FALLIN'
ふと目を開けると、すぐそこに彼の寝顔があった。
最近疲れが濃かったその顔の、寝ている最中でさえ眉間に皺が寄っている様を見て、知らず笑みが浮かぶ。
彼の意思の強さをあらわすかのようなキリッとした眉のラインは、彼の顔のパーツの中でも最も好きな部分だ。
そして、その眉の下で静かな光をたたえて私を見てくれるその瞳も。
でもこの先、大好きな彼の目を私が見ることは二度とない。
私に絡みついている彼の腕をそっと外した。彼を起こしてしまわないよう、気をつけて。
私の素肌に触れいてた温もりが段々と失われていくと、一緒に私の心の欠片がこぼれ落ちていくようだと思った。
それが例え一瞬のことだったとしても、自分の心の弱さを認めてしまいたくなくて、ぎゅっと目を閉じる。
目を開けるときは迷いも何もかも吹っ切るんだと、自分で自分に言い聞かせた。
深呼吸をしてそろりと目を開く。
大丈夫。
私はまだ大丈夫だから。
彼を起こさないように、できるだけ物音をたてないように、そろりそろりとベッドから降りて服を着た。
彼と一緒に選んだお気に入りのサーモンピンクのハンドバッグから彼の部屋の合鍵を取り出して枕元に置く。
もう私には必要のないものだから。
弱い私の弱い心はここに置いていこう。
私は弱いから、合鍵を持っているときっとそれにすがってしまう。
心が折れそうになったら、また彼の元に戻って彼に依存してしまう。
そんな自分自身との決別の意味を込めて、彼との繋がりは断っておこうと決めていた。
これで最後だから。
これが最後だから。
彼の全てを忘れない。
分けあった二人の体温も、喧嘩をした誕生日も、笑いあった散歩道も、一緒に買ったコーヒーの味も、何もかも全部を。
私の中に刻みつけて生きていく。
難しい表情をしたまま健やかな寝息をたてる彼の全てをいとおしく思う気持ちは変わらない。
それでも。
私はこの気持ちを、たった一つの宝物のように大事に胸に抱いて歩いていく。
この期に及んで名残惜しく彼を見つめる自分を叱咤しながらそっとドアを締めた。
月明かりに邪魔されてささやかな星の光は消されてしまった。
晄々と降りそそぐ穏やかな月光の元で、スマホの画面は一層無機質だ。
冷たく明るいディスプレイに表示されているのは彼の番号。
彼からの電話もメールもSNSも思いつく限りを着信拒否にして、彼の名前の画面の「この電話帳を消去しますか?」の言葉に「YES」を選ぶ。
スマホをポケットにつっこみ、ショップの営業開始時間と同時に解約しよう、と思った。
昔の自分を切り捨てて、新しい自分になるための謂わば儀式だ。
そう、儀式なのだ。
職場も辞めた。
アパートも立ち退いて、行く先は誰にも告げていない。
ただの偽善かもしれない。
独りよがりだという自覚もある。
しかしいくら考えても私が私である以上、こうするしか考えられなかった。
自分をかわいそうだとは思わない。
悲劇のヒロインになるつもりもない。
だから、この儀式の締めくくりとして、最後の最後に彼がまだ眠っているであろう部屋をそっと見上げた。
今はまだ無理そうだけど、いつか時間が過ぎればそんなこともあったと、笑って話せる日も来るのだろう。
だって優しい思い出しかないから。
輪郭がぼやけて滲んでいく。
部屋のすぐ脇の街灯までもが存在を消すように揺らめいた。
見上げたままで瞬きを必死に堪える。
目蓋に溜まった雫がこぼれていかないよう、必死に顔を上げ続ける。
永遠のような一瞬。
この想いと決別するためにぐっと唇を噛みしめて踵をかえす。
強く握った拳に、爪が手のひらに食い込む痛みで胸の痛みを誤魔化した。
ゆっくりと一歩を踏み出す。
枷もないのに重い足を引きずって、それでも前へと進む。
いつもならとっくにたどり着いているすぐそこの角まで信じられないくらいの時間をかけた。
角を曲がればもう彼の部屋は見えない。
背中に感じている彼の気配が途切れてしまいそうで怖い。
怖いと思う自分が嫌になる。
さっき確認したばかりじゃないか、吹っ切るんだと。
後ろにまだ彼の部屋があるという思いと、一歩でも前に進まなきゃという思いの狭間で葛藤しながら、遂に辿り着いてしまった。
いつの間にかあんなに明るかった月は西に傾いていて、うっすらと白く透けはじめている。
空に溶け込みそうなその月を見上げて、自分を重ねた。
じきに昇る太陽と入れ替わりに月は完全に姿を消すだろう。
私もあの月のように、影も残さずに去っていこう。
曙の光のなかで、きっと私は新しく生まれかわる。
そして、悲しみも苦しみも、私を縛るしがらみも、全てを軽やかに飛び越えて生きていこう。
「………………………!」
肩がびくりと震えそうになる。心臓が早鐘を打つ。背筋に冷たい汗が流れる。
重かった足は解き放たれて駆け出した。
聞こえない。聞こえなかった。
きっと幻聴。
寝起きが悪くて惰眠をむさぼる彼が、こんな夜明け前に起きるはずがない。
「おい」とか「お前」としか私を呼ばなかった彼が、叫ぶように私の名前を呼ぶはずがない。
「……………!」
聞こえる声は現実なのか、私の脳内でこだまする願望なのか。
がむしゃらに、逃げ出すように、追いたてられるように、走って走って走って。
息が切れて口の中はカラカラに乾いてそれでも走って。
「………!……!」
普通は歩きもしない裏道に入り、朝ぼらけの無人の路地を幾本も抜ける。それでも私は足を止められなかった。
ここで立ち止まったら二度と前に進めない気がしたから。
突如ぱあっと目の前が開けてはじめて私は大通りに出たことを知った。
正面から昇りたての朝陽を全身に浴びる。
急に呼吸が楽になる。
憑かれたように動いていた足に私の意志が戻る。
まるでスポットライトみたいだ、と暢気に思った。
いつの間にか夜が明けていたんだ。
私を呼ぶ声ももう聞こえない。
あまりの眩さに目を伏せる。
こぼれ落ちた水晶の雫がゆっくりと頬を伝って、煌めきながら涙になった。
お読みいただきましてありがとうございました。
執筆予定の短編連作の習作です。ネガティブだけど前向き(どっちだ!)を目指してみました。




