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東京の大学に合格した。
田舎育ちの僕は、初めて都会に出る。
実家の荷物を送り、一人暮らしの準備をする。
この街で生まれ落ちてから一八年が経った。
もうこの街に未練はない、といえば嘘になる。
やり残したことがひとつだけある。
それは僕にとって最も成し遂げたかったことだ。
願望と言ってもいいかもしれない。
そして、それはもう叶わない。
そのバスは、日付が変わる前に駅前のロータリーに来る。
ロータリーには、酔っ払いのサラリーマン、居酒屋のキャッチの威勢のいい声、少しやんちゃな風格の若者たちで賑わっていた。
夜の街に繰り出したことのない僕には、この街の活気に満ちた空気にとても馴染めなかった。
息をひそめるようにして、バス停の列に並ぶ。
バス停の前には意外にも沢山の人が並んでいた。
あの耳は、夢の国のものだろうか。
学生は春休みだ。友達とどこかへ行くのだろうか。
やけに皆が楽しそうだった。
僕は駅前のコンビニで買った缶コーヒーの封を切った。
手を温めながら少しずつコーヒーを口に含む。
見栄を張ってブラックコーヒーなんて買うんじゃなかった。
苦くて、僕には飲めなかった。
なんだか、とっても惨めな気分だ。
ブラックコーヒーくらい、飲めるようになっていたかった。
でも、ブラックコーヒーなんかを尺度にしている自分が、一番恥ずかしいと思った。
○
バスが来た。
缶コーヒーの中身を排水口に捨てて、コンビニで水を買い直してから、僕はバスに乗り込む。
バスは四列シートで、七時間の移動には少し窮屈だと思った。
隣には男性が座った。
四〇を少し超えたくらいだろうか。バス内があまり明るくなかったからだろうか、心なしか顔がこけているように見えた。
「そんなに気になるかな?顔。」
ついつい気になってその男性を直視し過ぎてしまった。
「すみません。」
「君、学生だろう?若いんだから、周りにいるおじさんなんかみんな睨みつけてやるくらいの威勢がなきゃ、彼女の一人や二人できないぞ?君のその見方じゃ、優しすぎる。」
この人、よく喋る。見た目に反して、妙に明るい人だった。
「そんなもんですかね。」
そうこう言っていたら、バスは走り出した。
車内の照明が少し暗くなる。
もう一箇所のバス停に寄るらしく、完全に消灯はしていなかった。
「君も夢の国のネズミを見に行くのかい?」
「そんななりに見えますか?」
夢の国なんて真っ平御免だ。僕はあの類のファンシーな世界観がとても嫌いだからだ。
「そうそう、その顔だよ。その睨み顔がモテるコツだぞ?」
僕は夢の国の頃を考えると、顔が強張ってモテ顔になるらしい。
そこにも驚きだったが、そういう男性の笑顔が妙に悲しげに映ったのが、印象的だった。
「なにかあったんですか?」
気になって尋ねてしまった。
「もしかして、顔に出てた?」
男は用心深そうに聞いた。
「それはもう哀愁の漂う顔をしてました。」
僕が答えると、
「君、面白いな」
と言って笑った。
作り笑いだと、すぐにわかった。