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前日譚

四〇過ぎた。

実家を出て、一人暮らしを始めてから、ちょうど十五年になった。


僕の職場は、町外れの大きな工場だった。


仕事内容といえば、ベルトコンベヤで運ばれてくる物体に、小さな部品をはめ込み続けるのみ。

誰とも話さず、鼻歌さえ歌う気にもならなくない。


でもこれだけの仕事でも、お金がもらえる。


たったこれだけの仕事でも、生きていけるのだ。


特にスキルも資格も持ち合わせていなかった僕は、この仕事しかなかった。


いや、むしろぴったりだと思った。


変に気負って恥をかくなら、ミスして他人に迷惑をかけるなら、

こんなミスしようもない仕事で食べていける方が、世間様が合理的だと判断してくれるような気がした。


朝六時に起きて、中古の軽自動車に乗り、工場で働き、夜中に酒と適当な飯をコンビニで買って帰る。


こんな暮らしでも、案外満足していたのだ。


軽自動車の安いカーステから流れるロックンロールに合わせて、大声で大熱唱すること。


深夜にテレビを流れる古い映画を見ながら、酒を浴びるように飲むこと。


この工場しかない寂れた街並みの中に、住み続けること。

そんな自分に酔っていた。


どうしようもない自分を生きることでしか、自分の体裁を守れなかった。


彼女を追いかけられなかった僕の弱さを、


彼女の隣に居続けられなかった僕の不甲斐なさを、


自分を慰めることでしか、満たせなかった。



年が明けてからしばらく経った一月の半ば。

滅多に雪が降らないこの街に、雪の降る予報が出た。


雪用タイヤを持ち合わせていなかった僕は、少し心配になりながらも出勤した。


電話は、車を運転中に鳴った。


滅多に鳴らない携帯電話は、なぜか解約できずにいた。


もしかしたら、連絡が来るかもしれない。

そんなことを心のどこかで思っていたからかもしれない。


携帯電話を耳に挟み、片手でハンドルを握る。

声の主は母だった。


「あんた今どこにいるの?」


聞き慣れた母の声に、少しがっかりした。


「……母さん、運転中なんだけど。」


「あんた聞いてないの?」


滅多に電話をかけない母だったから、そんな風に言われて少し怖くなった。


「どうしたのさ。」


「久下さんの娘さん、亡くなったのよ?今日は葬式だって。」


一瞬だけ、時が止まったみたいに感じた。

車を路肩に止めて、電話に集中する。


「死因は?死因はなんなのさ。」


気が動転していた。


「あんた、なんでそんなに焦って……」


「死因はなんだって聞いてんだよ!」


こんなに怒鳴ったのは、いつぶりだろうか。


でも、それはあまりにも聞きたくない話だった。


夢なら早く覚めてほしいと、本気で思った。


「縋、落ち着きなさい。」


僕は黙った。

耳が痛いくらいに受話器を押し付けて、その言葉を待った。


「彼女は、自殺したのよ。」


その瞬間フロントガラスに、雪がついたのがわかった。

その雪は、すぐに溶けて無くなってしまった。

この街で見たその雪はまるで夢のようで、

どこか現実離れしていて、

信じられないことだと、心の底から思った。



葬式に間に合わないとわかった僕は、後日久下家を訪れる旨を母に伝えて、電話を切った。


ハザードランプを切り、路肩に停めた車を再び動かす。


雪は次第にフロントガラスの隅に残るほどに勢いを増し、視界が悪くなった。


そしてこの日ばかりは、ロックンロールを流さなかった。



工場に着いた僕は、今日も食べるために働く。


ただ体を動かし、ひたすら感情を押し殺して。


それになんの意味がある?


彼女は死んだ。

自殺した。


彼女は、僕が生きていた理由だった。


彼女はいつでも凄かった。


僕じゃ、釣り合わないと思った。


だから、彼女についていけなかった。


そんなどうしようもないプライドだけで、


そんなくだらない理由で、


僕は僕を殺し続けたのだ。


彼女からできるだけ遠ざかれるように。


あの日の選択が間違いじゃなかったと、自分を説得するように。


「なあ、なんの意味があるんだよ。」


今日もベルトコンベアは流れ続ける。


僕が無益に過ごしてきた二十年と同じように、


意味もなく物体を流し続ける。


僕と同じように部品をはめ続ける人の姿が目に入った。


何度も見てきた光景だ。


いつもはなんの感想も抱かなかったその景色を、


僕は初めて惨めだとおもっった。


何かの糸が、プツンと切れる音がした。


「うぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおっ!」


僕は手に持っていた部品を地面に叩きつけた。


工場の空気が一変する。


そんなことすら、どうでもよくなっていた。


「こんなことが、なんのためになるんだよぉ!」


地面に叩きつけた部品を、僕はひらすら踏みつけた。

先に音をあげたのは、僕の足だった。


「ってぇーなぁ!」


骨でも折れてしまえばいいとさえ思った。


「このっ、このっ、この野郎おお!」


「天野くん、どうしたのさ!」


困った顔で工場長が駆け寄ってくる。


ベルトコンベヤの止まるサイレンが、工場に鳴り渡る。


「なぁ工場長。これがなんのためになるていうんだよ!」


工場長の肩を両腕で掴む。


「ちょっと天野くん、落ち着いてよ。」


工場長が何をしゃべっているかは、聞こえていても頭では理解していなかった。

何より、その時ばかりは、僕のことを僕が理解していなかった。


「なぁ工場長、なんで僕たちはこんなことしてるんだろうなぁ。こんな意味もないことを、ただ金を稼ぐためになぁ。」


泣くのは何年振りだろうか。


「なぁ工場長、彼女は死んだんだよ。自殺だって……笑っちゃうよなぁ。」


こんなに大声を上げるのは、さっきの車内の電話を含めても、人生で2回目だ。


「なぁ工場長、彼女は僕の生きがいだったんだ。彼女が輝けば、僕に釣り合わないって諦められた。僕がここで働き続けるのはそれが理由だったんだ。こんなどうしようもない場所で働いてたのは、働き続けたのは、それだけなんだよ。ただ惨めな自分を演じ続けてただけなんだ。慰め続けてただけなんだ。くだらねぇよなぁ!」


こんなにも感情的になったのは、間違いなく人生で初めてだ。


「なぁ工場長、彼女は死んだんだ。彼女は死んだんだよぉ……。」


僕はその場で泣き崩れた。その後のことはよく覚えていない。ただ、一度でもベルトコンベヤを止めた者はクビになることを知っていた。


僕は四〇になって、無職になった。



そのあとは、堕落した生活を送り続けた。


酒に溺れ、薬にも溺れた。


自暴自棄だった。


結局、久下家には顔を出さずじまいだった。


無益な時間がただただ流れる。


別に働いていても、働いていなくても、変わらないと思った。


やっぱり、僕はどうしようもないやつだと、自分に納得させるかのように酒に溺れた。




ある日、駅前で缶ビールを買ってベンチで飲んでいた。


日付が変わる十五分前。


一台の夜行バスがやってきた。


どうやらこの街から東京に一本で行ける、唯一の夜行バスらしかった。


僕は薬と酒に貯金を使い切っていて、ほとんど一文無しだった。


「でもこの夜行バスくらいの金なら……。」






僕は初めて彼女の元を追いかけようと決めた。


彼女の住んでいた、

そして彼女が死んだ、

東京の街へ。

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