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「先輩、全然言ってくれないんですから。」
そう言って彼女は車窓から見える夕焼けを眺めた。
だんだんと僕らの過ごした街が近づいてくる。
僕がずっと夢に見ていた小旅行は、もうすぐ終わりを迎える、そんな気がした。
「やっぱり、これは夢なんだな。」
僕も彼女と同じ方を眺める。
僕らの街は海辺に面している。この電車も、海に近づくにつれて車窓から見える景色が変わる。
障害物がなくなっていく。
そして、橙色に染まる海が顔を出す。
「先輩はあの日、私に告白をしませんでした。」
電車はがたんごとんと揺れる。
「先輩は高校へ進学、私はもう一年部活に勤しむ予定でした。」
電車は夢の中を泳ぐように走る。
「春、卯月。私は事故に遭いました。」
僕は黙ったまま、唇を強く噛みしめた。
「部活の帰り道でした。背負っていた竹刀は、私史上最高にボキボキに折れていたそうです。私は見てないですけどね。」
手を強く握りしめた。
「そして、先輩は長い長い五月病を患うことになります。」
「笑えないよ。」
「現にそうじゃないですか。せっかく東京の大学に受かったのに、本当にこのままでいていいのか、街を出てもいいのか、迷っている。」
「それは……。」
言葉に詰まった。
彼女の訃報を聞いてから、僕は彼女に対する想いを再確認すると同時に、もうどうにもならないことを悟った。
もしかしたら、道端ですれ違えるかもしれない。
もしかしたら、彼女が追いかけて、僕の通う高校に来てく
れるかもしれない。
もしかしたら、想いを打ち明けている自分が、未来にいるかもしれない。
しかしそんな未来は来るわけもなく、ただ臆病で弱い僕だけを残して、彼女はこの世を去った。
でも、臆病なだけの僕は嫌だった。
「僕だって変わろうとしたんだ。」
高校の勉強は頑張った。進学校とは言えない公立高校だったが、独学で高い模試の偏差値を獲得した。
友達は出来るだけ作らなかった。遊びに行く要因をできるだけ切り詰めて、自分のために全てを費やせる環境を作った。
部活にも入らず、クラブ活動、課外活動にも消極的だった。
学校が終わったら、図書館に通う。
市販の参考書を、ひたすらやり込んだ。
全ては、一人で生きていくために。
彼女が、藍がいない世界でも、生きていける強さが、僕は欲しかったんだ。
「変わろうとした結果、先輩は壮大にひねくれちゃったわけですね。」
「うるさい。」
藍は楽しそうに笑う。
「それで、先輩は一人で生きていけそうですか?」
その言葉に、バスの中の男のことを思い出した。
一人で生きることの辛さを、僕は彼から感じていた。
「わからない。でもとりあえず、バスに乗りこんだんだ。」
でも、僕も実は耐えかねているんじゃないだろうか。
孤独、寂しさに、もう疲れているんじゃないだろうか。
東京に行ったところで何も変わらないことに、気づいてるんじゃないだろうか。
「先輩。」
藍が僕の方を見る。
「先輩、過去の女に振り回されすぎです。」
その言葉に僕は驚いた。
「いつまで引きずってるつもりですか。あなたの想う人は、もうとっくに千の風になってますよ。」
「普通そんな風に言いますか?」
「こんな風に言わないと、悲しいじゃないですか。」
彼女が僕から目をそらす。
明言は避けようと思う。彼女はきっと気づかれまいと思っているだろうから。
ただ、その雫はとても綺麗だと思った。
「先輩は私なんかさっさと忘れて、さっさと次の人を探すべきなんです。いつまで五月病患ってんですか。もう五月が三回も過ぎてるんですよ。」
浮ついた声で、どうしてそんなことが言えるのだろうか。
「せっかく頑張って東京のいい大学に受かって、華やかし
い未来がそこにはあるかもしれないのに。」
彼女は、どうしてこんなにも強がれるのか。
「先輩は私なんかのために、いつまでもぼやぼやしてちゃダメなんですよ!」
あぁ、そうか。彼女も僕と同じなのか。
彼女も、言いたいことが言えないままここにいるんだ。
こんなにも弱い僕に、こんなにも強がって。
こんなにもどうしようもない僕に、どうしようもなく泣きじゃくって。
その瞬間、体が動いた。
いくつものステップを飛び越えているような気がした。
そして、そんなことを考えている自分がどうしようもなくおかしくて、笑えてくる。
でもただ純粋な思いが、貪欲なる願いが、僕をそうさせた。
抱きしめた彼女の体は、暖かかった。
「俺は、藍が好きだ。」
彼女を強く抱きしめる。
「今でも、どうしようもなく、藍のことが好きだ。」
でも悲しいことに、僕がどれだけ彼女を強く抱きしめても、彼女の鼓動を感じることは出来なかった。
彼女は、もう死んでいるんだ。
「私が、どれだけ……。」
体の力が抜けていた彼女の体に、一気に力が入ったことがわかった。
「私が、どれだけ先輩を心配したと思ってるんですか!どうして三年間もこうして電車に乗ってると思ってるんですか。」
弱々しいその体は、小さく震えていた。
「私も先輩が好きだからですよ。」
小さく呟いた声に、彼女は追い討ちをかける。
「先輩が大好きだからですよ!」
叫ぶようだった。
僕の服に体を埋めて、彼女は精一杯の声を出すようだった。
「心配でしたよ。先輩全然友達いないし。」
「……。」
「先輩勉強にしか脳ないし、効率厨だし、高校の授業内職しまくりだし。」
「……あれ?」
「そのくせおみくじはちゃんと恋愛の欄はチェックするし。でもクリスマスは一人でマックとか行くし!」
「あのー、藍さん?」
「先輩私に一途過ぎますよ!どんだけ好きなんですか!」
「まぁ抱きしめるくらいには。」
「……そういうこと平気に言わないでください!」
彼女がポンポンと背中をたたく。
僕が手を解くと、目を真っ赤にした彼女の顔が現れた。
案外、笑っていた。
「別に、忘れろ!なんて鬼畜なことは言いませんよ?先輩その様子だと、なかなか忘れてくれなさそうだし。」
「はぁ、そうですか。」
「でも、私に固執するのは、もうよしてください。」
電車が、駅のホームを捉える。
「じゃないと。私も成仏できませんから。」
海辺の簡素な無人駅。
ここが僕らの出会った街。
そして、別れる街なのだろう。
「先輩は、もう前を向いていいんですよ。」
そういって、彼女は笑った。
その顔は、僕が大好きな表情だった。
電車は海辺の駅のホームに着いた。
左側のドアが開く。
「僕は……いや俺は、前を向くよ。」
「そうですよ。それはもう女を取っ替え引っ替えしちゃいましょう。」
「俺そんな奴に見える?」
「そんなことできないことは知ってますよ。」
もう後ろは振り返らない。
今振り返ったら、きっと泣いてしまうだろうから。
「私はこのまま、電車に乗って上に行きますね。」
「あぁ。」
「長い旅でした。」
そう、それはとてつもなく長くて、寂しくて、臆病な旅だったはずだ。
「藍。」
「はい。」
「長い間、ありがとうな。」
「……はい。」
「俺も頑張るから。」
「はい。」
「また、誰かを愛せるようのに、頑張るから。」
「元好きな人に、堂々と不倫します宣言ですか?」
「どうしてそうなる。」
「冗談ですよ。」
彼女が笑う声が背中から聞こえる。
それと同時に、彼女が背中から抱きついてきた。
「先輩」
「あぁ。」
「私、ちょっと意地悪なこと言いますね。」
「好きなようにしてくれ。」
「わたし、先輩のことが、大好きでしたよ。」
「……あぁ。」
返す言葉が見当たらなかった。
彼女にとって、これは最後の爪痕であり、最後のメッセージだから。
僕はその言葉を強く噛み締めた。
「バスはもうすぐ東京に着くくらいに設定してあります。」
「設定って、すごいな。」
「多分真面目に乗ってたら、腰痛くてたまんないだろうなって思って。ちょっとした気遣いです。」
「そりゃどうも。」
「それじゃ、先輩。ご達者で。」
「藍も、ありがとう。」
僕は顔を上げる。
橙色が茜色に変わる。
あの夏の日も、こんな夕暮れだった。
その瞬間、彼女が手に力を一気に込めた。
「さぁ、素敵な彼女見つけてこぉーい!」
そう言って僕は彼女に背中を強く押し出された。
僕の体が電車を離れて、宙を舞う______