10 巨人の居る朝
「……ん」
薄っすらと開いたレアの目に、カーテン越しの朝日に染まった自室の風景がぼんやりと映し出された。
朦朧とした意識のまま、寝返りを打つ。頬の辺りに、何か固い感触がする。
手で探ってみると、それは本であった。読みかけの恋愛小説。昨夜これを読みながら、そのまま眠ってしまったらしい。
「……んにゃ」
本を頭の上、ベッドの棚に置いて、再び枕に顔を沈める。柔らかな弾力が頬に心地良い肌触りを伝えた。
布団の内側、自身の体温で程良く温まった空間に身を横たえる、この至福のひととき。緩やかに意識を溶かす睡魔に全てを委ねる、この甘美なひととき。
そのまま、レアの意識は夢の世界へと旅立って行く――
「んにゃああああああっ!?」
――事を許されなかった。首元からの非情なる振動が、少女の意識を可及的速やかに覚醒させ、奇っ怪な悲鳴を喉から溢れさせるのであった。
飛び起きたレアは、首元で振動を続ける物質――コントラクト・チョーカーの側面を指でこする。振動が停止すると同時に、自身からまどろみの時間を奪い去った『諸悪の根源』からの声が聞こえて来た。
『おはようございます、レア』
「やっぱりあなたの仕業ね、〈オリオン〉!!」
チョーカーからの無機質な声――旧文明の遺産であるゴレムの言葉に、レアは怒鳴り声を返した。
『肯定。昨夜の皆さんからの会話から、そろそろ起きる時間と判断しましたので』
「何してくれてるのよ! 折角人が後五分の二度寝を楽しもうとしてたのに!」
『実際には五分で済まない事も多いので、確実に起こしておいた方が良いと思いまして』
「て言うか、通信は切っていたはずよね!? 何勝手に繋げてるのよ!」
『いえ、接続、切断を行えるのは、カメラ等の機能だけであって、本機とマスターのコントラクト・チョーカーは常時接続されております。そもそも、コントラク
ト・チョーカーが存在する理由の一つは、マスターの逃亡防止のためですから、自由に接続を切る事が出来ては意味がありません。簡単に逃げられてしまいます』
「……で?」
『もしも私からマスターへ連絡がある時は、先程のように振動によって知らせる事になります。例えば予め設定しておいた時刻が来た場合などです。もっとも、先程は私の判断で行いましたが』
「つまりさっきのは、あたしが頼んでもいない余計なお節介を、あなたが勝手に焼いた、って事ね」
『肯定。お褒めにあずかり光栄です』
「皮肉全く通じてないよこのゴレム!? あのね、朝になったら起こすとか、そんな事をあなたがする必要はない――」
そこまでレアが言ったところで、部屋の扉をノックする音が聞こえて来た。
「誰?」
「ラダよ、レアちゃん。もう起きたのね?」
閉じた扉越しに、ラダが声を掛けて来た。
「あ、はい」
「やっぱり。何か話し声がすると思ったから来てみたの。〈オリオン〉ちゃんが起こしたのかしら?」
『肯定』
「助かるわぁ。レアちゃんってば、時々お寝坊さんだから。これからも、よろしくね」
『お任せ下さい』
〈オリオン〉の言葉を聞き届けたラダが、そのまま部屋の前から立ち去って行く気配を感じる。
「…………」
残されたものは、レアにとっていたたまれない沈黙。喋ってくれれば文句の一つでも返して気を紛らわす事も出来るだろうに、〈オリオン〉は何ら言葉を発しようとはしない。この場面、無言こそが何よりも効果的であると理解している風であった。
「……ありがとう、助かった。またよろしく」
『了解しました』
根負けしたレアの礼に、〈オリオン〉はどこか澄ましたように応えた。
『敗北』の二文字が苦々しく胸にわだかまるのを感じながら、レアはチョーカーの接続を切り、着替えを始めるのであった。
「皆さん――」
木造が基本のミメット村では珍しい、石造りの建物である教会。週に一度説かれるアリリオ・ジー神父の教義を、レアは木製の椅子に腰掛け、耳を傾けていた。
「この世界には、様々な人がいます。幸せに暮らしている人もいます。一方で、不幸な出来事に苦しんでいる人もいます。人は平等であるにも関わらず、何故このような差が出るのでしょうか」
人並みに信仰心を持つレアは、真面目な表情で話を聞く。
「それは幸福も不幸も全て、神がお与えになった事だからです。あなたの身に降り掛かる不幸は、神があなたにお与えになった試練です。人の世の不平等は、神の御前では些末な事。幸不幸に関わらず、己の人生を善く生きた者は、あの世で必ずや神の御前に導かれる事でしょう」
アリリオの柔らかな声色で語られる教えが、集まった人々の耳へと真摯に響く。
「要約すると、ごちゃごちゃ抜かしてねえでとっとと神信じろ、と言う事なので
す」
「いやアリリオさん。そこ要約しちゃダメなところだと思います」
そして、厳かな空気を瞬間的に台無しにするアリリオの言葉に、レアは反射的に口を挟んでいた。
「何を言いますか、レア君。シンプル・イズ・ベストと言う言葉を知らないのですか」
「逆にこちらが、オブラートに包むと言う言葉を知らないのですか、と聞きたいです」
「はっ」
「鼻で笑われた!? 聖職者からのまさかの反応ですよ!?」
「レトリックをこねくり回す暇があったら、ストレートに言いたい事を言った方が建設的ですよ。例えば女性に対して愛の言葉をささやくよりも、今すぐ裸見せろ」
「はーい、神父様ー。ちょっと黙りましょうねー」
「あがががががが!? ハナ君!? アイアンクローは普通人を持ち上げるために使われる技じゃあがががががが!?」
下品な方向に進み始めたアリリオの話を、シスターのハナ・ピンコットが腕力を持って封じ込める。成人男性を片手で持ち上げる程の膂力が、果たして可憐なる佇まいを持つ彼女の一体何処に備わっているのか。答えられる者は居ない。ついでに言えば、そもそも尋ねる者も居なかった。
「アリリオ神父。教えを説く時位、真面目にやれと私何時も言っていますよね?」
「や……やだなぁハナ君。僕は真面目に真剣に考えた結果、別にざっくばらんでも良いんじゃないかとあがががががが!? ちょっとハナ君!? 何か頭蓋骨から鳴ってはいけない類の音が鳴ってあがががががががが!?」
『なるほど、これがこの時代の宗教の教えですか。私の時代とは随分違っているようですね』
「……お願いだから、比較しないで……」
〈オリオン〉の言葉にレアは力なく返す。
シスターが神父に暴行を加える風景。悲しいかな、ここミメット村の教会においては、ごくありふれた風景なのであった。




