15 レアの夜、エリクの夜
脱衣を済ませ、レアとイルマは浴場にぺたぺたと足を踏み入れた。
「やっぱり広いねー」
「しかも私ら以外、誰も入ってない。……良し、泳ごう。無意味にはしゃぎ回ろ
う」
「やめなさい」
今にも浴槽に飛び込まんとする気配を立ち上らせるイルマを、レアは口で制す
る。この浴場は、スピネル城関係者が共同で利用している場所である。後に入る者の快適な入浴のためにも、イルマの暴走は食い止めておかねばならなかった。
掛け湯をして、湯船に浸かる。程よい温もりが身体の芯まで染み渡り、一日の疲れと緊張を取り去るような心地がした。
「ふはぁ〜。気持ち良い〜」
「う〜ん、ちょうど良い温度だわ〜。……良し、泳ごう」
「だからやめなさい」
「そうよ、イルマちゃん。泳ぐ時は、洗面器を浮き具代わりにするものでしょ
う?」
「あー、確かにそうですね。……良し、」
「三度目の正直に期待しても無駄だから、やめなさい。あとノエルさん、ごく自然に会話に混ざった上で一体何が『そうよ』なのか分からない事を言わないで下さ
い」
いつのまにか左隣でのんびりと湯船に浸かっているノエルに、レアは言った。
「むう、レアちゃんのいけず」
「そう言う問題ですか。……て言うか、いつの間に来たんですか?」
「いや、私が脱衣所に入った時にちょうどレアちゃん達が浴室の扉開けるところだったのよ。こりゃあお風呂でガールズトークに花を咲かせられるぞと思って、服をその場に脱ぎ捨てて来たの」
「せめてカゴの中に入れて下さいよ……」
呆れ気味にレアは言う。
言いながらも、ノエルの身体のある箇所にどうしても目が行ってしまう。湯船に浮かび、半分程が水面上に顔を覗かせている、ある箇所に。
それはさながら、天を衝く大山脈であった。たわわに実った果実であった。見る者を圧倒する威風堂々たる姿を見せながらも、同時に深い慈愛を内包する、並び連なる二つの山であった。
右隣のイルマを見る。ノエル程ではないにせよ、それは雲の上に山頂を抱く巨山の如きであった。瑞々しく弾ける果実であった。隙間に入り込んだ浴槽の湯は、谷間を割って流れる清流の如きであった。
視線を下に移す。平原に二つ、初心者向け登山コースがあった。
「ん? どしたのレアちゃん?」
「いえ、何でもありません。たとえ世界が理不尽で残酷だとしても、強く生きて行こうって思っただけです……」
身を縮めるようにして、レアは膝を強く抱きしめる。敗北者のオーラでその瞳を濁らせながら。
「それよりノエルさん、結局〈オリオン〉が言ってた事って何なんでしょうね?」
イルマが言った。
「ああ、"アルテミス"って謎プログラムね。何とも言えないわねー。何しろ本人すら分かんないんだし」
「その『プログラム』って言うのは何ですか?」
ノエルの言葉にレアが尋ねる。
「うーん……。簡単に言うと、機械への命令の事かしら。旧文明時代の機械なんかは、様々なプログラムに従って動いていたのよ。〈オリオン〉君が喋ったり自分で考えて動いたりするのも、ものすごく複雑なプログラムのおかげなのよ」
ノエルが言った。
「まあ、明日は〈オリオン〉君のメインコンピューター内にアクセスしてみる予定よ。何か分かるかも知れないしね」
「……ええと、つまり?」
「〈オリオン〉君の頭脳を調べて、知ってる事を引き出してみるの」
「なるほど。流石研究所の所長さんですね。正直あたし、〈オリオン〉の言ってる事の意味が良く分かんない時がありますし」
感嘆の響きを声に込め、レアは言った。
「まあ、普通に暮らしてたら知る機会も中々ないわよね」
「……どうしてノエルさんは、旧文明時代の研究をやろうって思ったんですか?」
ふと浮かんだ素朴な疑問をレアは口にする。
「うーん、そうね……。私、元々スピネルの出身じゃないのよ」
「そーだったんですか?」
イルマも興味があるらしく、話に食い付いて来た。
「うん。ベルチェって街の生まれなの。工業が盛んな街でね、街の中でもゴレムを良く見掛けるわ」
「ベルチェって確か、スピネルのずっと西にある街ですよね。名前だけは聞いた事があります」
「そうそう。……それで、子供の時から機械に興味があったのよ。でもってある日、発掘された旧文明時代のゴレムがベルチェに運ばれて来たの。あの街には、スピネルへ続く列車の駅があるからね。腕と胴体だけだったけど、私は初めて旧文明時代の機械を目にした」
浴槽の縁により掛かるように軽く身体を反らし、ノエルは天井を見上げる。その動きにお湯がぱしゃりと波立ち、浴槽内に波紋が広がっていった。
「みんなで凄く興奮したのを覚えているわ。一人の研究者に、子供達で一斉に色んな質問をしたわ。その人は作業の合間を縫って、答えてくれたの」
昔を懐かしむような遠い目をしながら、ノエルは語る。
「その日の感動が忘れられなくてね。気が付いたらこっちの道に進んでたって訳
よ」
「そーだったんですかー」
「そーだったのよ。そんな感動エピソードとかじゃなくて申し訳ないけど」
「そんな事ないですよ」
レアは首を振る。
「素敵な話だと思います。あたしなんか、ろくにやりたい事も見付けられないの
に……」
自虐気味な響きを込めて、レアは言った。
「何て言うかですね、あたしは将来の夢とか、全然考えられないんですよね。五年後や十年後、自分が何をしているかさっぱり思い浮かべられないんです」
「あー、そう言やレア、前に一回だけ私にこぼした事あったねー」
「ノエルさん、どう思います? どうすれば、やりたい事が見付かると思います
か?」
レアの言葉にノエルは「うーん」と腕を組む。
「人生相談とか柄じゃないんだけどね。……そうね。無理して見付ける必要ないんじゃない?」
「必要ないって……」
「こっちから見付けに行かなくても、向こうから転がって来る事だってあるわよ。そう言うのは巡り合わせって思うのも一つの道。結果平凡な人生で終わっても、それはそれで一つの正解。……レアちゃんは、今の生活が嫌い?」
「いいえ。楽しいです」
レアは即答する。
「だったらなおさら。別に夢に向かうだけが上等な生き方って訳でもなし。毎日面白おかしく過ごせるんなら、それは幸せな生き方。そして、もし何か心に引っ掛かるものがあれば、それに従うの」
「引っ掛かるもの?」
「そう。楽しいでも凄いでも、何でも良い。とにかく、レアちゃんの心を突き動かすものに対して正直になるの。それがあなたの目標を生み出す第一歩になる……とは断言出来ないんだけどね」
最後はどこか照れたように笑い、ノエルは言った。
「うーん、やっぱ人生相談とか苦手だわ。あんま参考にならなかったらゴメンね」
「いえ、十分ですよ。ありがとうございました」
レアは言った。
「取り敢えず、レアの当面の目標はノエルさん並みのナイスバデイを目指す事だ
ね。さっきからの視線移動を鑑みるに」
「気付かれてた!? い、いや、流石にノエルさん並みは無理かなー、って」
「イルマちゃん、手伝って。レアちゃんが動かないように」
「何する気ですか!? ……イルマ!? 何であたしをガッチリと羽交い締めにするの!?」
「いや何、レアが動かないように」
「あたしを動かさない理由が、どう考えてもロクものじゃない感じなんだけど!? ノエルさん、一応聞きますけどその指の動きは何ですか!?」
「心配ないわ。これから大きくするための魔法を、物理的に掛けるだけだから」
手をワキワキと動かしながら、ノエルはレアに迫る。顔一杯に、狩る側の笑みを浮かべて。
「よーし、行くわよイルマちゃん。レアちゃんのバデイと私の個人的愉悦のため
に」
「どんと来て下さい、ノエルさん。レアのバデイと私の個人的愉悦のために」
「待って待って待って待って下さい!? 魔法とか別に要りませんし目が怖いですし願望ダダ漏れになってますしとにかく待うきゃあああああああああああっ!?」
二匹の狼に捕らえられたレアは、一匹の哀れな羊に過ぎない。ろくな抵抗も叶わずその爪牙の餌食となり、狩られる側の悲鳴を浴室内に反響させるのであった。
月明かりの下、エリクは城の裏庭で一人黙々と剣の素振りをしていた。格納庫から出た後、部屋へ案内される途中に見掛け、目に付けていた場所だ。壁際に木剣の収まった剣立てや、木組みに藁を巻き付けて作られたカカシが置かれているのを見るに、ここは普段騎士団が訓練に使用しているのだろう。
許可なく使用している事に若干の後ろめたさを感じなくもないが、何しろここには鍵も立入禁止の立て札も一切存在していないのだ。用具に手を触れなければ問題ないだろうと言う自己判断だけで済ませておいた。
「よお。精が出るじゃないか」
だから背後から声を掛けられた時、エリクは何と言って謝ろうか、と真っ先に考えた。
「す、すみませ……なんだ、あんたかよ」
「ご挨拶だな」
振り返り、声の主を知ったエリクは、露骨に顔をしかめて見せる。その態度に声の主――サディアスは苦笑気味に鼻を鳴らした。
「何の用だよ。俺を馬鹿にしにでも来たのか?」
「廊下から人がいるのが見えたんでな、一応確認に来たんだよ。俺だってまだ仕事が残ってんだ。ガキ一人馬鹿にするための寄り道なんざ言う非生産的行為にかまける程暇人じゃない」
「本当に嫌味な奴だな……」
「性分だ。別に万人に好かれたい訳でもないから、直す気もない」
「そうかよ。んじゃどっか行って頂けますかね。練習するのに気が散るんで」
エリクはつっけんどんに言い放つ。
サディアスは黙って歩き出す。そのまま立ち去るのかと思っていたが、そうではなかった。壁際の剣立てから二本、木剣を取り出した。
「……? 何やってんだ?」
「持て、エリク」
エリクの疑問に答えるように、サディアスは木剣の一本を差し出す。
「何のつもりだよ?」
「気まぐれだ、相手してやる。その程度の暇はあるからな」
「はあ?」
「遠慮は要らん。本気で打ち込んで来て良いぞ」
冗談かとも思ったが、サディアスの声はあくまで真剣だ。とは言っても気負った様子でもない。言葉通り、正真正銘の『気まぐれ』なのだろう。
「……言ったな。じゃあお言葉に甘えさせて貰うぜ」
エリクは彼の手から木剣を受け取り、構える。少し距離を取り、サディアスも構える。
相手は騎士団長、冷静に考えれば半人前のエリクに勝ち目などない。が、彼はその事実をすぐに頭から締め出した。
やるからには、勝つつもりでやる。何より、こいつはムカつく奴だ。これほど本気が出しやすい相手もそうそういない。
「先に打たせてやる。来い」
「そうかい。……はっ!!」
エリクは短く叫び距離を詰め、木剣を振り下ろす。
ガシン、と受け止められる音が響く。衝撃が柄を通じ、手に伝わる。刀身そのものに緩衝用の革の袋を被せているとは言え、そこそこ痛かった。
それでも手は休めない。今度は左から右、横薙ぎに打ち振るう。これも受け止められる。素早く手を引いて袈裟に振るう。受け流される。
次は切り上げ、次は上から。左、右、上、下。右上、左、右、下、右、左上、右下、上――突き。
全て受け止め、流される。通る手応え、崩れる気配すらない。サディアスはごく泰然としていた。
(……くそっ)
一旦距離を取り、構え直す。
「……さて。こっちから行くぞ」
サディアスが言うと同時に、すっ、と前に出る。正眼に構えた木剣が横に動き、エリクの木剣の側面に触れる。
「……え?」
気が付いた時には、エリクは木剣を取り落としていた。カランカラン、と石畳の上を跳ねる音が響く。
一拍遅れて、エリクは眼前に切っ先を突き付けられている事に気が付いた。
「勝負あり、だ」
サディアスの声が、どこか他人事のように頭に響く。
「…………おい、今の何なんだよ……?」
たっぷり五秒掛かって、ようやく声の出し方を思い出す。喉から絞り出すようにエリクは呟いた。
力ずくで弾き落とされたのではない。あの瞬間、サディアスの木剣が、エリクの木剣を絡め取るような動きを見せた事だけは辛うじて思い出せたが――そこまで
だ。何がどうなったのか、さっぱり理解出来なかった。
「あんた一体、何の魔法を使ったんだ……?」
「魔法?」
サディアスは肩をすくめ、
「魔法なんぞ使える訳がないだろ。単なる技術だ」
ごくあっさりと言ってのけた。
「技術、って……。俺はしっかり柄を握ってたはずだぞ。だってのに、手が勝手に開かれたみたいになって……」
「だから、そう言う技術だよ。適切な身体操作の賜物だ。言っとくが、俺の技はまだまだ未熟なくらいだ。達人なら、そもそも手から離れる手応えすら感じさせな
い」
格が違う。
エリクの胸中に浮かぶのは、それだけだった。怒りも悔しさも、感じなかった。
「お前、剣を振るのに腕の力だけに頼りすぎだ。だから一撃が軽い。もっと全身の力を使え。お前確かショートソード腰に下げてたな? 片手で使う軽い剣を両手持ちで使ってるだろ? だから変な癖が付いてるんだ。直しとけ」
反発心さえも沸き起こらず、エリクはただ黙って聞いていた。
「もっとも、筋は悪くない。鍛錬自体はしっかりしてるみたいだな」
「……は?」
思わず、と言う風にエリクの口から声がこぼれる。
「……それ、褒めてんのか? 何のつもりだよ?」
「つもりも何もねえ。思ったままを言っただけだ」
素っ気なく、サディアスは答えた。
「じゃあな。これ片付けといてくれ」
そう言ってサディアスはエリクに木剣を押し付け、立ち去って行った。
その姿が城壁の影に隠れて見えなくなるのを、エリクは見るともなく眺め続けてていた。




