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えっ、お蕎麦に角煮って合うの? 前編

「そうですか、綸子様がそんな事を……」


 玄米茶の入った湯呑を両手で持ったまま、そう呟いたきり秘書の鴨島さんは黙り込んでしまっていた。

 今日もいつもと変わらない品の良いスーツ姿だ。


 私の方も、いつものパジャマだ。

 朝食を終え着替えようとした矢先にチャイムが鳴ったので、警察24時でよく見る『早朝警察官に踏み込まれた容疑者』みたいな不意を突かれた感満載のオーラを放っているのは自覚している。


「あの……私……やっぱり変な事言いました……?」


 おずおずと私は尋ねる。


「変、とは?」

「あ、いえ……」


 私が気にし過ぎたのかな。

 いや、たぶん気にし過ぎたのだ。


 相変わらず真っ白な壁を見詰めて私は反省する。

 その壁の向こうは綸子の部屋だ。


 今頃はまだ寝ているか、お菓子を食べながらゲームでもしているのだろうか。


 仮にも同棲相手だというのに、私は彼女が今何をしているか全然知らない----。


「いや、その……綸子ちゃんが私にそんな事を言うなんて初めてだったものですから……ちょっと気になっただけで……すみません……別に普通ですよね……?」


 実のところ、綸子と暮らし始めてから『普通』の概念がたまに揺らぐ事があるのは自覚している。

 そもそも引きこもりニートのお嬢様の『普通』って一体何なんだという話から始めると更にややこしい事になりそうなので、そこらへんは考えないようにしておこう。


(自分ではかなりアベレージな日本人だと思って生きて来たけど……綸子のおかげでたまにその自信がなくなっちゃうんだよなぁ……)


 鴨嶋さんが黙り込んでしまったままなので、私はどうしたらいいか分からなくなってとりあえず窓の向こうに目をやった。


 窓の向こうには、空いっぱいの雨雲が見える。

 午後からは雨と天気予報では言っていたけれど、もう少し早く降り出すかもしれない。


(ま、明日降らなけりゃ別にいいか……)

 

 二層式の洗濯機を使っていた前のアパートだったら、雨雲を見た途端に憂鬱になっていたものだが、このマンションに来てからは、洗濯物は洗濯機の乾燥機能で乾かせるから、そっちの心配はない。


 お金があるという事はこんなにも心の余裕ができるという事なのである。

 ビバ資本主義。


 ----とはいえ私の財布から出ている訳じゃないのだけれど。


 私と蓮見綸子が偽装同棲を始めてから、約二か月が過ぎていた。


 そして、私は例の如く抜き打ち検査にやって来た鴨島さんに告げたのだ。

 綸子ちゃんの様子が、ちょっと変なんです----と。


「……今度は別のお店、ですか……確かに普通なら綸子様が先の予定について口にされるなんて、天地がひっくり返ってもありえないですわね」


 ようやく顔を上げた鴨島さんは、厳かな声で宣言した。


「えッ、そこまで珍しい事なんですか!?」


 『言うべきかどうか迷ったけれど、言わないのもなんだし』程度の判断で話したのだが----やっぱりまずかったのかもしれない。


「綸子様がそんな事を……正直わたくしもまだ信じられないのですが……」

「ええと……でもッ、ほら……ッ、たまたまなのかもしれないですし……ねえ……ッ?」


 ニートお嬢様が自発的な発言をしたというだけで、これほどまでに重大な事態になってしまうのかと慄きつつ、私は心の中で自分の軽率さを呪いまくった。


「綸子ちゃんらしいいつもの気まぐれかもしれないですから……私も赤の他人なので見当違いかもしれないですし……そんなご報告するほどの大層な事じゃなかったような気が今」

「いえ、少しでも気になった事は何でもお知らせください」


 玄米茶を飲み干し、鴨島さんはすっくと立ち上がる。


「麦原様」

「は、はいッ!?」


 声が裏返ってしまった。


「わたくしは、貴女様が赤の他人だからこそお願いしたのです」

「……はい?」


 赤の他人という、少し前までなら100%皮肉の意味を込めて発していた言葉。

 それをいきなり投げ返されて、私は目をぱちくりさせる。


「これまでわたくしはお屋敷で毎日綸子様のお世話をしてまいりました」


 改めて聞くとなんだか色々と重みのある言葉である。

 あの綸子を毎日お世話をしているとこんな感じの人になるのだろうか。


「……ですが、毎日見ているが故に見方が固定してしまったり、変化に気付かないという事もあるのだと気付いたのです」

「え、ええ……まぁそういう事もあるかもですね……」


 鴨島さんの口から聞くと、ものすごい説得力がある----ような気がする。


「……あれですよね? 忍者が麻とかを植えて毎日飛び越えているうちに人間離れしたジャンプ力が付く、みたいな?」

「それは存じ上げませんが」


 渾身のフォローはあっさり流された。


「ですがわたくしは、麦原様……貴女様なら綸子様を託せると思いました」

「いやそんな託すとか託さないとか大袈裟なものでは……」


 ご飯を作って食べさせているだけでこんなに褒められてしまうと、労働の価値観とか諸々が狂ってしまいそうになって何だか怖い。

 

(そうよ私はしがないOLなんだから……下手にセレブな人達の価値観に染まってしまったらこの先ロクな人生にならない……気がする……!)


「あの……それで私の方は、当初の契約通りで大丈夫なんですよね……?」

「ええ、麦原様はこれまで通りにお過ごしください」


(良かった……鴨島さんの代わりをやれとかそういう方向じゃなくて本当に良かった……)


 あからさまに安堵した私を見て、

 

「お願いできるのは貴女様だけなのです……もし綸子様に何かあったら、このわたくし、死んで旦那様にお詫びしなければと覚悟を決めておりますので」


 鴨島さんは相変わらずな時代錯誤の言葉で話を結び、立ち上がる。

 そういうトコが怖いんですけど。


「では、くれぐれも綸子様をよろしくお願いしますよ」

「あッ、はい……」


 強張った笑顔で鴨島さんを見送った私はソファにへたり込んで小一時間脱力していた。

 そして気が付く。


「そうだ……チャンプ号の給油忘れてた!」


 先週まぁまぁの遠出をしたので日曜日までに満タンにしておこうと思っていたのに、そういう時に限って微妙な残業が続いていたのだ。

 

(明日出る時に……いや、どこに行くか分からないんだから今日やっとかないと、最悪途中でスタンドがなかったりする事もありうるか……)


 そこまで考えて、行先不明のドライブ自体はもう前提となってしまっている自分に少し笑ってしまう。

 麻を飛び越える忍者みたいに、人はこうしてなんだかんだで訳の分からない状況にも適応していくのだろうか。


「うーん、どうせならついでに洗車してワックスかけて帰りにお昼でも食べるかな……」


 休日を有意義に過ごそうという気持ちが遅ればせながら湧いて来て、私はソファから立ち上がる。


「よし、今日はお蕎麦にしよう!」


 それからまた小一時間掃除などしてから部屋を出た私は、エレベータから降りて来た綸子とばったり鉢合わせしたのだった----。

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