が回って、ユーノは声をあげた。悲鳴を噛み殺すことさえできなかった。弱々しく闇に吸い込まれていく声、だがそれと引き換えにするように『その名前』が戻って来た。
『アシャ・ラズーン』
(だめだ)
だめだ。その名前を呼んじゃいけない。その名前には封印がある、レアナと言う名の甘い封印が。
(っっっ!!)
再び剣が捻られた。右肩のささくれだっている。白く絡んでいるのは肉の筋、抉り出されようとしているのは折れた骨だろうか。
ぴくっと右手が剣を握り締めた。ゆるゆると上がっていく手首を他人のもののように見つめる。
根元の肩を貫かれているのに、何をしようと言うのだろう、この体は。何を求めて、まだこんな風に戦う意思を見せつけるのだろう。右肩が剣を這い上がるように、より深く貫かれながら起き上がっていく。勢いに押されたのか、背後の平面まで届いていた剣の先が抜け、その次の瞬間、右手は手首から跳ね上がりながら閃光のように目の前の闇を抉った。
絶叫が上がった。狼狽する敵から怯えが広がり、剣から力が抜けた。急所を襲撃されて、背後に崩れ落ちていく。上がっていた悲鳴が途切れて消える。
初めて、自分の唇が綻ぶのを感じた。
(これで、一人分は、あなたを、護れた)
力が抜けた。澄んだ音を立てて手にしていた水晶剣が落ちた。倒れたかったが、右肩を貫いた剣が刺さって倒れ込めなかった。衝撃が剣を叩きつけ、体を震わせる。もう声も出なかった。紅に染まる視界の隅から、新たな追手の気配が滲んでくる。ユーノは動けない。追手は迫る。次にえぐられるのは胸か腹か首筋か。
「!!!!」
凍てついた一瞬の後、総身に突き立つ剣に、ユーノは声なき悲鳴を放つ………。