えっ、お蕎麦に角煮って合うの? 後編
「なんか風強くなってきたんじゃない?」
「ん-、少しのんびりしすぎたかな……やっぱり予報より早く降るのかも」
ソフトクリームを食べ終わった頃には、北の方の空がだいぶ暗くなってきていた。
直売所の前の幟がせわしなくはためいている。
私達は急いでチャンプ号に乗り込んだ。
「あー美味しかった……ねぇ、帰りもここ通る?」
「帰りは食べません!」
チャンプ号は44号線をひたすら真っ直ぐ走る。
「あっ、川!」
進行方向の右に、川面が見えて来た。
よく間違われているが、石狩川ではなくて、茨戸川だ。
茨戸川は、石狩川水系の一級河川で、かつては石狩川の一部だった。
全長約20キロにわたって札幌市と石狩市と当別町の三つの市町を跨いでいるのだが、要は三日月湖だ。
そのため川という名前ではあるが、流れはほとんどない。
「茨戸川って……へぇーワカサギが釣れるんだ?」
「たまに冬のニュースで見るね……やった事ないけど」
ここまで来れば、洗車場はもう目と鼻の先だ。
231号線と337号線の交わる立体交差に差し掛かる頃には、フロントガラスにぽつりぽつりと雨粒が当たり始めていた。
「えー? ここで車洗うの!?」
屋根もなく、赤い字で『洗車』と書かれた看板があるだけの殺風景な洗車場は、今日も空いていた。
ここの洗車場はスプレー洗車機しかないのであまり人がいないのだ。
「ちょっと、誰もいないじゃない」
早速車を降りたお嬢様はきょろきょろしている。
「セルフだからね」
そう答えると、
「セルフ……って、何?」
根本的な問いが返って来た。
「セルフはセルフよ……ほら、その機械にお金入れて自分で洗うの」
「……自分で?」
小銭入れを見せると、綸子は訳が分からないといった顔をした。
百聞は一見に如かずだ。
私は窓が閉まっているか確認すると綸子を残して車を降り、洗車機に百円玉を投入する。
「うわー、これ全部自分でやんの?」
洗車が終われば、今度はワックスだ。
持参したバケツから古いタオルを出して渡すと、綸子はまだ信じられないというような顔だった。
「これで乾拭きをしてからワックスね、本降りになる前に終わらせるわよ」
やっと覚悟を決めたのか、お嬢様は恐る恐る車体を拭き始める。
「あともう少し! 頑張れ! やればできる!」
「ひー、腕が疲れた……もげちゃう……」
何故か体育会系のノリで奮闘した結果、本降りになる前にチャンプ号は見違えるように綺麗になった。
「……うぅ、絶対これ筋肉痛になるヤツだ……」
雨雲に追い掛けられるようにして、私達は来た道を戻る。
綸子は運転席でぐったりしている。
「ほら、ガラコ塗ったからガラスが雨粒ちゃんと弾いてるでしょ」
「……よく分かんない」
体力なさすぎか。
5号線に突き当たったら、今度は右折だ。
本降りになって視界が悪くなった分、気持ちゆっくり走らせる。
「給油したらごはんだよね?」
縋るような眼でそう言われると、何だか自分が極悪人になったかのような気分だ。
「給油したらごはん給油したらごはん……」
一心に呟いている。
「そうそう、給油したら……って、ほらスタンド見えて来たよ」
綸子はガバッと身を起こして窓に張り付いた。
「……って、ここもセルフじゃん!」
ほとんど悲鳴である。
大丈夫、怖くないよ----私も初めての時は怖かったけど。
「まずはこのカードをそこの機械に入れてね」
給油レーンに入り、綸子にスタンドのカードを渡して私も外に出る。
「タッチパネルで全部操作できるから、軽油で満タンってのでお願い」
「け……軽油……で、ええと……満タン……」
真剣な眼差しで一つずつ選択している。
私の方は除去シートに掌を当てて静電気を除去してから、いよいよ給油だ。
「おぉ……それも一人でやるんだ……」
給油口にノズルを突っ込んでいる私を見て、綸子は何とも言えない表情をしている。
「……今、貧乏人って思ったでしょ?」
「うん」
コイツ、即答しやがったな。
注入が停止して、私はノズルを引き抜く。
「よし、あとはスロットをして完了!」
「スロット?」
怪訝な顔をした少女の後ろで、「いっくよー!」と思い切り場違いなアニメ声が響いた。
「えッ、何? 何なの?」
タッチパネルの中でいきなり始まったスロットが『777』で止まり、「1等おめでとうございます!」の声が響く。
「……やった!」
綸子も、何だかよく分からないまま両手を挙げて喜んでいる。
「……で、何が当たったの?」
「これで更に5円引きになるの」
確率としてはそんなに珍しくないのでさほど感動はないのだが、一応の社交辞令としてお礼を言う。
「ありがとう……おかげで安く入れられたわ」
「ど、どういたしまして」
それからスタンドを出て、市内に向かって走る事3分。
「……お待たせしました、本日のランチでございます」
私はとある蕎麦屋の駐車場に入った。
「ここが?」
「そう、私のイチオシのお蕎麦屋さんよ」
後部座席から傘を取って、二人で入口まで走る。
やはり雨だからか、車は少ない。
「……え、なんかもっと、こう……老舗的なやつかと思ってた」
「あ、うん……確かにね」
綸子が不思議がるのも無理はない。
一見すると何の変哲もない----というか、入口に暖簾こそ掛かってはいるが、隣の餃子チェーンと並んでいる姿は、見るからに郊外型の食堂である。
パッと見、メニューも普通だ。
よく見れば普通の蕎麦屋にはないのが紛れているけど。
「ここはね、今はチェーン店なんだけど元は個人経営のお蕎麦屋さんだったの」
「へぇ……」
お嬢様は納得していない顔で、でも食い入るようにメニューを見ている。
「うーん、どれが美味しいの?」
「角煮煮たまご弁当」
私は力強く即答した。
「か……角煮……? マジで?」
「マジで」
メニューを握ったまま少女は疑いの目を私に向ける。
「いや、最初にそれはないわって思ったんだけど……だって、角煮だよ? お蕎麦に角煮って合うの?」
「でも角煮好きでしょ?」
いや好きだけどちょっと……などと言いながら考え込んでしまったその後ろで、入って来た作業員風の若者達が店員のおばさんを呼んでいる。
「角煮煮たまご弁当で、そばは冷たくして」
「俺は温かいので」
「味定で冷たいやつ」
常連なのか、メニューも見ていない。
「……マジで?」
「マジで」
私はもう一度力強く頷いて見せた----。
「……おぉ、ホントに角煮だ……」
丸い容器の蓋を取り、綸子が中を覗き込む。
角煮と丸のままの煮玉子、それと漬物がお弁当風に仕切りのある容器に入れられている。
ご飯には黒ゴマが散らしてある所も、お弁当感が出ている。
量がかなりあるので、少食な人ならこれだけで十分かもしれない。
「お蕎麦、あったかいのにして良かったかも……美味しい」
「でしょ? スタンドで身体冷えた時はこれが最高なの」
窓の外は昼だというのに真っ暗だ。
だけど、湯気の立つお蕎麦を啜っていると、こうしているのも悪くないなという気分になってくる。
「ここじゃない店だと角煮だけのお弁当もあるんだけど、玉子も味が染みてて美味しいのよ」
私が初めてこの蕎麦屋さんに行ったのは学生の時だ。
正確に言うと、このチェーン店の元になった蕎麦屋、だけど。
「私、学生の頃も貧乏だったから教科書や本はほとんど古本屋さんで揃えていたのよね」
「……あ、根に持ってる?」
黒ゴマを散らしたご飯を口に運んで、綸子がすまなそうな顔をした。
「ごめんね?」
「別に本当の事だから怒ってないわよ」
当時通っていた大学の近くには古本屋はあまりなく、私は北大の近くまで遠征する事が多かった。
そしてその時よく食べに行ったのが『S』というこじんまりした蕎麦屋だったのだ。
安くて美味しいと学生達の間で評判のそのお店で、私は初めて角煮弁当を食べた。
何時間も歩き回って本を探した後の角煮と蕎麦のハーモニーは、私の中で疲れを癒してくれる定番メニューとなったのだ。
「じゃあそのお蕎麦屋さんがこうしてチェーン店になったんだ?」
「ううん、そこを経営していたご夫婦は高齢になって一旦お店を閉めたんだけど、常連だった人が引き継ぎたいって言って……それがその隣の餃子チェーンの社員だったらしいんだよね」
雨音を聞きながら、私は当時の広いとは言えない店を思い出す。
あの頃よりずっと明るくなった店内だけど、ほんのり漂う出汁の香りは変わらないような気がする。
(あ、向かいに誰かがいるのは初めてか……)
向かいではウルフヘアの少女が生き返ったかのように元気よく角煮を咀嚼している。
「角煮、お蕎麦に合うでしょ?」
「うん……最高かも」
私は窓の外を見た。
雨が窓ガラスを叩いている。
「そうだ、隣の餃子も美味しいの?」
「美味しいよ……餃子カレーとかもあるし」
少女は目を輝かせる。
「何それ!? 食べたい!」
「じゃ、明日また来る?」
そう言ったら、「やだ!」と即答されてしまった。
「明日は日曜日なんだから私がお店を決めるの!」
「え……それじゃいつにするんですか?」
少女はニンマリする。
「次の給油の時に来るの……必ずよ! 約束だからね!?」
そういう訳で、次の私の心安らぐプライベートタイムは少し遠退いたようです。
雨はまだ止みそうにありません----。