蟹、見たくない? 前編
「綸子様がお元気そうで、わたくしも安心いたしました」
私の淹れた玄米茶をくいっと飲み干して、スーツ姿の品の良いご婦人----もとい、秘書の鴨嶋さんは満足そうに頷く。
「もし綸子様に何かあったら、このわたくし、死んで旦那様にお詫びしなければと覚悟を決めておりましたもので」
(は? 今って何時代だったっけ……?)
耳を疑うような怖い科白が聞こえた気がしたけれど、私は、取りあえず、はははと無難な愛想笑いをしただけだった。
心の平静を保つのにはこれが一番だ。
私だって、ダテにOL生活を続けている訳ではないのだ。
とはいえ、こういう抜き打ち検査みたいのは、めちゃくちゃ心臓に悪い。
土曜日の朝だからいつもより遅く起きて呑気にパジャマのまま朝食を食べていたら、これである。
いや別に、見られて困るような物とかはないからいいんだけど。
遮る物のない窓から差し込む春の陽射しは、私がもし猫だったらもうここは天国だと思い込んでしまうだろうほどに温かくて、明るい。
しかし置いてあるのはテーブルセットとあと、人をダメにするソファに似たソファだけだ。
どこからどう見ても、独身女の味気ない一人暮らしである。
(いやまぁ、鴨嶋さんだって、そんな本気で私と綸子ちゃんが、その……爛れた生活的なアレやコレをしているとは思ってないだろうし……いや具体的にどんなのかと言われると私も分かんないけど……)
私と蓮見綸子が偽装同棲を始めてから三週間目。
特に、変わった事はない。
「綸子ちゃんの部屋には行かなくていいんですか?」
「ええ、綸子様のプライバシーは絶対に守るようにとの旦那様の御意向ですので」
なら私のプライバシーは守られなくてもいいんかい。
心の中で突っ込みながら、私は鴨嶋さんを玄関まで送る。
「綸子ちゃんのお父様、綸子ちゃんの事信頼されてるんですね」
何気なくそう言うと、鴨嶋さんは一瞬足を止めた。
「……そうですわね」
「……?」
どこか遠くを眺めているかのような呟きが返って来て----。
「信頼は……する事もされる事も、とても大事ですわね」
コートに袖を通し終わった鴨嶋さんは、元の鴨嶋さんに戻っていた。
「では、くれぐれも綸子様をよろしくお願いしますよ」
「あッ、はい……」
(あれ、何だったんだろう……?)
夜。
私は首を傾げながら綸子の部屋で食卓の片付けをしていた。
テレビは今夜もローカルテレビの情報番組を流している。
駅前のマンションに鹿が出たとかで、中継のリポーターが懸命にフリップを示して説明している。
ヤフーニュースにまで載っていたが、数年前には市内の空港にも出た事があるので、実は鹿はそこまで珍しくもなかったりするんだけども。
「ねぇ、鹿って見た事ある?」
ガラステーブルの上に積んだうまい棒の大袋を丹念に品定めをしながら、ウルフカットの少女は私に聞いてきた。
「うーん、実物は動物園でしか見た事ないかな……しかだけに」
「……」
え、シカトですか?
「そっかぁ……私も動物園で……見た……のかなぁ……?」
自分から聞いてきた割に、ずいぶんと自信なさげだ。
相変わらず何がしたいのかよく分からない子である。
「じゃ、明日は鹿を見るとか……?」
「見ないよ」
あっさりと否定して、綸子はプチッとチャンネルを変えた。
「明日は、蟹を見に行くの」
「……蟹」
(蟹を見るって……水族館とか……?)
聞いてみたかったが、綸子はまたテレビを視始めてしまった。
なんとなく、これが私と綸子の暗黙のルールっぽい。
(……情報少なっ!)
という訳で、恐らくは海へのドライブはこうして決まったのだった----。
「36号線でも高速でも行けるんだけど、どっちがいい?」
日曜日の朝。
相変わらず大きなトートバッグを抱えて乗り込んで来た綸子は、開口一番そう聞いてきた。
目的地も知らされていないのにそんなの分かるかい----とは言わずに、私はまず36号線がどこからどこまでだったかを思い出そうとする。
(ええと……札幌から、確か室蘭までだったよね?)
今回は結構目的地が推測しやすいかもしれない。
36号線は、苫小牧から室蘭まではほぼ海沿いを一直線に走る。
(確かに、あの辺りなら蟹が名産だ……かにだけに……いや、全然面白くないし……)
昨日の晩から突然入ってしまったダジャレスイッチをさっさと切らないと、綸子の冷たい視線を浴びてしまいそうだ。
(いやいや真面目に考えよう……)
走りやすさで考えると36号線も悪くはないのだが、日曜日に走るとなると、市内を抜けて大型のアウトレットパークがある辺りでまずほぼ確実に長い渋滞に巻き込まれる。
「そうねぇ、高速も36号線も距離的にはそんなに差がないから……」
「じゃ、高速で行って」
選ばせろや!
「あと、ソフトクリーム食べる」
「分かった……途中のサービスエリアで休憩すればいいのね?」
あれ、もしかしてそれが目的だった----?
(……なんだかんだ言っても、まだ子供よねぇ)
謎の優越感を覚えつつ、私はチャンプ号のエンジンをかける。
「私は風子に高速の練習をさせてあげようと思っただけよ」
突然の上から目線。
「だって、実質ペーパードライバーみたいなもんじゃん」
「いや通勤で使ってるし……せめてゴールド持ち、って言って欲しいんですけど」
唇を尖らせ、バックミラーの横にぶら下がっている猫のラバーマスコットを指で突いた。
チャンプに似た、グレーの猫がゆらゆら揺れた。
(今日もよろしく頼むよ)
お天気はまずまず。
ガソリンも----まぁ、持つでしょう。
「よし、それじゃ行きますか……!」