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ねえねえ、今度の日曜日はなんとかピエロっていうハンバーガーが食べたいんだけど……? 後編その3

 こんな時が来る事は、実は私は予感していた。


 それを告げに来たのは、他でもない鴨島さんだったのだ----。


「大事なお話があります」


 函館までのこのドライブに出る前の夜、鴨島さんは初めて私を外の喫茶店に呼び出したのだ。


 マンション近くの地下鉄駅に直結したビルの地下、控えめにジャズが流れる喫茶店。

 客のいない店内には、深煎りのコーヒーの香りだけが強くが漂っている。


 「あの時、綸子お嬢様を一目見ただけで、私はすぐにその子が綾ちゃん……高校の同級生だった蓮見綾さんの娘だと分かりました」


 古びたビロードの椅子に腰掛けた鴨島さんは、遠くを見るような目つきになってそう言った。


 何年も前の話なのに、つい今しがた会ったのだとでもいうように。

 嬉しそうに。


 母親の死を知ったその日から誰とも口をきかなくなってしまい、しばらくの間幾つかのカウンセリングに回された後、同じ総合病院の系列の小児専門の精神科へと連れて来られたそうだ。


「そんなに、その……生き写しだったんですか?」


 そう尋ねると、鴨島さんは、それもありますが、と頷き、

「苗字が同じだったのはもちろん、綸子という名前は、私がもし自分の名前を変えられるなら、その名前に変えたいと彼女に話していた名前だったんです……もちろんただのお喋りの中でだったんですけどね」


 そう一気に言った。

 

「私、紬って名前なんですけど、あまり好きじゃなくて、だから綾ちゃんの名前にすごく憧れたんです」

「ええと、紬……って、確か絹織物の一種ですよね?」


 家庭科の教科書にあったような、なかったような。

 ともあれ言われて初めて鴨島さんの下の名前を思い出す。


 いや、確かに初めてアパートに押しかけて来た時に名刺は貰ったのだが、怒涛の展開のせいで正直じっくり見る暇などなかった訳で。


(ま、いつもの事か……)


 言ってしまえば、私が他人に興味がなかったからだ。

 例え人生の選択を迫られるような場面であっても、その選択を迫る相手の名前など、どうでも良かった----んだと思う。


「その通り、絹織物の一種です」


 鴨島さんは頷き、ブラックのままのコーヒーを啜った。


 鴨島さんでもコーヒーを飲むのかという、場にそぐわない呑気な感慨をちらと抱き、ああ、もしかしてこちらが本当の鴨島さんなのかもしれないな、などと思う。


 鴨島さんだけじゃない。


 綸子も。

 私も。


 私達が皆、自分の本当の姿を見せようとしないのは、ある種の武装なのだろう。

 それとも、もしかすると、自分への戒め----。


 目の前の鴨島さんについて何も知らない事に私は少し怖くなる。

 この人は、思っていたより役者だ。


 そして、私の心のほんの僅かな柔らかい部分が、多分、見えてる。


「紬って、確かに絹織物の一種なんですけれど、どちらかというと普段着に近い素朴な感じの物が多いんです……それに比べて、綾という名前は、綾絹から取ったらしいんですけど……とても艶があって……華やかで……まるで彼女本人でした」


 こちらが気恥ずかしくなるくらいのベタ褒めだけど、でも綸子の事を私が誰かに話すとしたら、やっぱりこんな感じになってしまいそうで、私は共感と困惑のない交ぜになった相槌を打つ。


「会った瞬間、名は体を表すって本当にあるんだなぁと思ったものです」

「へぇ……」


 鴨島さんと綾さんは、すぐに仲良くなったのだという。

 

「綾さんはお嬢様で、私は普通の家庭の子供だったんですけど、読む本の趣味が似ていたり、電車の方向が同じだったりで、気が付けばいつも一緒に行動していました」

「そうなんですか」


 当たり障りのない相槌と共にコーヒーのカップを口に運びながら、私はそっと鴨島さんの顔を見た。

 うちに来ては静かに玄米茶を啜っている鴨嶋さんは、そこにはもういなかった。


「たまにですけど、不良ごっこと称して放課後にこういう喫茶店にこっそり来たりとかね……」


 当時の事を思い出したのか、クスッと笑う。


「もっとも綾さんは紅茶の方が好きでしたから、コーヒーには私の分までミルクを入れて飲んでいましたよ……それでもまた一緒に来ようねって言ってくれるんです」


(あれ、鴨島さんって、こんなに子供みたいに笑う人だったっけ?)


 いつもの鴨島さんはもういなかった。

 保護者でもない、秘書でもない----見た事もない女性がそこにはいた。


「喫茶店では他愛もない話ばかりしていました」


 私の様子など気にもせず、鴨島さんは喋り続ける。


「綸子という名前の話も確かその時にしたんだと思います……絹織物の中では手触りが滑らかで光沢があって、もし綾ちゃんの子供が生まれて女の子だったらそんな名前を付けたらお揃いでいいんじゃないのとか、いやそれなら紬ちゃんが女の子を産んだら付けてよとか……」


 これじゃあ、まるでまだ十代の恋する女の子だ。

 いや、本当に----。


「……彼女は私の全てでした」


 その一言で、私は確信した。


 鴨島さんは、綸子のお母さんに恋をしていたんだ----。


「でも、大学は別々の場所を目指していましたから……私は東京で、彼女は札幌で……なので卒業してからは手紙のやり取りをたまにするくらいで会っていませんでした」


 私は思わず聞いていた。


「その……お互い同じ大学に行こうとかは……?」


 鴨島さんは微笑んだ。

 少しだけ、元の大人の鴨島さんの目になった。


「いえ、そういう話はしませんでしたね……」


 初めて私が立ち入った質問をするのを待ってでもいたかのように、鴨島紬さんはスッといつもの鴨島さんの顔になる。


「多分彼女は、最後まで私の事を仲の良い『友達』としか思ってくれてはいませんでしたから……でもそれでいいんです」


 きっぱりと言い切って、鴨島さんは私を見た。


「……え?」


 その目は、あまりにも真っ直ぐだった。


「だって……もしも、もしもですよ? 私と綾さんが結ばれていたとしたら……綸子ちゃんは存在しなかったんですから」


 その言葉は、私に----私だけに向かって突き付けられたものだった。


 貴女の大切な人は、私と私の大切な人が結ばれなかったからこそ貴女と出会ったのですよ?


 鴨島さんはそう言っているのだ。

 私に、これまで見せた事のない剥き出しの感情を見せているのだ。


 とても静かに。

 笑顔で。


 私の急所をぴたりと狙ったまま----。


「だから私はお父様から専属の治療医として屋敷に来て欲しいと言われた時、すぐさまお受けしました……幸いというかなんと言うべきか、両親の離婚で私の苗字は変わっていましたので、綸子お嬢様には私が綾さんの友人だとは一切伏せたままずっとお側にいられました」


 つまり、目隠しされていたのは私だけではなかったという事か。

 じゃあちょっとはフェアだったって事----は、ないよな。


 一体、私達はどこへ向かっているんだろう?

 

「……で、でも……それなら、そこまで綾さんの事を大切に思っていたなら、どうして鴨島さんが最後まで綾さんの代わりに……母親代わりになろうとしなかったんですか?」


 思わず大きくなった声を慌てて抑え、私は問う。

 今までなら絶対にしなかったのに、今の私は本気で知りたかった。

 

「病院を辞めて専属にまでなって治療を続けていたのに、いきなりこんな……私みたいな得体の知れない貧乏OLなんかと暮らさせたりして……」


 他人様の家の教育方針なんか知らない。

 口を挟むべきじゃない。


 そんなのは分かってる。

 でもこれは精一杯の反撃だ。


 そして、これが多分----今の私に必要な何かを知る手がかりになる。


「こんなの、普通じゃないですよね?」


 そして、ほんの少しの憤りと、後ろめたさとが混じった味のコーヒーを啜る。

 銘柄もなにもあったものじゃない、ただ、苦い黒い液体だった。


 普通じゃない。

 その言葉は発した自分に突き刺さってる。


「……私も初めはそうしたかったんです」

「じゃあ、どうして?」


 そうですね、と鴨島さんは顔の前で両手を組んだ。

 なんだか、急にお医者さんっぽい雰囲気になる。


「これは普通の親御さんでもある事だと思うんですが、毎日顔を合わせていると、その子供への見方が偏ったり、接し方を変える事が難しくなってしまうんです」

「そ、そうなんですか……?」


 いい歳こいて独身の私には分からない話だが、言われてみればそうなのかもしれない。

 急に神妙な顔になるのが自分で分かる。


(そうか、これは……治療の一環だったんだ……)


 それでもなお、いや、なおさら疑問は大きくなる。


「綸子お嬢様の場合は特に心の歯車がとても脆くて、このままだといつかは壊れてしまう……でもだからといって接し方を下手に変えると、歯車の噛み合わせを治してやるどころか砕けてしまう……そういう子でした……今でも、ですが」


 担当してきた中で一番難しいケースだったという話には素直に頷けた。

 そこは120%同感だ。


「で、ご存知のようにお父様はほぼ不在、お屋敷では私と綸子お嬢様だけが『家族のようなモノ』として時間を過ごしてきました」


 だから、と鴨島さんは言う。


「あえて赤の他人という異物を、その歯車の中に一つだけ落そうと思ったんです……貴女と言う異物をね」

「……私を?」


 契約した時からずっと思っていた疑問だ。


 何故私なのか。

 私達は何故、互いの事を詮索してはならないのか。


 何故、目隠しをしたまま一つ屋根の下で暮らすような契約など結んだのか。


「二年前です」


 鴨島さんは言った。


「二年前の冬に、初めて綸子お嬢様が私に向かって口を開いたのです」

「それって……」


 二年前の冬。

 忘れもしない。


 私のマンションが火事になった時だ。

 私が婚約者と別れるきっかけになった、あの火事が起きた時だ----。


「ネットのSNSに上がっていた火事の現場映像を見ていたお嬢様が、その中に映ってた貴女を差して言ったのです」


 真夜中にパジャマ姿でノートパソコンを持って来た綸子は、揺り起こした鴨島さんにこう言ったのだ。


 この女の人を探して、と----。

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