幽世姫と朝霧くん
天高く、柔らかな陽光は世界を優しく包み込む。若々しい緑を湛えた木々は風に歌い、二羽の小鳥が仲良く連れだって飛んでいく。
こんなにも穏やかな日には、芝生に寝転がってのんびりと昼寝でもするべきだ。断じて大学などという面倒の塊のような場所に居るべきではない。
「そうは思わないかい?」
「思わねぇよ。いいからさっさと食えよ、直音」
僕を半目で睨みながら、小学校からの腐れ縁である〝南雲健斗〟が割り箸の先端をこちらに向ける。
ちなみに直音と言うのは僕の名前だ。〝朝霧直音〟。まぁ、どうでも良いよね。
「ねぇ健斗。なんで生きるのってこんなに面倒なんだろう」
「お前、本当に昔っからダウナーだよな。いつも寝不足か? 夜な夜な世界でも救ってるのか?」
「そうだよ。って言ったら信じる?」
「信じるよ。そしてうちの病院のベットを一つ空けてやる」
健斗は病院の息子だった。それも大病院。その気になればいつでもニート生活できるのだ。羨ましいなぁ、と過去に言ったら、頭を小突かれて「ボンボンにはボンボンの苦労があんだよ」と怒られたことがある。
「お前、よくそれが食えるな」
健斗が僕の目の前にある『テラ盛り牛丼』を見遣る。
「みんなが言うほど不味くないよ。それに、これを食べれば三日は何も食べなくても生きていけるからね」
「その脳が痺れるほど甘い牛丼がか? お勧めしねぇな、その食生活は」
健斗が大げさにため息をつき、自分の焼き豚丼を豪快に掻き込む。どん、とどんぶりをテーブルに置き、こちらをじっと見つめてくる。
「何? 僕に恋でもしちゃった?」
「ふざけんな。アルカパの方がまだ良いわ。まぁそれは置いておいて、何でお前ってモテないんだろうなと思ってな」
「さぁ。顔じゃない?」
適当にそう返すと、健斗がこれでもかと言うほど大げさに肩を竦める。アメリカにでも移住したらいい。
「確かにその覇気もしまりも無い顔は問題だけどな。でも、お前は勉強しないくせに成績は良いし、スポーツもゲームも芸術も、やれば人並み以上だ」
「天才と言われる人たちには遠く及ばないけれどね」
「中途半端に謙遜するな。スペックは高いと思うんだけどなぁ」
本気で心配しているような表情で、大病院の一人息子という立場の健斗がそんな事を言う。
不意に、食堂の出入り口が色めいた。僕はなんとなしに視線を向ける。
「見ろよ直音。〝持てる者〟の御登場だ」
黄金の中に一筋だけ銀を混ぜ込んだような、冷たさを感じさせるブロンドの髪。大胆にカットしたサファイアを思わせる、大きな蒼い瞳。その美貌はスラリとしたうなじに支えられ、豊満な肢体が圧倒的な存在感を放っている。まるで歩く芸術品のようだった。
彼女の名前は〝姫川莉乃〟。始めに言っておくが、中学生の描いた少女漫画にでも登場しそうな程のハイスペックだ。
日本を代表する大財閥の一つである〝姫川財閥〟の四女。フランス人女性とのハーフであるらしい。
その圧倒的な美貌。魅惑的な身体。そして超越的な権力。天から三物を与えられた、まさにこの大学の〝姫〟と言える存在であり、全学生の憧れの的である。本当にこんな人間、実在するんだなぁ、という感想しか出てこない。
そして、僕の想い人でもある。まぁ、なんとなく「いい感じになれば良いな」という程度だが。
「かーっ! やっぱ良いよな、姫川莉乃! お近づきになりてぇー!」
「健斗、おやじくさいよ」
姫川さんが歩くと、まるでモーゼの奇跡のように人垣が割れていく。カウンターでコーヒーを受けとり、食堂窓際にある隅の席へと腰を下ろす。そこは彼女の指定席になっていた。
「相変わらず一人みたいだな」
健斗が姫川さんの周囲を観察しながら言う。
美しい花にたかる虫は多い。その蜜が甘いのであれば、なおさらだ。実際に姫川さんに取り入ろうと周囲をうろつく者は少なくないが、誰一人としてお近づきになれたものは居ない。姫川さん自身が、近づく人間全てを払いのけてしまうのだ。
圧倒的な美貌、絶対的な権力、そして苛烈なその性格。ゆえに、ついたあだ名が――
「今日も〝幽世姫〟は絶好調だ」
苦笑い気味に、健斗が言う。嘲笑の笑みではない。手が届かぬものへ対する諦めの笑みだ。
幽世。それは永久に変わらない神域。人の手が届かぬ境界の向こう側。絶対の禁足地。
だけど僕は、そんな風には思わない。
「ちょっと行ってくる」
腰を浮かす僕を見て、健斗がいやらしく歯を剝く。
「おっ、今日も御出勤か? 相変わらず気になった事だけには一直線だな。まぁ頑張んな」
薄情な声援を背中に聞きながら、まっすぐに姫川さんの元へと歩を進める。周囲から好奇の視線と「またあいつだよ」という怒りとも呆れとも、嘲りともつかない声が聞こえてくる。
「こんにちは、姫川さん」
ちらり、と蒼い瞳が鋭く僕を刺す。
「まったく、いつもいつも……。学習能力ってものが無いのかしら。何度お願いされても同席はしないし、許さないわよ」
「お願いじゃなくて、お誘いなんだけど」
弓を引き絞るように、蒼い瞳が細められる。
「余計にお断りよ。なんでこの私がアンタみたいな人型マリモに誘われないといけないのよ」
マリモって。マネキンみたいに気配が無い、と言われたことはあるが、マリモは流石に初めてだ。
「なんていうかさ。いつも一人で寂しそうだったから」
「寂しい? そんな感情、生まれてこの方一度も感じたことはないわね」
困ったように頭の後ろを掻く僕に向かって、姫川さんが今にも噛みつきそうな勢いで言い放つ。全方位に敵意を振りまくその様子は、まるで捨てられた犬みたいだった。
「じゃあ言い方を変えるけどさ、なんだか、とてもつまらなそうだ」
「……つ、つまらな、そう?」
火が消えるように、姫川さんの放つ怒気が萎んでいく。そしてそのまま俯き、考え込むように何事かを呟き続けている。これは今日も失敗だな。
「じゃあ、お誘いはまた今度にするよ。邪魔したね」
立ち去ろうとする僕の背中に、姫川さんから声がかかる。
「待って。私って、そんなに風に見える?」
大げさ過ぎるほどに肩を竦めて見せる。健斗の真似だ。
「見えるね。僕以上に退屈そうだ」
☆
女心と秋の空とはよく言うが、春の空だって結構気まぐれだ。
昼過ぎから表情を曇らせ始めた空は、夕刻前にはついに泣き出してしまった。
「さて、どうしようかな……」
雨に煙るアスファルトを眺めながら、一人呟く。
購買まで戻って傘を買おうか。いや、面倒だ。
そこらに放置されているビニール傘を拝借するのは? やめておこう。泥棒は良くない。
こんな時に合い傘を申し出てくれる幼馴染の一人でもいれば良いのだが、生憎とそのような素晴らしい人物は居ない。健斗の奴も、今日はゼミで帰りが遅くなるそうだ。
まぁ濡れても良いか、と晴れの日と変わらぬ歩調で歩き出す。
周りには上着を頭の上までずらして、セルフ二人羽織のようになった人々が駆けて行く。たいして意味もないだろうに。腕が疲れるだけだ。
キャンパスを抜け、大学の正門を越える。僕の家は、ここから徒歩五分の超近場アパートだ。風呂トイレ別な上に、家賃も安くて大変助かる。台風のたびに家屋倒壊を心配しなければならない事を除けば、最高の物件だ。
予想外の雨に、誰もが足早に僕の横を通り過ぎていく。ふと、視界の先に小さな段ボール箱が見えた。行きかう人々はその中身を見て表情に影を落とすが、歩調を緩めることなく過ぎ去っていく。一体何だ、あの中身は。
少しの好奇心に駆られて、横目で段ボールの中を見遣る。そこには一匹の子猫がうずくまっていた。
捨て猫とは今時珍しいな、とは思うが、特にしてやれる事は無いし、その気もない。
捨てた人も考えが浅い。確かにここは人通りだけは多いが、単身用アパートに住まう学生がほとんどだ。当然、ペット禁止。大学のサークルハウスで飼うのも禁止されている。まぁ僕の住んでいるような、大家ですらその存在を忘れかけているようなボロアパートなら飼えるのかも知れないが。
特に何かを悩む事も無く、僕は歩き出す。
不意に、背後で細い鳴き声がした。
雨音に混じって聞き取りにくいが、確かに猫の鳴き声のように思えた。なぜなのかは自分でも解らないが、それが妙に気になって、足が地面に縫い付けられた。
首を後ろへ向けてそのまま数秒固まっていると、ひょっこりと子猫が段ボールから顔を出し、しまいにはそれを乗り越えて僕の元へと歩いてくる。
弱く、頼りないその足取り。しかし確実に、しっかりと僕の元へ近寄ってくる。
やがて踵の後ろにちょこんと座ると、もう一度か細く鳴いて見せた。
一歩歩く。子猫がちょこちょこと付いてくる。
もう一歩歩く。また子猫が付いてくる。
「……うちに来たって、何にもないよ」
なぜか声をかけてしまった。動物に。捨て猫に。僕は一体何をしているんだ。
子猫はそれで構わないと言う様に、僕の踵に頭を擦りつけた。
☆
ハンドタオルで子猫の身体を慎重に拭いてやり、なけなしの食パンを千切って牛乳に浸し、小皿に盛りつけて出してやる。あぁ、なんで僕がこんな面倒な事をしなければならないんだ。
僕も上半身裸になって身体を拭くが、どうもべた付きが気になった。即席離乳食の匂いをしきりに嗅いでいる子猫を放っておいて、シャワーを浴びる。
蛇口を捻り、シャワーが湯になるのをのんびりと待つ。幾筋もの水流が浴室の壁を叩く音を聞いていると、考えるともなしに様々な思いが浮かんでくる。
成り行きとはいえ、拾ってしまった。連れ帰ってしまった。
飼うのか? 僕が? なぜそんな面倒事を自ら抱え込んでしまったのだろう。
……まぁ良いか。解らない事は健斗の奴に聞こう。ま、餌だけやっていれば勝手に育つだろう。
適当に雨を洗い流し、バスタオルで乱暴に頭と身体を拭きながらワンルームに戻る。
おや、と思い辺りを見回すが、例の子猫の姿ない。残されているのは空になった即席離乳食が乗っていた小皿のみ。
気にはなるが、とりあえずは着替えだ。そう思って部屋の隅に放置してある、洗濯済み衣類の中に手を突っ込む。
ふと、指先に毛皮の気配。はて、そんな服を持っていただろうかとシャツを捲りあげる。
「……こんな所でくつろぐなよ、お前」
僕のシャツに身体を沈め、ぷっくりとお腹を膨らませて幸せそうに眠る子猫の姿がそこにあった。中々逞しい奴だ。
ま、居心地が良いようで何よりだね。
☆
子猫を拾ってから数日。健斗や田舎の母親などに話を聞いて、一つ解った事がある。子猫を育てるというのは、思いのほか手間が掛かるらしい。
春とはいえまだ寒い日も多い。かと思えば急激に気温が跳ね上がる事もある。人間でも体調を崩しやすいこの時期に、空調などという上等な設備の無いボロアパートに子猫を放置していくのは危険であるというのだ。
いくら近場とはいえ一日に何度も部屋に戻るのは流石に面倒過ぎるため、薄手のパーカーを着て、そのフードかお腹のポケットに子猫を入れて連れ歩いている。そのせいか、最近やけに女子に人気だ。モテているのは僕じゃないけれど。
「あ……。しまった。こいつのごはんを買い忘れてた」
家へ向かう帰り道、手の中で寝ぼけて僕の指を甘噛みする子猫を見て、不意に思い出した。パンも牛乳も今朝で品切れ。こいつに食べさせられるようなものが何もない。まさかカップ麺と言う訳にもいかないし。
コンビニに行くか……。いや、面倒だな。家から歩いて六分も掛るじゃないか。往復十二分。ダル過ぎる。
そんな事を考えながら歩いていると、とあるサークルハウスの前を通りかかった。
「フィッシング研究会、か」
そこは研究会とは名ばかりの、姫川莉乃が完全に私物化しているサークルハウスだった。建設現場などによくあるような小屋を少し大きくしたようなサークルハウスの裏手には、専用の釣り堀まで作られている。
そんな充実の設備を使用しているのは、しかして姫川莉乃ただ一人。彼女のフィッシング研究会に入会するには、姫川さんに認められて直接入会届を貰うほかないらしい。
それはつまり、無理という事だ。学生の間では〝裸足で月を目指す事と変わらない〟とまで言われている。
しかしそれも入会するには、と言う話だ。ちょっとお願い事をするくらいは誰にでもできる。はずだ。
「魚とか、分けてくれないかな……」
実の所、金欠なのである。母親が銀行へ行くのを面倒がって、もう二か月も仕送りをしてくれていないのだ。当然、アルバイトなんて面倒な事はしていない。
子猫をお腹のポケットにしまい、ドアをノックする。しばし待つ。……返事が無い。
もう一度、今度は少し強めに扉を叩く。しかしやはり返事が無い。留守だろうか?
踵を返して立ち去ろうとしたところに、何か大きなものが水中に飛び込むような音がした。直感する。音の発生源はサークルハウスの裏手にある釣り堀だ。
ドアノブに手をかけて回してみる。鍵は掛っていない。
「はぁ。最近、面倒事に恵まれてるなぁ……」
☆
針の先に練り餌を付ける。大きくなり過ぎないように注意。
私は良くこれで失敗をする。『餌は大きい方が食いつきも良いよね』なんて思ったら大間違い。パクリと餌だけ食べられて、はいお終い。後には何も残らない。
餌の付いた針を釣り堀へ投げ入れ、糸を垂らしたままでひたすら待つ。
風のそよぐ音が聞こえる。遠くでは運動系サークルの掛け声。周りには誰も居ない。そばにいるのは、十年前に保健所に連れて行かれそうな所を保護した私の愛犬、マジョルだけ。身じろぎもせず、長い毛で隠れた瞳で、揺れる浮きをじっと見つめている。
私の為の、私だけの時間。気を張りっぱなしの生活の中で、唯一私が気を抜ける瞬間。
陽光を反射して輝く水面に揺れるカラフルな浮きを見ていると、なんだか他人とは思えなくなってくる。
餌を付けられ、投げ入れられ、喰いつかれて、沈められる。
そこを私は釣り上げる。浮きは宙を舞う。そして、哀れなおまけが付いてくる。
別にハンターを気取っている訳じゃない。なんとなくだが、この釣りという行為が私にとって実に相応しい気がするのだ。
ちょっぴり、親父くさいかな……なんて思ったりもするけど。
ふと脳裏に、あの食堂でかけられた言葉が蘇る。
「つまらなそう……。退屈そう……」
自分でも意識しないままに、言葉が口をついて出た。
確かにその通りだ。私はつまらない。退屈している。
形あるものは望めば大抵の物は手に入る。故に興味が無い。
スポーツも勉強も、難しいものなど何もない。どんなミステリーも先が見える。
人付き合いにも興味は無い。いや、違う。誰も私になど興味は無い。
見ているのは外見。そして姫川財閥の四女という立場だけ。〝姫川莉乃〟に興味を持つ者は誰も居ない。
少し叩けば飛んでいく。軽く払えば離れていく。そんな人間ばかりだ。
あぁでも、あいつだけはちょっと違ったな。あの人型マリモだけは。
どれだけ睨んでも、嫌味を言っても、変わらずいつも声をかけてきた。
誰にでも向けるような普通の表情、普通の声で。いつも変わらず、いつも通り。
ご機嫌伺いではない。取り入ろうとする嫌らしい笑みでもない。
あり得ない事だけど、多分アイツは〝姫川財閥の四女〟ではなく〝姫川莉乃〟に話しかけていたのだ。
「つまらなそう、なんて言われたの、初めて、だったな……」
風の音かと思ったが、違った。またも意識せずに言葉が口から溢れ出ていた。
私の感情の機微に気がつく者など、マジョル以外には居ないと思っていたのに。
いや、気のせいだ。きっとそう。
突然、マジョルが小さく吠えた。
ハッとして浮きを見ると、沈んでいる。慌てて竿を引くと針の先に小さな魚が付いてきた。
銀色の鱗が光を反射して輝いている。元気に跳ね回る小魚を慎重につかみ、針を外して堀に帰してやった。
「ありがとうねマジョル~♪ よちよち、お魚が釣れてマジョルも嬉しいでちか~。私も嬉しいでち~♪」
でへへ、と相貌を崩してマジョルの頭を抱え込むように撫でる。ああんもう可愛い! 超ラブリー! やっぱ犬は良いわぁ。人間なんか目じゃないわぁ。
ふと我に返って辺りを見回す。だ、誰にも見られていないよね……。うん、居ない。居るはずが無い。
その時、突然サークルハウスの扉が叩かれる音がした。
「わひゃあ!? だっ、誰!?」
驚いて反射的に立ち上がり、一歩後退る。
その足元には、先ほど放り出した釣竿が――
「わっ!? とっ、わ、わ!」
ヤバい、と思った時にはもう遅い。
空がひっくり返る。
私の身体は、輝く水面と吸い込まれていった。
☆
「お邪魔しまーす……」
一応、挨拶だけはしておく。なんだかイケない事をしているような気がして、落ち着かない。
フィッシング研究会のサークルハウスは、予想以上に私物化されていた。
壁に所狭しと飾られた、値段を知りたくも無いような高級そうな釣り具の数々。黒い壁かと勘違いしてしまいそうなほど巨大なテレビ。手当たり次第に集められたと思われる、ジャンルの揃わない数々の小説。山積みにされた漫画、ゲーム。後は女の子らしくファッション雑誌や見るからに高級そうな靴やバッグの類。乱雑に転がっているアクセサリー類も、きっと目が飛び出るほどの価値があるのだろう。もし僕が泥棒だとしたら、天国のような場所だと思えるはずだ。
「多趣味……とは違うな。楽しそうな物を掻き集めた、って所か」
部屋の奥、釣り堀へ繋がっていると思われる扉の向こうから、水を叩く音が聞こえてくる。
泳いでいるという感じではない。明らかに溺れて、もがいている。
切羽つまったような犬の鳴き声も聞こえてくる。姫川さんのペットだろうか。その声を聴いて、ポケットの住人が目を覚まして細く鳴いた。
パーカーを脱ぎ、子猫ごと机の上に置いておく。
扉を抜けると個人所有の設備とは思えないほどの立派な釣り堀が広がっていた。その一角で、美しい金髪を振り乱して溺れている姫川さんの姿が見えた。
「手を貸そうか? 姫川さん」
駆け寄り、声をかける。
「あっ、アンタ! 人型マリモ!? どうしてここにっ」
「朝霧直音だよ。ほら、手を出して」
もがく姫川さんに手を差し伸べる。姫川さんはこの期に及んでもまだ少し悩むそぶりを見せていたが、やがて僕の手を取り、堀の淵へと足をかける。
「どうしたの? ほら、早くおいで」
「ふっ、服が、水吸って、動きにくいっ……」
見れば、姫川さんの服装は薄手のニットにワンピースというものだった。今では水を吸って、身体にピッタリと張り付いてしまっている。確かにアレでは動きにくいはずだ。
「仕方がないな。よっ……と」
「はわっ!? ちょっ、急にひっぱらな――」
ズルリ、と音がした。足が外れ、支えを失った姫川さんの身体が堀へと向かって投げ出される。そしてお互いにしっかりと腕を掴んでいる。
えっ、嘘。マジか。
子猫、置いてきて良かった。
浮遊感は一瞬。次に僕を襲ったのは目が覚めるような水の冷たさと、釣り堀の生臭さだった。
「なんでっ! アンタまでっ!! 落ちてんのよーっ!!!」
姫川さんがもがきながら悪態をついてくる。いよいよ混乱しているようだ。
「落ち着いて姫川さん。ほら、足つくよ。見た目よりずっと浅い」
「はっ!? 足っ!? 足……あし……。あ、ほんとだ。立てる」
姫川さんが息を切らせながら、呆けたようにきょとんとしている。
やがて、湯が沸騰するような声で呻きだし、そしてお腹を抱えて笑い出した。
「さっ、さっきのアンタ。最高だったわよ。くふふ。落ちる瞬間のあの間抜けな顔! いつもやる気無さそうな顔してるけど、あんな表情もできるのねぇ」
まいったな。そんな変な顔していたのか。
「姫川さんこそ、そんな表情ができるんだね。うん。いつも可愛いけど、笑顔のほうがやっぱり良いな」
「へぁ!?」
口元を歪ませたまま、姫川さんが固まる。
どうかしたのかとその顔を見つめていると、小刻みに震えだした。顔にはほんのりと赤みが差してくる。一体何だろう。
「どうしたの? もしかして熱でも……」
「うっさい! バカ!」
姫川さんが両手で思い切り水を掬い上げ、僕に向かって叩きつけてきた。本当に、歩く少女漫画のような人だと思った。
☆
サークルハウスの一件から二日が過ぎた。特に変わった事などない。今日も世は事も無し。
唯一の変化と言えば、ここ二日間、食堂で姫川さんの姿を見かけていないという点だけか。
そう言えば、結論から言うと魚は分けて貰えなかった。姫川さんいわく「バッカじゃないの!? 釣り堀の魚が食用なわけないじゃない!」だそうだ。言われてみればその通りである。
代わりに、とバゲット一本と牛乳の五百ミリリットルパックを貰った。すごく有難い。
不意にパーカーのフードの中で子猫が細く鳴いた。そのまま這い出てきて、僕の肩に乗る。
「どうした、おなかが空いたか?」
子猫はその言葉を聞いていない様子だった。どこか別の場所をじっと見つめている。その視線を追っていくと、その先には木陰のベンチに腰かけて弁当箱を膝の上に広げる姫川さんの姿があった。その足元には、ペットの犬が行儀よく座っている。
「こんにちは。食堂に来ないから、どうしたのかと思っていたよ」
「あら、人型マリ……じゃなくて、朝霧くんじゃない。こんにちは」
挨拶が返ってきた。しかも名前を呼んでくれている。今日は機嫌でも良いのだろうか。
姫川さんの犬が進み出てきて、僕の足に甘えるように頭を擦りつける。あの一件以来、僕を恩人だと思っている様子だった。
子猫が僕の肩から飛び降り、爪を立てて犬の頭に飛びついた。慌てて引きはがそうとしたが、姫川さんの「大丈夫よ」という言葉に止められた。果たして犬と子猫は、姫川さんの言葉通りに楽しそうにじゃれあっているだけであった。挨拶を交わすように鼻と鼻を突き合わせている。
「賢い子だ。気品もあるね、まるで姫川さんの執事みたいだ。なんていう犬種なのかな」
「マジョルは雑種よ。もとは捨て犬。躾と毛並みのお手入れは、私がしっかりとしているけどね」
姫川さんが何でもないと言う様に言葉を返す。しかし愛犬を褒められて嬉しいのだろう。その口元は明らかに緩んでいた。
「朝霧くんの猫も可愛いわよね。表情豊かで。何の子猫かしら」
「さぁ。こいつも雑種なんじゃないかな。捨て猫だし」
「へぇ……。名前は?」
え? と僕は固まってしまった。考えた事も無かったからだ。
「うそでしょ!? 名前って、一番に考えてあげるものじゃないの!?」
「わかったよ。今考えるから、そんなに怒らないで……」
僕は腕を組み、数年振りに脳をフル回転させた。
ふと視線に気が付いて、姫川さんへ視線を向ける。大胆にカットされたサファイアのような大きな蒼い瞳が、真っ直ぐに僕を見つめていた。
「何かな」
「何か、じゃないわよ。突っ立っていないで座ったらどう? 隣、空いているわよ」
「……じゃあ、遠慮なく」
言われるままに腰かけた。恐らく、この大学で初の快挙だ。健斗にでも見られたら何を言われるか解った物じゃない。
なんとなしに、姫川さんのお弁当箱へ目を向ける。随分と健康志向な内容だ。クリスプブレットにカットチーズ、スモークサーモンと……あの赤っぽいのは。
「ああ、これ? 生肉よ。好きなのよ、私。朝霧くんも食べてみる?」
生肉……? あぁ、生ハムとかかな。
遠慮なく差し出された弁当箱に手を伸ばし、摘まみ上げた赤い肉を口に放り込む。こうやって一つの弁当箱をつつき合う仲になるとは、随分と距離が近くなったものだと思う。
「んんっ?」
柔らかいゴムのような食感。鉄分を存分に感じる風味。しつこい脂の香り。まさか、これは。
「マジの生肉だとは思わなかったな」
「えっ! お、美味しくなかった?」
姫川さんが慌てたように言う。そりゃあまぁ、不味くも美味しくもない。だって生肉だし。
「生肉を好んで食べる人、初めてだ」
「え。う、うそっ。もしかして、私って、変……!?」
おや。ここは気を使う場面だな。よし、こんな時は……。
「うん。ちょっと、どうかと思う」
「はわっ!?」
姫川さんが奇声をあげて涙目になる。そしてそのまま俯いてしまった。あれ、落ち込んじゃったのかな。誤魔化さずにハッキリ言ってやるのも優しさだと思ったのだけど、失敗だったろうか。
「まぁ、良いんじゃない? 他の誰と違っても。別に誰かに合わせる必要なんてないんだしさ」
「で、でも朝霧くんも、どうかと思うって……」
「友だちに医者の息子がいてね、衛生とかにとにかくうるさいんだ。ほら、生肉ってそう言う点から考えると、あまり良いとは言えないじゃない?」
「……本当に? 変人だ、とか思ってない?」
「そうは思わないね。変わり者だとは思うけど」
「それを言ったらお互い様でしょう!?」
姫川さんが弾かれた様に顔をあげる。
顔が、近い。鼻と鼻が触れてしまいそうなほどに。
互いの息を呑む音が聞こえる。喉が引きつって呼吸もできない。
二人とも、一ミリも動けない。僕は時が停まってしまったのかと錯覚しかけた。
どれだけそうしていただろうか。
一瞬だったかも知れないし、気の遠くなるほど長い時間だったようにも思える。
不意にマジョルが低く吠え、子猫が細く鳴いた。二匹の声に押されて、ようやく時が動き出す。
「……くっ」
「ふっ、ふふふ。あっはははは!」
淡い春の青空に、二人の笑い声が響き渡る。
「なーに固まってんのよ。あーおかしい」
「姫川さんこそ、凄く驚いた顔をしていたよ」
それこそお互い様でしょ、と目端に光る涙を指で弾きながら僕の肩に拳を当ててくる。
「そうだ。朝霧くんに渡したいものがあったのよ」
そう言って姫川さんが取り出したのは、一枚のコピー用紙。
「これは?」
「何よ、見れば解るでしょう? フィッシング研究会への入会書よ」
入手は裸足で月を目指す事よりも難しいとまで言われた、フィッシング研究会への入会書。
これが、そうなのか。
「……どうしたの?」
感慨深く眺める僕に、姫川さんが怪訝そうな表情を向ける。
「いや。やっぱり幽世かくりよだなんて、ただの思い込みなんだと思ってさ」
「か、かく……? 何よそれ」
なんでもないよ、と月への招待状を受け取った。朝霧さんが嬉しそうに笑顔を弾けさせる。
ああ、やっぱり可愛いな。笑顔なんかは特に最高だ。
そんな事を考えていると、姫川さんが「さてと!」と声を上げ、ろくに手をつけていないお弁当箱をしまい込み、立ち上がる。
「あれ、ごはんは良いの?」
「何言ってるの、お昼なんて食べている場合じゃないでしょう? 二人になったんだから、サークルハウスの片付けをしないと。さ、行くわよ」
そう言われて脳裏に浮かぶのは、あの物で溢れた部屋の有様だった。
あれを、片付ける? そんなのめんど……
「まさか、面倒だなんて言うつもりじゃないでしょうね」
僕の目の前に立ち、腰を屈めて半目で睨む姫川さん。
そんな目をされてしまっては、僕に言える事は一つしかない。
「……とんでもない。喜んで片付けをさせてもらうよ」
ああ、今まで以上に面倒な日々が始まりそうだ。
でももしかしたら、こういうのも悪くない……のかも知れない。