夕焼けの色って、どんな色? 中編
日高本線に乗った事はないが、その名がニュースでよく流れた時期は覚えている。
2015年の正月、北海道は猛烈に発達した低気圧の直撃を受けた。
いわゆる爆弾低気圧ってやつだ。
そのせいで、海岸線に沿って走っていた日高本線の線路の下からは高波によって土砂が大量に流出し、鵡川駅と様似駅の区間で不通となってしまった。
宙ぶらりんになってしまった線路の映像はテレビで繰り返し流れていたから、その衝撃的な様子は私を含めた多くの道民の目に焼き付いている。
それでもいずれは復旧するものだと思っていたら、被災区間での護岸工事が必要だとなり、復旧までにかなりの費用と時間を要する事が判明した。
更に追い打ちをかけるようにして、同じ年の今度は9月に台風の被害により、他の区間でも土砂が流出してしまい、不通区間は更に広がった。
そして2016年にも再び日高本線は台風の被害を受け----復旧できないまま今に至っている。
「え……今って、鵡川から先って電車走ってないんだ?」
スマホに目を落としていた綸子が、不意に声を上げた。
「うん、確か代替バスになってたと思うよ……直すお金ないから、もう電車は走らせないとか何とかやってた気がするけど」
「そうなんだ……」
綸子はスマホを置き、再び窓の外を見詰める。
鵡川の辺りで235号線は一旦日高本線から離れ、少し内陸側を走る。
まだ市街地が広がっているが、川を渡るたびに視界を畑の緑が占めていくのが感じられる。
初夏の、これから伸びていくためのエネルギーを蓄えた草の濃い匂いが、車の中を抜けて行く。
「あ、牧場……」
少しずつ、牧場やファームといった文字が道端の看板に現れ始めた。
日高は、サラブレッドの産地なのだ。
「馬が見たいの?」
「うーん、今日はいいかな……他に見たい所があるから……」
夕焼けにはまだ早いというのに、どんなプランを立てているのかさっぱり分からない。
(そもそもどこのお店行くかも知らないからなぁ……ま、お嬢様のお気に召すままって感じね)
いつものドライブ。
いつもの日曜日だ。
(いや……それにしては、今日はちょっと様子が違うかな……?)
綸子は進行方向の右、つまり私のいる運転席の窓の向こうばかり見詰めている。
そんなに熱心に見られると、緊張してしまう----うん、私を見てる訳じゃないのは分かっているんだけども。
「あぁ……見えて来た……」
呟くようにして、綸子はこっちに身を寄せて来る。
海だ。
235号線がまた海岸線にぐんぐんと近付いていくのだ。
比例するようにして、人家はその数を減らしていく。
「う、うん……海だね?」
私が応えても、耳に入ってないかのような様子だ。
シートベルトがピンと張り詰めているのも構わず、ひたすらに窓の向こうを凝視している。
(え、何なのこの感じ……?)
顔がすぐ傍に寄っているという緊張感と、いや運転の邪魔だろという冷静な突っ込みが私の中で拮抗して、変な汗が滲んで来た。
「ね、ちょっとどうしたの? 海が見たいならどこか海岸に降りられる所で……」
と、言いかけた途端、
「あ、そこの……そこの駅の所で停めて!」
「駅!? あ、えっ……駅ね? 分かった!」
緩いカーブの先に小さな集落が姿を現し、しばらくぶりの信号が見えた。
ちゃんと横断歩道のある十字路だが、人の姿は見えない。
「駅って……あ、あれか」
遮る物の少ない視界の向こうにぽつんと佇むコンテナハウスみたいな建物を見付けて、私は急いで右ウィンカーを出した。
(と……豊郷駅、っていうのかな……?)
駅舎に書かれた駅名は、もちろん馴染みのないものだ。
見るからに無人駅と言った風情の小さな駅舎の向こうには、少し盛り上がった線路と、草の生い茂る土手(?)と、あとは海しか見えない。
「じゃ、ここの駐車場に停めさせてもらおうか」
駅の前の駐車場の前には『老人クラブが手入れをしています』と書かれた花壇があって、オレンジと黄色のマリーゴールドが僅かに傾き始めた陽の光を浴びて元気良く咲いている。
その脇には電話ボックスもある----うん、れっきとした駅前だ。
誰もいないけど。
向かいに立つ赤いトタン屋根の建物の壁は、海風のせいなのかすっかり錆びてしまっているし、窓はボロボロだが、何故かピカピカなままの岩手サファリパークの看板がやたら目を引く----うん、謎だ。
「じゃあ、いい子で待っててね」
綸子がチャンプ号のミラーを一撫でして歩き始める。
この前洗車に付いて来てから、こんな風にチャンプ号に声をかけるようになっていた。
彼女なりの感謝みたいなものも、もしかするとあるのかもしれない。
(……私ももう少し労わってくれてもいいのよ?)
そんな事を胸の内で思いつつ、駐車場を出た先の砂利道を歩く綸子を、私は眺めていた。
ワンピースの裾が揺れる。
アンクルストラップのサンダルが、真っ直ぐに駅舎を目指す。
映画のワンシーンみたいな、それは長くて短いような時間だった。
私は、バカみたいに突っ立っていたらしい。
「ふーこ! こっち来なよ……!」
気が付けば、ドアを開けた駅舎の中から綸子が私を手招きしている。
私は慌てて駅舎に向かった。
「……あぁ、ホントにバスの時刻表しかないんだ」
壁の三分の二くらいを窓が占めているせいか、電気が点いていなくても駅舎の中は思っていたよりも明るい。
時刻表の下には白いプラスチックの椅子が四つ、静かに並んでいる。
「……もう、電車は来ないんだね」
何かを確かめるようにして、綸子はバスの時刻表を見上げた。
少し背伸びをしないと届かないような場所にあるこの時刻表も、地元の人間ならとっくに暗記してしまっているのだろう。
五分ほど二人で並んで座っていたが、誰かが来る様子は全くない。
開けたままの入口から入って来るのは、風の音ばかりだ。
「……ホーム、見て来る」
綸子がそう言って線路側のスライドドアを開けると、ハッとするほどに強い潮の香りが、たちまち駅舎と私の鼻腔を満たした----。
ホームは想像以上に荒れ果てていた。
いや、無理もないのだろう。
電車が走らない線路や、電車が停まらないホームの補修に払うお金の余裕なんて、この路線にある訳がない。
脇の草むらから勢力を伸ばした雑草が、割れ放題のホームのコンクリを緑に染めつつある。
人間の造ったモノなんか、容赦なく自然が覆い尽くしていく。
今でもここは、人と自然のせめぎ合いの現場なのかもしれない。
「……あれ、夜になったら点くのかな?」
綸子がホームに一本だけ立つ木製の電柱を指差した。
その天辺近くには古めかしい笠付ランプが取り付けられている。
「どうだろう……?」と言うと、がっかりしたような顔になった。
ヒビだらけで今にも線路側に落ちそうな縁石を踏まないように注意しながら、私と綸子は電柱の下まで歩み寄った。
「電車が走らないなら、多分もう……」
『とよさと』と書かれたプレートの下には『サッポロビール』の赤い文字もある。
それを目にした途端、私は初めてここが廃墟でも何でもなく、まごうことなき駅のホームなのだと実感した。
確かにここには、列車が走り、人々を運んでいた時間が流れていたのだ。
たとえ今電車が走っていなくても、ここは駅のホームなのだ。
「これが点くとこ見たかったな……」
「……うん、私も見たかった」
海の闇と緑の闇に囲まれて、ぽつんと浮かぶようにしてランプに照らされるホーム。
そうだ、そんな光景を私は昔どこかで見たような気がする。
懐かしくて、そして物悲しいイメージを思い出しながら、私は自然に頷いていたのだった----。