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「会社をクビになったんだ。」
そう男が切り出したのは、日付をまたぐ少し前。
「いや、馬鹿な話でさ。車のメーカーで働いてたんだけど、生産ラインに立ってるのが嫌になってさ、上司にキレちゃったんだ。『あぁ、俺なにやってんだろ』って思っちゃってさ。ほんと何やってんだろうな。」
男は自分を嘲笑するかのように話した。笑い話にでもしてしまいたかったのだろう。でも、それが彼にはできなかった。
「情けねぇよなぁ。いい歳こいて。こんな話を年端もいかない若蔵なんかに話しちゃってさ。」
僕は、彼のことをかわいそうだと思った。
彼は自分のことが捨てきれなかった。だから、生産ラインの誰でもできる作業に、あなたではなくてもできる作業に、何かをキッカケに嫌気がさしたのだ、そう思った。
髪に白髪が混じり始めて、それに気づいてしまったのだ、と。
でも社会は気にしない。社会が求めるのは、ベルトコンベアの上を動く鉄の塊に、小さな部品を当てはめられる『何か』だ。
『あなた』ではない。
「僕は……」
言葉はうまくまとまらなかった。でも、行き場のない心に、少しでも寄り添ってあげたいと思った。
「僕は、確かに年端もいかない若蔵ですけど、話くらいなら聞けますよ。全部を理解してあげられるかはわからないですけど、それでも良かったら話してみてください。」
男は目を丸くする。
「君、いくつだい?」
「自動車免許が取得できる歳ではあります。」
「なんか違和感があるなぁ。年相応って感じがしないんだよ。よく学校でおじさんって言われなかったかい?」
僕はあまり学校では交友関係を持たなかったが、確かに何人かのクラスメイトからはおじさんと言われたことがある。
僕はまだベルトの閉まらないお腹周りに苦しんだり、後退する前髪に悩まされてはいないのだが。
「あ、ごめん。おじさんは嫌だよね。おじさんも嫌だ。」
そう男は自分を指差して笑った。
僕も少しだけ笑った。
○
「好きな人がいたんだ。」
そう男が切り出したので、驚いてしまった。
「驚いたかい?僕も話すのはちょっと恥ずかしいんだけどさ。」
頭を掻きながらそう話す男に、妙な親近感を覚えた。
「いいと思いますよ、どの年で恋愛しても。」
「そうかい?」
「僕は嫌ですけど。」
と、本音を漏らす。
「なかなか辛辣だなぁ。」
まぁでも、と男は付け加える。
「僕もこの年まで引きずるのは間違いだと思うよ。」
うつむきながら男は話す。
「高校時代、僕は今で言うところの『コミュ障』ってやつ?でさ。なかなか友達できなくてさ。」
「なんかわかります。」
「え、そう?結構社交的にできてると思ったんだけど。」
確かに社交的ではある。ただ節々に見られる動作、仕草、人と話すことに慣れていない感じ……。
僕と同じで、人付き合いが苦手なタイプだろう。
「まぁそんなどうしようもないやつだったんだけど、彼女は僕が唯一と言っていいほど気を許して話せる人でさ。ほんとたくさんお世話になっちゃったな。」
懐古気味に話す男は、少し楽しそうだった。
「でも高校は卒業しなきゃいけないだろう?進学、就職、いろんな進路をそれぞれが進んでいく。その中で、僕は地元の大学、彼女は東京の大学を選んだ。」
少し男は笑った。
「僕は追いかけられなかったんだ、彼女のことを。彼女は凄かった。成績も良かったし、品行方正だったから、サクッと推薦もらっちゃってさ。僕は地元の大学で精一杯だった。」
とてもコミカルに話す男の顔に漂う哀愁を、僕は見逃さなかった。
「結局就職も地元の工場でさ。この工場しかない街から一歩も出られなかった。」
それから二十年近く、男はどこか彼女のことが引っかかったままきてしまった。
諦めていながら、やっぱり諦められないのだろう。
「それで会社をクビになって、この際だから彼女に会いに行こうと思ってさ。」
「会えるんですか?」
男は黙った。
数秒の沈黙を破るように
「どうせ彼女のことだから、イケイケのやつと結婚でもしてたりするさ。僕の入る隙なんてないよ」
とお茶を濁した。
なんだか、彼女に会いにいくわけじゃないみたいだった。
そこにないない何かに会いにいくみたいな、そんな怖さを感じた。
「おじさん、彼女さんに何かあったんですか?」
「おじさんは嫌だと言っただろう。」
男は俯いたままだった。
質問は、帰ってこなかった。
その代わりに、
「少年も、もし好きな人がいるなら、さっさと告って振られた方が身のためだぞ」
という教訓じみたものを享受させられた。
いい迷惑だとは、思えなかった。




