夕焼けの色って、どんな色? 後編
豊郷駅には結局私達以外誰も来なくて、何が楽しいのかすっかり茶色く錆びたレールの上を歩いたりホームの上の小石を蹴ったりしている綸子を眺めていたら、一時間ばかり経っていた。
「もうそろそろ戻ろうか?」
「……うん」
まるで私が言い出すのを待っていたかのように、少女はずいぶんと素直に頷いた。
その白い頬に後れ毛が一筋、風で張り付いている。
「今日はお天気いいから、このままなら綺麗な夕焼けが見えそうね」
日差しはゆっくりと傾きつつある。
夕焼けを、彼女は一体どこで見るつもりなのだろう。
「……ただいまチャンプ号、いい子にしてた?」
ミラーをぽんぽんと指先で叩いて、綸子は助手席に乗り込む。
その仕草はすごく自然で、チャーミング、とか表現すればよいのだろうか、とにかく彼女にとても似合っていた。
「次はどこ?」
「……このまま真っ直ぐ行って、右側」
私達は235号線を更に海沿いに進む。
陸側は、もう本当に牧場しかないってくらいに、牧舎が点々と見えるだけだ。
(……こんな道、電車と一緒に並んで走れたら楽しかっただろうな)
車はあくまでも移動する手段としか思っていなかった私でも、今日のこの道には、ただ走るだけでも気分がいいと思える何かがある。
ドライブが好きという人間の気持ちが、やっと分かって来たような気がする。
(でも、そんな風に皆が車に乗るようになったから、電車に乗る人は減った訳で……)
技術が進めば、それまで便利だった物も少しずつ過去の物になっていく。
とても自然で、当たり前の流れだ。
だけど、心が痛む。
時の流れはどうにもならない。
そんな事は分かっているのだけれど----。
道は海岸線に沿うようにして、ゆったりとしたカーブを描いている。
そして、ほとんど重ならんばかりに線路に近付き、また少しづつ離れて行く。
「あ、あれ……」
川を渡る時、河口を跨ぐようにして掛かる鉄道橋が見えた。
コンクリートの太い橋脚を白い波が洗っている。
「こうやって見ると、まだ電車が走ってそうだよね……」
そう言った私に、少女は気のなさそうな声を返す。
「……うん」
私は、じっと窓の外を見ている綸子の横顔を盗み見た。
彼女の目には、もう走らない電車は映っていないのだろうか。
「……あと一キロくらいしたら白い建物が見えると思うから、そこに入って」
「へい」
ぽつん、という感じで、白い立方体のような建物が三つか四つ、草原の中に現れた。
その手前に車が点々と停めてある。
白い建物は、道路側には窓がほとんどなく、それぞれが空中や地上で繋がっているようだ。
そしてその先には、海しかない。
「ここでね、夕焼けを見るの」
ワンピースの裾をひらりとなびかせ、綸子は白い建物に向かう。
「ここで……夕焼け……? え、どういう事……?」
私はまた慌てて綸子の後を追うのだった。
白い建物の正体は、カフェだった。
それも、名前を聞いたら私でも知ってるような、中心部に店舗を構える有名カフェの支店。
「ここね、照明がないんだって」
「……ホントだ」
少し狭い階段を上って二階席に案内された私達のすぐ目の前に、太平洋が広がっている。
「だから、夕焼けまでの営業なの……日没になったら閉店」
「へぇ、面白いわね」
市内にもいくつか店舗のあるカフェなので、どうしてわざわざここまで来たがったのかと不思議に思っていたのだが、店名を聞いて納得がいった。
「ゆうやけ店、か……」
確かに、ロケーションとしては最高だ。
席は全て全面ガラス張りの海側に向いていて、眺めを遮るものは何もない----木一本もない。
窓の隅にちょこんと置かれたスピーカーから静かに流れるBGMの他には、一階の厨房から時折聞こえる物音と、隣の席の客の会話だけだ。
綸子は注文の時以外、黙っていた。
ただじーっと、少しづつ陽の落ち始めている海を眺めている。
(……静かだな)
カフェとしてのメニューは、普通のカフェって感じだ。
飲み物と、ケーキ、あとはカレーやパスタとかが数種類。
(うーん、少しガッツリした物の方がいいのかな)
お昼ご飯にしては遅いし、夜ご飯にしては少し早いという時間だったのでしばらく悩んだ結果、私はチキンカレーと食後のケーキセットを頼んだ。
綸子は、ナポリタンとケーキセットだ。
夕焼けまで粘るには、まぁ妥当なチョイスだと思う。
そんな感じで、私達はご飯が運ばれて来るまでの結構長い時間を、それぞれでぼーっと海を眺めて過ごしていた。
「……うん、美味しい」
やって来たチキンカレーは、思っていたより手が込んでいた。
本店とかに行った事はないけれど、カフェで食べるカレーとしては多分最高ランクじゃないだろうか。
ライスはターメリックライスで、レタスのサラダが同じプレートに盛り付けられている。
ルーの鶏肉はよく煮込んで合って、口に入れると噛まないでも崩れるくらいに柔らかい。
(子供の頃はカレーは白いご飯じゃないと嫌だったけど、大人になるとこういうご飯の方が嬉しくなっちゃうんだよね)
隣では綸子がナポリタンを無心に食べている。
そういえば、家以外でナポリタンを最後に食べたのっていつだろう?
「……何?」
「あ、ごめん……他人が食べてるとなんか美味しそうにみえるな、って」
ふーん、とだけ答えて、綸子はまた食べ始めた。
食べるに集中しているのか、口の端にケチャップが少し付いている。
(……拭きたい)
海が、少しづつ色を濃く変えていく。
一口ずつカレーを味わう時間というのも、なかなか贅沢なものだ。
日没の時間がゆっくりと近付いて来るのが実感できる。
(もうすぐ、夕焼けになるんだ……)
意識して待っていると、夕焼けになるまでの光の変化と自分の心がシンクロし始めるような錯覚が湧いて来る。
(あれ? なんか……私、緊張してきた……?)
食べ終わったプレートが下げられケーキセットが来た頃には、青かった空は次第にオレンジ色に染まり始めていた。
「ねぇ……こうしてこんな時間まで一緒にいるの、初めてだね」
「……うん」
綸子は相変わらず言葉少なだ。
外の景色に集中しているんだろうか。
硬めに焼き上げられたチョコレートケーキには、ホイップクリームが添えられている。
クリームを付けないと、少し、苦い。
フォークで少しずつケーキを切って、舌の上のほろ苦さを味わう。
「……銀河鉄道の夜って知ってる?」
同じようにゆっくりケーキを切っていた綸子が、ふと口を開いた。
「知ってる……宮沢賢治でしょ?」
「うん」
夕焼けの時間までは時間が許さなかったのか、いつしか周りのお客達はほとんどいなくなっていた。
もしかしたら海岸や他の場所で見ようという人達なのかもしれない。
でも、私も綸子も、目の前で始まった夕焼けを見ながら並んでいる。
ケーキとティーカップの影が、どんどん濃くなってきている。
空が、茜色に変わり始めた。
手を伸ばせば届きそうなくらいの大きさで、太陽が沈み始める。
「日高本線って、銀河鉄道のモデルになったって……そう教えてもらった事があってね」
私はケーキを食べ終えた。
窓一杯に、夕焼けが広がっている。
「宮沢賢治って何回か北海道に来た事があって……あ、その頃はまだ日高本線って名前じゃなくて……えーと……」
「……苫小牧軽便鉄道、だっけ?」
私が言うと、綸子は一瞬目を見開いて「そう」と頷いた。
「だから……一度その電車に乗ってみたいと思ってたんだ」
さざめいていた店内はいつしか静まり返っていて、私達は夕焼けの中にいた。
綸子がケーキの最後の一切れを切る音が、やけに大きく聞こえた。
「え、でも……何でふーこが軽便鉄道なんて知ってるの……?」
苫小牧軽便鉄道とは、明治時代に王子製紙によって作られた製紙用パルプを運ぶための専用鉄道の名前だ。
元は馬車鉄道だったが大正時代に入ってから名前を変え、その後は国有化から民有化を経て現在の日高本線の姿になっている。
「私、前に何か言った事あったっけ?」
言葉を選ぶようにして、少女は私に問う。
僅かに声が震えているような気がした。
「ううん……私がネットでちょっと調べただけ」
宮沢賢治の作品というと地元である岩手の自然がモデルになっていると言われているが、その作品世界の一部に旅行先の風景が紛れ込んでいるのではという説は、ネットでもちらほら見かける。
どこまでも海岸を走る電車。
天の川の中に点在するかのような、小さな無人駅。
夜の闇にぽつりぽつりと浮かぶ、小さな灯----。
「……前にさ、プリン食べに行ったじゃない?」
紅茶を飲もうとしていた綸子の手が止まった。
「行かなかったけど、あの店の近くに鉄橋があるの……知ってる?」
「鉄橋……」
肯定も否定もしないまま、少女は沈む夕日に目をやった。
空はもう、溶けたガラスみたいな、息が詰まりそうなくらいな赤だ。
「山線鉄橋って言ってね、北海道で現存する現役最古の鉄橋……今は歩道橋だけど、あれは王子軽便鉄道の橋だったんだよね……って、まぁ、会社のおじさん達が教えてくれたんだけど」
綸子はもう何も言わない。
ただ黙って夕焼けを見詰め続けている。
「ずっと不思議だったの……最初の頃に貴女が私を連れて行った場所って、どれも鉄道に関係のある場所ばかりだったのよね……」
夕日が、水平線に沈んで行く。
店の中が、暗くなっていく。
全ての物の輪郭全部が、曖昧に溶けていく。
「……お兄ちゃんがいたの」
綸子の声だけが、静かに響く。
「私より六つ上のお兄ちゃん……電車が好きで、だから家族で出かける時は、電車に関係がある場所が多かったんだよね」
「……そうだったのね」
すっかり冷えた紅茶を私は飲み干した。
「銀河鉄道の話をしてくれたのも、お兄ちゃん?」
綸子は頷く。
「一緒に家でアニメを見ながら教えてくれた……銀河鉄道って本当にあるんだよって」
私も多分それを観た事がある。
キャラクターが猫のやつだ。
「それでね、石炭袋のシーンになるといつも怖くて泣いちゃって、そこでお兄ちゃんが私に言うの……僕だったら綸子とどこまでも一緒に行くよ、本当だよ……って」
気が付けば、空も海も、暗くなっていた。
店の中も、今はもう最後の薄暮が満たしている。
私達は店を出た。
「ごめんね」
「……何が?」
私が謝ると、綸子は少し腫れぼったいような目を向けて来た。
車の中は、ライトを付けないともう真っ暗だ。
「約束を破った事、怒らないの?」
綸子と暮らし始める時の約束は、ただ一つ。
絶対に詮索しない事----だった。
蓮見綸子という少女の年齢も学歴も生い立ちも、家族構成も何もかも、私には一切知らされていない。
私もそれを詮索しない。
それが、この契約を、私達の関係を保っている。
「……怒ってない」
235号線を札幌に向かって、私達は進む。
見てきたはずの光景は、暗闇の中で見るとどこか別の世界の遠い光景に見える。
私と綸子だけが、誰もいない世界を二人で旅しているような、そんな甘苦しい気分になる。
「ふーこはさ……」
「え、何?」
突然声を掛けられて、私は慌ててハンドルを握る手に力を込める。
危ない危ない、こういう時に事故が起きやすいのだ。
「ふーこは……もし一緒に銀河鉄道に乗ったらさ……」
「うん……?」
横を見ると、綸子は窓に頭をもたせかけていた。
外は、何も見えない。
「……一緒に乗ったら、どこまでも……どこまでも、一緒に……」
その後の言葉を待っていたけれど、しばらくして聞こえて来たのは規則正しい小さな寝息だった。
「子供か……!」
どこかホッとした私の視界の遠くに、ランプに照らされたホームが一瞬見えたような気がして----驚いて振り向いた時には、再び海の闇だけが広がっていたのだった。