蟹、見たくない? 後編
サービスエリアでソフトクリームを食べてからが、長かった。
再び車に乗り込み、両脇に牧場やゴルフ場を見ながら太平洋側に向けてひたすら進む。
運が良ければ、
「あ、飛行機!」
空港を離発着する飛行機が間近で見られる事もある。
「あ、牛!」
「うん、さっきもいたね」
陽光に屋根を煌めかせる牛舎がずらりと並んでいるのは壮観だ。
「あっ、馬いた馬……っ!」
綸子は一人で騒いでいる。
「あー、もう見えなくなっちゃった……スピード出し過ぎじゃないの……?」
「……高速だからね」
北海道らしいといえばらしい感じの光景が、しばらく続く。
ま、こっちは運転に集中しているのでほとんど見られないけど。
「……ねぇ、高速なのに全然着かないじゃん」
「そりゃ距離が長いからよ」
お嬢様が飽きだした頃、道は右側に大きくカーブし始める。
付かず離れずで並行していた36号線も、一緒に曲がり、以降はほぼ海岸線に沿うようなルートになるのだ。
紅白の煙突が現れる。
製紙工場を中心に細長く広がる市街地が眼下に見えた。
私は「どこで降りるの?」と確認する。
「……次で降りて」
「え、次でいいの?」
思ってたより手前だが、綸子は「うん」と頷く。
「36号線の横って線路でしょ?」
室蘭本線の事だ。
「そこの駅に行きたい」
「……分かった」
この辺りで駅と言うと、あれ----結構あるような----?
「で、どこの駅なの?」
「えぇと……工場の前にあって……古い駅……」
いや、今日び室蘭本線の駅なんてどれも古いのですが。
(工場の前……って、この先大きな工場があるのは……)
ETC専用の出口をそろそろと通り抜けながら、私は眉間に皺を寄せる。
前にも後ろにも車はいない。
「……あ」
「分かった?」
綸子が私の顔を覗き込む。
「分かった気がする……」
でも、と私は心の中で続けた。
その駅の話題は最近新聞で見た気がするけど、確か、今はもう----。
「……ここ? ホントにここがあの駅……?」
私達がチャンプ号を停めたのは、製紙工場の前だ。
ここにも紅白の煙突が聳えている。
広い敷地に何本もの煙突やタンクがひしめき合っていて、その前を室蘭本線の線路が国道との間に横たわるかのように伸びている。
でも、私達二人以外は誰もいない。
日曜日の工場前は、とても静かだ。
「……もう、なくなっちゃったんだ……?」
「うん、去年の暮れくらいに取り壊したみたい」
工事中の柵で囲まれた駅舎の跡を、少女は茫然と眺めていた。
「……また新しい駅舎を作るんだって」
「……そう」
ここにあった駅舎は、実は結構有名だったりする。
この製紙工場が完成した当時、ここにはまだ駅はなく、製紙会社の社員の通勤専用として駅が作られ、そのデザインの珍しさから全国的に有名になったのだ。
「出来たのが昭和40年くらいだっていうから、かなりボロボロになってたみたいね」
綸子は応える代わりに、足元の小石を蹴った。
「……戻る?」
「うん」
駅そのものではなくて、駅舎が見たかったのだろう。
(でも、そういうのが好きって感じにはあまり見えないのが不思議なんだよな……)
「じゃぁ、このまましばらく走って」
「了解」
何も余計な事を聞かないのも、私の仕事の一つだ。
再び36号線に戻り、左手に海とコンクリート工場を臨みながら走る。
少女は窓に張り付いて何かを探している。
「……蟹、もうすぐ見れるよ」
「蟹? あ、あぁ……蟹ね」
言われるまですっかり忘れていた。
しかし、道路で見る蟹ってなんだよ----。
「……あっ、あれ! あそこ!」
「……?」
指差す先には、巨大な鮭と、熊。
「……あれ?」
綸子が怪訝そうな声になる。
信号が赤になり、私はブレーキを踏んだ。
道路沿いに点在する蟹の直売レストランだ。
色とりどりの幟が並び、ちょうど観光バスからぞろぞろと団体さん達が降りて来るところだった。
「……蟹、いなくなっちゃった」
「へ?」
そうこうしているうちに、青信号になってしまった。
「……真っ直ぐ行って」
「わ、分かった……」
綸子は窓の外を見たままだ。
道路脇の飲食店が少し増え、賑やかになる。
この近くには確か温泉街もあるはずだ。
「ここって私が言ったら停めて」
「……早目に言ってね」
と、言った途端に、
「ここ……っ!」
いきなり叫ぶ。
「え、えっ!? これ!?」
海岸を背にぽつんと建つ----それは、どう見ても廃墟の店だった。
そして、あっと言う間に通り過ぎてしまった。
「やってないでしょ!?」
「やってる!」
憤然とした声で、少女は両拳を握り締めて叫ぶ。
「まだ……っ、やってるんだってばっ……!」
「わ……分かったってば!」
車が少なくて良かったと思いながら急いでUターンする。
「……このお店で間違いないのね?」
「うん」
その店は、奇妙な外観をしていた。
子供が段ボールで作った王様の冠みたいな、屋根の部分だけ大きくギザギザした円形の建物なのだ。
赤い屋根に白い壁で、店名の代わりに『かに料理』と赤字で書いてある。
周囲に大きく窓が開いていて、店内どころか向こうの海の青まで見えている。
そして、その割にお客の姿はなく、電気も点いていない。
(マジか……)
だけど、少女は決然とした足取りで暖簾も看板もない入口に向かった。
「すみませーん」
入口は開いているが、返事はない。
店の中は、中心が厨房になっていて、その周りを囲むような感じで座敷席があるけれど、人影は全く見えない。
「すみませーん!」
もう一度、少女は叫ぶ。
「……食べに来たの?」
いきなり厨房から人影が現れた。
「お客さん、二人?」
「はい!」
店主らしい小柄な老人が少し驚いたような表情で私達を席へと案内してくれる。
いやいや、驚くのはこっちの方だと思うのですが。
「かにめしでいいかな?」
「はい!」
メニュー表は張ってあるけれど、今はかにめしだけしかやっていないと言う。
それは全然構わないので、私達は出されたお茶を飲みながら、かにめしが出て来るのを待つ。
入ってみると窓が大きいお陰で、思ったより店内は暗くない。
年代物のポットや花瓶が厨房のぐるりに積まれ、下には観葉植物の鉢が所狭しと置いてある。
(……な、なんだろう……落ち着かないけど、落ち着くっていうか……)
綸子は、頬杖をついて海を見ている。
厨房では店主が忙しそうに動いている。
(……海、綺麗だな)
ふと思い立ち、私はスマホでさっきの蟹の直売レストランについて検索してみた。
(そっか、あの大きな熊と鮭以外にも蟹がいたんだ……)
数年前の台風か何かの際に飛んでしまい、撤去されたという記事を閉じ、私は防波堤に当たる波が白い飛沫を立てているのをぼーっと眺める。
「はい、お待たせ」
かにめしと、お味噌汁と漬物が目の前に並べられる。
「いただきます」
「いただきます」
かにめしは初めから蓋のない赤いお重のような容器に入っている。
ほぐした蟹の身と、あと、タケノコとシイタケを煮たのが大胆に盛られている。
(お味噌汁は……海藻っぽいな)
駅弁のかにめしなら何度も食べているけれど、こうやって食堂で食べるのは初めてだ。
(あ、あったかいご飯で食べるの、美味しい……!)
ほかほかのご飯と蟹のほぐし身は、想像したより合う。
(それに、このタケノコも……合う!)
ご飯と蟹のほぐし身という、ちょっと歯ごたえとしては物足りなく感じがちなところへ、柔らかく煮たタケノコが変化を付けてくれるのだ。
シンプルな蟹の味を邪魔せず、でも、醤油の甘辛い風味がアクセントを加えてくれるという、絶妙のハーモニー。
「お味噌汁も美味しいね」
「うん」
何よりも、海の味を頬張りながら眺める外の景色が素晴らしい。
(なんだか、すっごい贅沢な気分になるなぁ……)
ふと綸子の顔を見ると、かにめしを頬張りながら、ぽろぽろと涙を零していた。
「……え、どうしたの!?」
「なんでもない……!」
そう言うなら、何も聞かない方がいいんだろう。
「……美味しい」
「うん、美味しいね」
店内は、もちろんBGM的なものも何もなくて、私達の味噌汁を啜る音と綸子のたまに鼻を啜るズッという音だけが聞こえていた。
「これで一人前500円でいいんですか!?」
「いいんですよ」
最後の最後にその安さに驚き、私は恐る恐るウイッグを付けて店の前で写真を撮ってもいいかという珍妙な申し出をしてみる。
「どうぞどうぞ」
本当に不思議なお店だ。
このお店の中では、出るのが名残惜しくなるくらいにゆったりとした時間が流れている。
「ありがとうございました。また来ます」
「あ、ご飯なくなったらもう閉めちゃうからその時はごめんね」
にこにこしながらそう言われ、店を後にする。
「……蟹、美味しかったね」
「うん」
高速に向かいながら私はそっと少女の顔を見た。
まだ少しだけ目が赤いように見えたけれど、よく分からない。
私は、運転に集中する事にした----。