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1-始まり

 少女は空を見上げた。透き通った夜空一面に星が瞬き、彼女はその様に見入っていた。

 廃墟の崩落した天井と言う額縁が空を芸術的に彩る。そして彼女、レイもまたその景色と一体化し、傍から見る者がいればさぞや美しい光景となっていたに違いない。

 普通に生活していると、星なんて街灯の光でせいぜい金星くらいしか見えない上、そもそも星を見よう等と思い至る事すら余りない。

 これはきっと現代社会によくある「余裕がない」状態と言う事なのだろう。

 とは言え、レイはそこまでその状態が嫌いなわけではなかった。若いうちはがむしゃらに駆け回る、これが後々歳をとって余裕が出て来た時、充実感となって思い出されるであろうと彼女は信じているからだ。

 さて、年齢も十代半ばのレイがこんな似付かわしくないことを考えているのには訳があった。



 1時間前──


 彼女の職業は特殊だ。キメラマーセナリーという、読んで字の如くキメラを狩る傭兵業に就いている。

 キメラとは遺伝子技術により人工的に作られた獣で、その身体能力は自然界に存在する一般の動物を軽く凌駕する。魔法も使えぬ傭兵では相手すること自体厳しい程のポテンシャルを持っている。それ以上に厄介なのが凄まじい繁殖力で、ネズミの様に倍々方式で野良が増えていくために遂に専門の職業ができてしまったのだ。

 当然そんな危険な職業においそれと一般人が就ける訳でもなく、この職業は就職条件が魔法を使える者と限られ、また試験とある程度の訓練が課せられる。

 確かにレイは魔法を使うことができる。だが、それでもこの職業は年端もいかない少女が生業としていい職業ではなかった。

 思えば、何故この職業に就いたのかレイ自身はっきりとはわからなかった。育ての親が傭兵をやっていたというのがやはり彼女の傭兵業を志望した理由となっているのか、或いはそれ以外の道を選ぶという思考自体が彼女には考えつかないものだったのか。兎に角気付いた時には彼女はキメラマーセナリーの軍門を叩いていたのだ。その訓練は正規の軍隊のもと比べると随分とカジュアルで規律も少なかった。ただその内容だけが過酷で、魔法がある程度できなければレイはとっくの間に挫けていたことだろう。しかし必死に食い下がって彼女は見事独り立ちに成功したのだった。


 そんなレイであるが、今現在は瓦礫に腰を掛けていた。

 職業柄情報に敏い彼女は、つい数時間程前に遺跡が新たに発見されたという情報を仕入れていた。その発見者から偶然話を聞けたのだ。

 ただの遺跡ならば学者でもないレイとは無縁の物だが、遺跡が見つかった場所が重要だった。


 国の中央に位置する礫砂漠、セントラル。そこはかつてオーパーツが見つかった場所として一躍話題となった場所だった。当時の技術では作り出せないような、いや今でも一部創ることはできないような物が発見された。技術的に価値がありそうなものから、歴史的にしか価値がなさそうなものまで色々と発掘されたが、その中でもとりわけ、生物にしか生み出せないはずの魔力、それを生み出す装置が注目となった。そういった装置自体はすでに開発されていたが大きさがそこらの民家ほどであるし、なによりメリットに見合うかわからないほど莫大な電力が必要だった。しかし、遺跡から見つかったのはほんの拳大で、しかも電力を消費しない夢のような機械だったのだ。


 彼女は純粋な暴力としての力を欲していたし、力をつける事が無駄とならない立ち位置にいる。その装置は非常に魅力的なものに映った。

 仮に直接アドバンテージを得られる様なオーパーツが見つからなかったとしても、売り払えば財力の足しにはなるだろうと踏んでいた。少なくとも億はくだらないはずだ。

 だが、その貴重さ故に近日中に政府が遺跡を取り込んでしまうだろうことは目に見えていた。

 遺跡の発見者はまだ政府には告知していない。明日まで待ってもらうようにレイが多額のお金を支払ったためだ。

 つまり、タイムリミットは明日だ。レイにはその前に行動を、盗掘を始める必要があった。

 そんな訳で、急いで目的の場所に来てみたはいいのだが……。

 レイは目の前の鮮やかな色の看板を見てため息を吐いた。


「セントラル遺跡じゃない……。」


 セントラル遺跡。地名から取られた名を見てもわかる様に、時代をオーパーツブームへと導いたまさに最初に発見された遺跡だ。今は観光地として名を馳せているが、無論、オーパーツはとうの昔に政府によって回収済みだ。

 観光地らしい派手な看板は逆にレイを気落ちさせる。

 彼女はがっくりうなだれた。改めて、GPSを起動してみても座標が間違っているなんて事はない。結局、騙されたという訳で、高い情報量を払い、即日ここまで来た自分が馬鹿らしく思えてくる。

 肩を下げながら乗ってきたスクーターに軽く持たれて座り空を見上げていると 、我ながら自身の未熟さを痛感させられた。背が低く葉っぱ一つついてない乾燥地域特有の木達は風で揺れており、その音が笑い声のように響いて余計に気が滅入る。

 そもそもを考えればだ。特殊な職に就いているとはいえ、所詮一般人にすぎない自分にその様な重要度の高い情報が入る事自体に疑いをかけるべきだったのだ。発見者にいち早く出会えたなんて偶然にも程がある。

 その上、前以てGPSで座標を調べさえすればセントラル遺跡がその座標にあると言う事はすぐにわかる。これは明らかに浮かれていたレイ自身の過失だ。

 ひとえに自身の注意不足が呼んだことであり、騙された自分が悪い。一度自分の間違いを探し始めるとそれはキリが無かった。

 レイは負の方向へと落ち込み始めた思考を半ば放棄する様にかぶりを振った。


「よし、どうせなら遊んで行っちゃえ!」


 せっかく来た観光地なのだ何もせずに帰るなんてもったいない。当然、こんな夜更けでは門も閉まっているがそこは不法侵入をすればなんとやらだ。

 大声張り上げて独り言を言うのは単に自分を元気づけるためなのか、それとも自棄になっているためか。簡単に犯罪を犯そうという思考が出てきた辺り、恐らく後者だろう。監視カメラ程度には見つからないという自負もあったし、仮に見つかっても謝れば、もしくは罰金で許して貰えるだろうという甘い考えもあった。

 普段合理的に考えることが多い癖に時々こういう成り行き任せな暴挙に出るのがレイという人間なのだ。

 意気揚々とスキップせんばかりに遺跡の奥へと踏み出していったその背中は酷く頼りない、というよりやけくそな姿だった。


 

 セントラル遺跡は遺跡とは名がついているものの、良く想像されるエジプト文明やアステカ文明といったものの様な遺跡ではない。コンクリートと鉄骨で固められた建物が並ぶ、知らぬ人が見ればただの廃墟にしか見えない代物だ。いや事実、何千年も前に今と同等の科学力を持っていた文明が残した廃墟そのものなのだ。

 崩壊し、人々に忘れ去られて久しい場所だが、そこは観光地だけあって道は綺麗に舗装されているし、お手洗いやゴミ箱も完備されている。だが、逆に真新しいそれらの物が寂れた建物の残骸と皮肉の様に矛盾して、奇妙な感覚を引き起こさせてくれる。

 一度中に入った以上は戻れない。一度踏み越えたなら最後まで。どうせ不法侵入したなら奥まで見たい、という半ば自身を強制させるような心境に駆られ足取りも軽く奥へ奥へと進んでいく。


 遺跡の中は閑散としていた。

 閉館した時間だと言うのに無人の道には蛍光灯は未だに点いていて、道を進むのには何不自由ない。元々の姿は人も住まぬ廃墟。だが現在は人で賑わっているはずの観光地。そして本来多くの観光客が往来するはずの場所に自分一人だけがいる。まるで自分自身だけが遺跡と共に時間を切り取られたかのように。

 こんな特殊な状況がレイの胸の中に祭りの後のような静寂感を感じさせてくれる。放課後誰もいなくなった教室のようなものだろうか。

 いや、違う。レイはその感覚を正しくないと感じていた。正確にいうなら、しいて言うならば、そう、大昔にはただの一般的な街だっただろう家々の残骸を見て──懐かしい──そうとも感じていた。

 この身に宿るのは静寂感ではなく、郷愁であり、まるで故郷である家々が廃れたとでも言うかの様な寂しさもまた感じているのだ。

 無論、この世に生を受けて16~8年だろうレイがこんな場所に懐古の念を向ける理由はない。そう思えるほどにレイは遺跡の持つ不思議な空間に飲み込まれていたのだ。

 首筋を抜けて髪を撫でていく風が心に染み渡る様にレイには感じられた。

 その感覚に誘われるがまま一般公開されているエリアを突き抜ける。辺りを眺めては見惚れ、しばらく経ってまた進む。純粋な好奇と充実、あるいは恍惚の念をもって見回っていく。まるで初めて水族館へと連れていって貰った幼児のように。

 それを繰り返し、繰り返していると気付いた時には、遂には非公開エリアまでたどり着いた。


「わぁ……。」


 流石『非公開』なだけはあり、そこには先程までの整った道は存在せず、不規則に砂に埋もれていたり、道路の跡と思わしきものも最早ただの瓦礫と化している。街灯に集う虫や自動販売機が立てる僅かな音も聞こえず、静寂の中月明かりだけが視界の頼りだ。

 その自然のままの姿にレイはさらに胸がときめくのを感じた。

 冷静な忘我とでも言うべき感覚がレイを包み、あっさりと公開エリアと非公開エリアを隔てるフェンスを身軽な動作でよじ登る。

 ジャリッという軽い着地音とともに着地。

 見上げてみると、人の手が加えられておらず道を歩くにも障害物をいちいち避けなくてはならないような素のままの遺跡の表情が見ることができた。

 試しに原型を保っている建物の中に入ってみると外よりもさらに面白い。無造作に散らばる硝子が未だ風に吹き飛ばされず残っていたり、台所と器具といった金属製のものもサビにまみれつつも何とか形を留めているのだ。


 暫く景色を存分に堪能してお陰か、気分は随分と落ち着いていた。かれこれ数時間は遊んでいた気がする。

 レイは満足気に息を吐き出すと休憩を取ることにした。壁が無くなりトンネル状に吹き抜けた建物の一角、そこにあった手頃な岩の上に腰掛けた。

 ゆっくり呼吸しながら、ぼうっと所在無さげにどことも言えない場所を見続ける。天井に空いた穴、その淵で切り取られた夜空は綺麗でそこから差し込んだ何条かの光、照らされるガラクタも美しい。まさにレイはこの空間が作り出す余韻に浸っていた。

 そしてレイは落ち着いた気分で素直に景色を味わったり、雰囲気を感じるのは随分久しぶりだな、と気付いた。早い段階で父親が死に、その後はそこそこ大きな遺産は残ったものの自分でも金銭を稼げる様に中学卒業後すぐにキメラマーセナリーの入隊訓練を受けた。そもそもとして魔法の得意なものは若者に多いために年齢制限が無かったのが僥倖であった。訓練は必要最低限の生存能力を身に付けることが主体のもので努力の甲斐あってか最低訓練期間の2年で終えられた。最短で終えられるのは全体の2割なのだから女子供であるレイがそれを成し遂げられたのは快挙と言える。その間は必死に教官から言われたことを学ぼうとしていたし、その後も仕事に慣れるまで殆ど形振り構わず進んできた。息つく間もなかった。

 そうして漸く生活が落ち着いた矢先に今回のことが起きた。案外、一度自分に区切りを付けるのに良い機会だったのかもしれない。そう思いかえす。

 かくして冒頭のややナショナリズムを感じる思考へと繋がった。

 何もせずにぼんやりと回想して座っていると、適度な精神的疲労と充実感が込み上げてきて、自分の進路に間違いはなかったとレイは再確認した。少なくとも今の自分は確かに幸せだ。未来に対する一抹の不安は期待の裏返しでもある。自分の未来は可能性に溢れているのだ。


 それはたまたまの偶然であった。月明かりも差し込まない様な部屋の暗がり、瓦礫の山に丁度隠れる様にして小さなビー玉の様な物が砂に半ばまで埋もれているのをレイが発見したのは。

 懐中電灯なども差さずに暗闇に目が慣れるくらいまで、じっくり周囲を眺めていたから発見できたのだろう。

 元から好奇心旺盛だった上に、遺跡の雰囲気に飲まれ浮かれていたレイに我慢ができる筈がなかった。たかがビー玉であるが、宝物でも見つけたかのような興奮を覚えた。トタトタと小走りに近付き拾い上げようと身を屈めた。

 丁度その時だ。月が雲間に隠れ、暗闇が辺りを覆ってしまった。

 流石に光も無しで見れる明るさではない。レイは軽く集中すると手のひらの上にゴルフボール大の光球を魔法で生み出した。


「あー、何か緊張するなぁ。」


 ポツリと期待を滲ませながら言葉を放ったレイはゆっくりと地面すれすれに光球を近付けていった。

 ───その瞬間、地面から光が溢れ出した。


「なっ!?何…!?」


 言葉も途切れる様な慌てた様子で、しかし転がる様にして光を放つ地面から距離を取る。腰を沈ませ、足の筋肉を軽く収縮させて何時でも回避行動が取れる様に身構えた。2年の訓練がレイに取らせた最適な行動だった。

 暫く光源を見つめたままだったが、近くの瓦礫が崩れた以外何も起きていないのを確認して構えを解いた。

 先程まで瓦礫と岩と砂の山となっていた筈の場所に下から突き抜ける様にして、四角い公衆電話程の大きさの直方体の建物がそびえ立っていた。レイに向かって正面にある開いた扉の向こうには発光ダイオードで彩られた階段がある。白い光沢のある金属で出来ており、遺跡の雰囲気に合わない秩序的な無機物の冷たさがある。光か魔力かで起動する様になっていたのであろうか。

 暫く唖然とし、思考を停止していたレイはふと我に返ると様子を伺い始めた。

 傷や汚れ一つ無く真新しい階段、その先に続く廊下は如何にも何処かの研究所か病院という雰囲気を醸し出している。均質で無機質な空間だが、その中に崩れた瓦礫がちらほら転がり込んでいるのが何ともシュールである。


(もしかしたら当たりかもしれない。)


 そう思ってニヤリと笑ってしまったのは仕方が無かった事だろう。最初にガセネタだと気落ちさせられたオーパーツのある遺跡だが、その埋め合わせとなり得る遺跡が目の前に現れたのだから。

 上に乗っていた瓦礫が崩れたと言う事は人が踏み入っていない可能性は高い。

 それを加味したとしても普通なら遺跡はとっくに調べ尽くされているだろうと考えるのだが、レイがそうとしない理由はまだあった。

 もしこの建物の扉が光で反応するならともかく、魔力に反応して開閉するならば、そこに魔法を使える者がいなければ開かない。

 その上に、研究所の様な場所でただ魔力だけで開くなどという杜撰なセキュリティシステムしかおいていない筈がない。指紋や声紋の様に個人個人で異なる魔力紋を持って判定することが多いだろう。

 都合がいいことだが、これが万分の一の可能性をもってこの施設のかつての従業員と自分の物が酷似したのかもしれない。指紋であっても、同じものを持つ人は極々々低確率で存在するのだから。

 流石にこれはいくらなんでも虫が良過ぎる話だ。信用に値しないと考えるのが通常であるが、しかしこの懸念は外れていない様にレイには思える。何故ならばその視線の先、ハッチのすぐ横にあるディスプレイにはこう表示されていた。


『入室者確認。

入室者名: Alice 』


 入室者名:Alice。もしAliceが過去ここに務めていた社員の名前を表しているのだとしたら、レイの考えは間違いでは無い筈なのだ。

 犯罪などここに足を踏み入れた時点で軽く犯している。元々盗掘するつもりできた上に、この扉の奥では自分の盗掘行為は誰にも監視されていないのだ。レイを留める楔は無きに等しい。寧ろ、この千載一遇の好機を見逃すという思考の方がはなから無かった。

 一度失った機会がまた与えられるというのは堪らなく甘露である。

 僅かな逡巡もせず、レイは扉を抜け、階段を下って行った。


 己の幸運を天からの恵みだと喜び、勇んで進んだのも束の間、既にレイは自分の選択に後悔する羽目になっていた。

 僅か数十メートルの距離を進んだだけで、施設内に警報が鳴り響いたのだ。十中八九赤外線センサーか何かに引っかかったに違いない。

 甲高い音が鳴っている最中、一人レイはゴチていた。他人事のように辺りを見回す。煩い音は、何処か遠くから聞こえているように感じていた。所謂、現実逃避という奴だ。

 ふと疑問に思う。何千年も前から管理されていない施設が何故今も煌々と灯りが付き稼働しているのだろうか。

 ここが遺跡なのは間違いない。施設を形作る金属。これは遺跡から製造法が見つかった希少金属、白鋼である。見た目はジュラルミンと白色樹脂を混ぜたようなただの光沢ある白い金属だが、その実、凡そ壊すのが不可能と言って良いほどの硬度と剛性を誇る。それゆえの加工の難しさと、製造にかかる膨大な費用で白鋼は流通量がかなり少ない。施設全て白鋼で覆うなど今のところ不可能な筈だ。

 つまる所、この遺跡は本物であり、数千年も稼働し続けられるエネルギーサイクルと動力を持っているわけである。

 この探索が上手くいって機関部の設計図でも手に入れられれば、大金持ち間違いなしだ。レイの夢は膨らむ。

 どうせ警報が鳴っても、中に自分以外の人間がいないなら関係ない、と結論づける。

 そのまま躊躇いなく奥へ進もうとした時、見計らった様に入り口近くの部屋のドアが開いた。ぼやーと落ち着いた表情で考え事をしていたレイの顔が引き締まる。

 中からぬっと現れたのは人程の大きさもある鶏型のキメラ、コッコである。


 キメラの中でもとりわけコッコは身体能力が高い訳ではない。精々が普通のダチョウレベル、性格も穏便で数少ない無害なキメラだ。味は美味しいとは言えないが、繁殖しやすさと巨体から食用として注目されているらしい。

 レイの表情も幾らか再び緩み、慌てることなく腰から拳銃を取り出して構えた。

 しかし、その後の展開まではレイは想像しきれていなかった。

 突然横から飛び出た黒い影により、轟音を響かせながらコッコは壁に叩きつけられた。

 首筋には噛み付いていたのは狼型のキメラであるハウンドだ。

 けたたましい音で暴れ鳴き叫ぶコッコ。首を振って牙から逃れようとする度に、血飛沫が噴水の様に噴き上げる。数メートルは離れているレイの足元にまで降りかかる勢いだ。

 懸命に藻掻くも、命が尽きるのを許される前にさらに扉から数体のハウンドが飛び掛かり、喉の肉を抉り咀嚼し始める。その後には悲鳴は聞こえなくなり、代わりにハウンド達の口から零れるグロテスクな音とコッコの肺が鳴らす掠れた呼吸音が響いた。

 その時にはレイの思考はトップギアで加速を始めていた。本格的な命の危機に神経が研ぎ澄まされているのだ。


 ハウンド数体ならまだレイにも対処できる。幸いここは徒党を組みにくい細長い通路であるし、直線的破壊力を持つ銃に有利な場所だ。幾ら銃弾を避ける程の身体能力を持つハウンドといっても場所の不利は覆せないし、さらに魔法によるアドバンテージがあればそれは尚更の事になる。

 問題はそこではなく、コッコの叫び声がなくなって気付けた事。それは先程のキメラ達が飛び出して来たその扉の奥から、沢山の様々な獣の鳴き声と争う音が聞こえているということだ。現にこうして戸惑っている間にまた、キメラが数体扉から出て来た。見れば、コッコの肉を取り合って喧嘩をしている。

 こうなってくるとレイにはどうしようも無くなってしまう。古今東西、数の有利は絶対的な物だった。そしてそれは今も変わらず、レイの持つ場所の有利、武器の有利、魔法の有利、この3つの有利でも覆し得ない。

 さらに悪い事に入り口がキメラで塞がれてしまった以上、レイは奥に逃げるしかないのだ。奥に逃げるといっても、奥に体の良い出口などある可能性は低い。それは所詮時間稼ぎにしか過ぎず、十中八九自分が死んでしまうだろうことは想像に難くなかった。

 彼女の心の鼓動は激しく警鐘を鳴らしていた。死の恐怖を無理矢理抑えた。

 一縷でも望みがあるのなら捨て切るわけにもいけなかった。

 レイは最善策として、出来るだけ早く、キメラ同士が争い合ってこちらに気付いていないうちに逃げる事を選択した。


 そこからの行動は迅速だった。

 魔法による身体能力強化をかけて、全速力で走る。エレベーターが見つかったので急いでボタンを押すとともに振り返ってキメラの動きを確認した。

 既にこちらに気付いたキメラが走り始めていた。獣らしい俊敏な動作だ。エレベーターの表示は4階下。到底間に合いそうに無い。

 牽制に銃弾を放つと、横にある非常用の階段を殆ど飛ぶ様にして降りていく。


 ───はっ、はっ、はっ……


 確かに自分の口から鳴っている筈の呼吸音は自分の物ではなく後ろのキメラの声ではないかと錯覚してしまう。

 すぐそこまで迫って来ているのではないか、という疑念に駆られる度に後ろを振り向いて、魔法で炎を生み出して道を塞ぐ。

 簡素とすら言えない急ごしらえの対処法ではあるが数秒程は時間を稼ぐ事ができるに違いない。

 いくらレイが魔法で身体を強化しても、キメラ達もまた稚拙ながら魔法を使っている。元々キメラの身体能力は魔法に依るところがおおきいのだ。獣と人、その差を埋めるのが魔法と化学ではあるのだが、それは僅かな程でしかない。

 それでも追い付かれていないのはひとえにこの足止めが功を成しているからだろう。

 しかし、追い付かれるのは時間の問題だ。彼女の侵した大きな間違いは階段を降りはじめる前にエレベーターのボタンを押してしまった事だ。お陰でエレベーターは最上階に留まったままであり、階段を降りていて、しかもすぐ側までキメラが追いかけている状況ではすぐさまエレベーターに乗り込んでキメラを撒くことができなかった。

 明確に終わりが見えてくる。走ったのは僅か数kmの間だが、その間ずっと全力疾走だ。肺や筋肉の構造が違う以上息が上がるのはこちらが先なのは自明のこと。

 しかも、今は最後の階段を下り終え、宛てなく迷路の様な廊下を走り続けている状況だ。いつかは端に辿り着くことになるのは想像に難くない。その時が人生の最後だ、祈る思いで走り続ける。

 束の間、視界が開け、大きな広間に突き当たった。荒い息を付きながらも辺りを見渡す。


「ここは…? 」


 大きい。屋内であるにも関わらず、直径50mはありそうな円形の空間。高さも同じだけありそうだ。今いる場所の反対側には横開きの自動ドアの様な物が付いていた。

 特筆すべきは、この部屋の異常性だ。白鋼が部屋の隅々、ドアにまで使われているのは今までと同じだ。

 特殊な加工をする以外では何をしても壊れないとされる白鋼。実験によれば数千度程度では化学反応も起きず、王水に溶かそうとしても平衡はかなり傾いており、僅か10^-3[mol/l]しか溶けない。熱したり、冷やしたりしても体積変化がほとんどないことから完全に科学とはかけ離れた魔法理学の領域の代物だ。

 だが、それで覆われた無双のはずの壁は所々ヒビ割れ砕かれていたのだ。

 白色の均質な壁の続く近代的で清潔なイメージの建物から、一転し、そこには破壊を物語る跡が至る所にあった。

 白い床に天井の破られた所から零れた黄褐色の石や土が非常に対比的かつ印象的な光景であった。

過去にここで何が起こったというのか…。それも気になるが兎に角まずは逃げ道を探さなければ。

 それなりの高さに積み上がった土を踏み越えて反対側のドアの元に行く。ドアの周りには何もセキュリティパネルの様な物はない。きっとこの施設の入り口と同じ様に魔力紋認証型のドアなのであろう。

 開くかどうか。自分の魔力紋に酷似したそれを持つ過去の人間に祈りながら、恐る恐る手を出し魔力を放出する。


 一秒。二秒。


 反応はなかった。

 どうやら、この扉の奥に入る様な権限はレイと同じ魔力紋を持っていた過去の人にはなかったらしい。

 となればする事は一つだ。全力で集団と戦いやすい通路に走り込み、エレベーターの前で籠城戦をするしかない。そして隙があればエレベーターを使って出口に辿り着くのだ。

 しかし、そう決断した時にはもう遅かった。レイが踵を返した時には既にハウンド数体が広間に飛び込んで来た所だった。

 不利ではあるが開けたこの場所で戦うしかない。


 一匹のハウンドが先行して踊りかかってきた。

 口から涎を垂らしていて、そこから覗く黄色の歯は人の肉など簡単に噛みちぎるだろう。爪も鋭く長く伸び、人の健であれば断ち切ってしまう。

 そんなハウンドの動きを冷静に静かに力を抜いて身構えながら、目で追う。

 半身になることで飛びかかるハウンドの爪を躱した。そり曲げた胸の前を風が抜けて行く感覚。風により動いた髪が顔に降りかかるよりも速く、背中側へ倒れかけていく重心を体のバネを使って押し戻し、自分の胸の前を通っていくハウンドの首筋にナイフを叩き込んだ。

すぐさまナイフを引き抜くと血の柱ができあがる。ハウンドはすぐに絶命し、地面を響かせた。レイの服の前面に降りかかった血が花の様に紅く布に染み広がっていく。

 次にレイは腰のホルスターからデザートイーグルを引き抜き順手持ちに銃を、逆手持ちでナイフを一つの手で握りしめた。

 幾分か距離の離れた場所でこちらにかけてくるハウンドが二体。

 早撃ちで眉間を狙って弾丸を放つ。

 ハウンドは機敏な動きで横に跳ねて銃弾を躱した、がそこまでだった。キメラが飛び跳ねた先を予測して放った弾丸によりハウンド二体の胸と鼻はそれぞれ抉られたのだった。


 取り敢えずの一難は去った。戦闘自体は短くレイが傷つくこともなく終わったが、一発でも銃弾を外せば途端に不利になる状況である。冷や汗ものだ。人間の体は獣の牙にかかってなお平然と動けるようにはできていない。


 このままゆっくりはしていられない。次にするべきことはエレベーターを目指すことだ。息を抜かぬよう、気を緩めないよう、意識は張り巡らせたままだ。

 二体の死骸が地に落ちるよりも速く、入り口の方を振り向いて


「ははっ…。これって冗談か何かなの…?」


 ───そのまま顔を引きつらせる事となった。

 視界に映ったのは通路の向こうに聳え立つ巨大な肉色の塊。皮膚のないその体はグロテスクに過ぎる。

 3mはあろうかと言う人に似た形の巨体に、筋骨隆々と言うレベルでは済まされないほど密な肉体。

 数百もの野太い血管が体表で波打っているのが見える。整理的嫌悪感を激しく催してしまう見た目の巨人。その力強い腕が軽く振るわれるだけで、人は飛び、四肢は拡散するだろう事は想像に難くない。

 あるいはその足で闊歩するだけでもそこらの動物には致命となり得るかもしれない。

 獰猛に血走らせ半ば金色の様にも見えるギョロギョロしたその一つ目は今紛れもなくレイを捉えていた。

 丸太の様な腕に刻まれている18という文字が、その存在の詳細を事細かに伝えてくれる。


 ナンバーズ。軍事用に生み出されたワンオフのキメラ。量産型で雑種も多いハウンドとは文字通り桁違いの能力を持つ。基本的に数字が大きいほど作られた時期も新しく性能も上がる。傭兵としての講習では出会ったらまず逃げろと、番号、名称、特徴を必ず覚えさせられる程の危険性物である。

 99まで作られているナンバーズの内、10代の数字は旧式で危険度はまだ少ないと言われている。あくまで比較的ではあるが。

 しかし18番、サイクロプスだけは例外である。純粋な身体能力のみを求めたキメラであるサイクロプスは銃弾を弾く強固な筋繊維を持っている。馬鹿げた再生力から貫通力の高いスナイパーライフルを使っても傷は一瞬で完治し、ランチャーは自慢の身体能力で避けられ、戦車は懐に入られ叩き潰される。今あるナンバーズの中でもトップクラスの身体能力を持っているのがこの個体である。


 そんな化け物が相手なだけでもレイの手には余ると言うのに、しかもその上にその巨体の影に隠れてハウンドが1匹こちらを威嚇していた。

 サイクロプスはハウンドに牽制し、動きを封じている。獲物であるレイを独り占めしたいということなのだろうが今は好都合だ。

 銃は効かない。予備知識として知っていたレイは魔法と言う選択肢を選ぶ。広間に入られる前に巨大な火球を生み出して逃げ場のない狭い通路に向かって投げ放つ。

 だがその程度の速度では当然当てる事など出来なかった。


「速いっ…! ?」


 機敏な動きで通路から身を飛び出してきたサイクロプスは横に火球を避けたかと思うと、レイへと腕を叩きつけてくる。彼女のした動作は回避というよりはむしろ、子供に引っ張られた人形のように、ただ、無理矢理体を捻じっただけだった。体を痛めてでもそうしなければ間に合わなかったのだ。

 数瞬なんて表現すらおこがましい速度で、体の数センチ横を暴風が走り抜ける。悪寒や恐怖を感じる暇さえない。地面とぶつかった音は凄まじく、耳がいかれそうな程だ。

 それだけでは終わらない。サイクロプスは振り下ろした腕を無造作に裏拳として横に滑らせてくる。

 いよいよ人形が足を引っ張られて方向転換するかのようにレイはピョンと跳ねて倒れ込んだ。

 地面と体が並行になったわずかな合間に、腹と床の間をレイの胴体程もある腕が通過して行く。

 捻じれたまま地面と並行に着地したレイは大きく体制を崩したが、転がるようにして距離を離しつつ体勢を立て直した。

 すぐに起き上がってキッと鋭い視線を前に向ける。

 だが、目の前にあったのは、大きく、足を120°近くまで後ろに振りかぶったサイクロプスの姿であった。


「っぁああっ! 」


 レイは脊髄反射で全身全霊の力を込めて後ろに跳んだ。出来るだけ胸を逸らすように、そして出来るだけ体勢が低くなる様に。無理に動かした腹筋の毛細血管がプチプチと切れて、ジュワーと温かい血が広がって行く感覚がする。これは、レイが今出来る最大の回避だった。

 だが、それでもその足の爪先がわずかにお腹に掠ってしまった。

 運動エネルギーは質量に比例し、また、速度の二乗にも比例する。皮膚に掠めてしかいない筈のレイの身体は10mも転がった。ゴロゴロと錐揉み回転しながら弾き飛ばされる。


「げぇっ……!?……!?!?!?!? 」


 呼吸困難を引き起こし、また内蔵を駆け巡る凄まじい痛みの氾流はレイの脳髄を焦がした。脳は既にまともに働かず、パニックを起こしていた。


 嗚咽、涙、激痛、眩暈、圧迫感。


 死んでしまう類のものではない。

 だが、いっせいに襲いかかってくるそれらに我慢など出来るはずもなくレイは胃液を吐きこぼした。腹を抑え、吐瀉物を撒き散らしながらも思考を落ち着かせようと努めるが、10秒以上の長い時間を回復に時間を要した。


「…? 」


 漸く思考に冷静さが戻ってきた時、はたと気付いた。

 何故仕掛けてこない?自分はさっきまで無防備であった筈だ。


 答えは簡単だった。サイクロプスは、ギョロギョロと一つ目を動かし、口は頬まで割けて、ケタケタとこちらを見て笑っていた。その目は、こちらを対等な存在とすら認識していない、完全に弱者をいたぶる者の目だった。

 弄ばれている。その状況はしかし、レイにとっては屈辱ではなく勝機であった。まだ諦めない。

 思考の回復から、数秒遅れて身体は復活した。

 身体が動くかどうか、その場から動かない様に筋肉だけを収縮させて確かめた。動く。少なくとも行動を疎外するような大きな怪我はしていない。十分だ、勝機はある。こっそりマグナムをリロードして反撃の準備をする。

 歯を軽く噛み締めて、眼光も鋭く銃口をまばらに放った。もちろんそんな適当な攻撃が当たるはずもなく容易く避けられる。だが、尚もめげずに何発も無駄玉を放ち続けていく。この行為はレイがまだ抵抗しようとしている気構えでいることをサイクロプスに教え、しかし有力な攻撃手段は持っていないという勘違いを引き起こさせた。

 5発、無駄弾を放った所で勝ち誇った様な雄叫びをした後、サイクロプスは銃弾を躱そうとすることもなくこちらに走ってきた。

 狙い通りだ。

 そもそも、小火器によって傷つく事のないサイクロプスに銃弾を避ける必要はない。避ける理由はただ単に肉体に傷つくことがなくとも多少の痛みは感じるからである。  先ほどの様に銃弾を避けようとせず、無視してこちらに走りだしたのはトドメを刺そうと本気になったからに他ならない。

 だからこそ、そこにレイは勝機を見出せた。

 走る巨人の姿はまるでトラックの様だ。こちらにくるまでに2、3も秒を数えない。当然ぶつかれば、四肢が飛散する事だろう。

 だが、レイは竦む身体を押さえつけ、今度は目を狙ってマガジン内に残る弾丸三発の内の一つを放った。目は大概の生物にとって弱点だ。比較的脆く、また膨大な視覚情報の処理のために必ず近くに脳がある。いかにサイクロプスと言えど銃弾を目に食らえばしばらく視力は戻らないし、脳に傷が付けば再起不能になるだろう。

 故に、生物の本能として反射的にサイクロプスは立ち止まり避けることを優先してしまった。走り出して早々に止めることを余儀なくされた身体は反動でよろめき僅かだが隙を見せた。

 逃せない絶好のチャンスだ。あらかじめ意識していつでも放てるように準備していた魔法。レイはそれによりサイクロプスの後頭部辺りの空間を爆発させた。

 爆発の魔法。レイが使える魔法の一つで、その最たる特徴は、破壊力と、思った場所ならば何もない空間でもいきなり爆発させることができるという避けにくさだ。

 しかし、それでも平時なら凄まじい反射神経でサイクロプスは魔法の発動と同時に反応されてしまうだろう。だからこそ、レイは体勢が崩れた今使用した。

 自分を巻き込まないギリギリの出力を持って放たれた炎はランチャーを遥かに上回る勢いで拡散し、サイクロプスの身体を包んだ。

 激しい炎は数秒で収まった。しかしその残炎はサイクロプスに纏わりつき、その身から炎を迸らせていた。炎で身を焦がされた、いや焦がされているサイクロプス。しかし片腕が焼き爛れ、重度の火傷を負っただけでまだ生きていた。数十秒もあれば回復してしまう程度でしかない。

 弱者だと思っていた相手に手痛い反撃を食らった巨人は逆上し、なんとか失明を避けた瞳で少女の姿を探した。


 探し終えたのはすぐだった。

 なんの事はない。すぐ足元にいたのだ。

 瞬間、サイクロプスの視界は血に染まった。苦痛。堪え難いほどの痛みが脳を走り、全身にも駆け巡り叫び声を上げた。


(よしっ! 上手くいった! )


 レイの発射した弾丸が、綺麗にサイクロプスの瞳のど真ん中を抉ったのだ。

 噴き出す血、血、血、鉄分、血流。生命としての本能のままに頭を抑えて暴れ回る巨体から溢れる血は、それこそスプリンクラーの様に鮮やかに拡散する。そのままもう一発、トドメに弾丸を口腔に放とうとして──


「グッゥッ…! 」


 衝撃。

 突如、何者かの強烈な体当たりを受けた。1m程吹っ飛ばされた後、何とか受け身をとった。それはハウンドであった。既に目前で黄ばんだ牙の並ぶ口を大きく開けて、喉元を食い破ろうと飛びかかってきていた。。

 大きな失態だ。

 レイはサイクロプスという強大な敵に集中する余り、ハウンドへの注意は散漫となっていたのだ。

 サイクロプスに向けていた銃口を慌てて逸らし、迫り来る口に銃弾を叩き込む。再び空に伸びる血のライン。

 飛びかかった体勢のまま空中で絶命したハウンドの肉体は、しかし慣性によりそのままレイにぶつかった。

 50kgはありそうな肉塊にのし掛かられ、倒れ伏すレイ。

 すぐに退かそうとしたが、無理な体勢で下敷きとなってしまい上手く死体を動かすことができなかった。

 となれば死体を退かすより先にサイクロプスを仕留めたい所だ。しかしマグナムの残弾はゼロ。腰が押し付けられているので、新たにマガジンを取り出してリロードすることも出来ないし、それほど距離の離れていないこの状況で魔法を使用することは自爆を意味する。自分の打てる手を冷静に考えそれら全てが否定された時、レイの中で焦りが生まれた。

 死骸を押しのけようともがくも時間経過と打つ手なしの現状からの焦りで手が滑り、さらに時間を削る悪循環。

 ダバダバと鉄臭い血がレイの体に降り注ぐ。獣臭いハウンドの体臭とあいまってむせ返るような悪臭が鼻を刺す。だが、そんな臭いにたじろぐ暇もレイにはなかった。


(拙いっ! 拙い拙い拙い不味い不味い不味いマズイマズイマズイマズイッ! 速く! 速くどかさないとッ!! )


 ほんの数秒の間に驚くべき再生力で復活を果たし、レイに近づいてくる巨体、サイクロプスがあった。まだ視力は回復していないようだが人間よりも何倍も鋭い感覚でレイの位置を把握していた。

 フラつきながら覚束ない足取りで、しかし重量感を感じさせる響きと共に歩くサイクロプス。対するレイは嘔吐感と眩暈に襲われていた。

 人は過度の恐怖を受けると体調に異状をきたす。多くは失神という形でそのストレスから身を守ろうとするが、しかし、レイは恐怖と本能と精神力によりその意識を覚醒させていた。

 その結果が、貧血のように視界がブラックアウトし明滅を繰り返したり、胃を直接掴まれて捻じ繰り回されたような嘔吐感となって表れていた。

 最早、体の自由を奪う死骸を退かすなどという思考は存在していなかった。ただ、恐怖ゆえに思考停滞に陥り、ただただ、その肉体の苦しみに歯を食いしばるだけだった。

 初めての経験だった。死にかけるような訓練の最中でもここまで明確に死を感じたことなどなかった。

 幾分か時が過ぎた。それは短い、僅かな時間であったが、苦悶の中にいたレイにはとても長い時間に感じられた。


 相対的にではあるが悠久に感じられる時の中、精神の落ち着きとともに痛みは諦観へ、苦しみは倦怠へととって変わっていった。速く終わらせて欲しい、楽にして欲しいとさえ願ってしまっていた。

 気付けばもう、サイクロプスはレイを間近で見下ろしていた。


『グォ"ォ"ォ"ォ"ォ"ォ"オ"オ"オ"オオ"オ"オ"オ"オ"!! 』


憤怒に激昂するサイクロプス。

振り上げられた腕が下ろされるのさえはっきりと、そしてゆっくりと見えた。

 自分はここで死ぬのか。ここが終着点だったのか。問いかけるような呟きが心を満たす。自分にあったはずの未来の可能性が崩れ、収束していく音が聞こえた気がした。絶望の音だった。

 案外とすんなりと自身の死を受け入れられた。

 心が停滞し淀んで行く。

 目を閉ざそう。そう思い項垂れる。

 その時、チラッと何かが視界を掠めた。


 それは顔だった。醜くおぞましい何か。

 瞳は虚ろに濁っていた。魂が犯されたガラス玉。

 歪んだ表情はありとあらゆる負の念を詰め込んだようにも見えて、しかし空虚な悦びにも満ちているように見える。そう、空虚、空虚なのだ。先ほどレイ自身の手で絶命させたハウンドは、その瞳で心の奥の奥まで見通すようにぐったりとレイの顔を覗き込んでいた。

 ああ…虚が……、広がる。


 ───トクン。


 目と目が重なった時、レイの心臓が軽く跳ねた。

 ドロリとした何かが胸を巡り、腹を巡り、手足の先まで巡ってレイの体を焼いた。熱い。


(終われるのか? 自分はこのまま、こんな所で。)


(負けを認めるのか? 他ならない自分の世界に、自分自身に。こんな奴と同じような死骸となって。)


(それで、満足できるのか? )


 自問。答えは明白だった。力の抜けたハウンドの目。それは、死の恐怖というよりも、虚しいまま、やりたいこともやれないまま自分の生が無に還されるということへの恐怖を呼び起こした。たまらなく悔しく、たまらなく嫌だ。彼女にとって死はやはり、受け入れるべきにないものだった。

 強い意志が彼女に宿る。

 歯を食いしばった。


 ───ドクン……ドクン…ドクンドクン、ドクンッッ! ───


 鼓動は激しく主張していた。


(負け…られないっ…! 終われ、ないっっ)


(このまま死んで、たまるかぁぁぁああっっっ!! )


 無への恐怖。それは渇望だった。生あるうちに何か確かなものを掴みたいという欲求。

 何も握られていない手を、価値ある何かで満たしたいという熱情。それは生命そのものだ。

 彼女は生命の片鱗に触れ、また魔力の煌めきを感じた。


 目の前まで迫っているサイクロプスの拳。それに向けありったけの力を込めて彼女は叫んだ。


「っぁぁぁああああああアアアアアアアア〝ア〝ア〝ア〝ア〝ア〝ッッッ!!! 」


 ───閃光が奔る。


 体が吹き飛ばんばかりの衝撃が身を襲った。

 暴風が吹き荒れる。

 余りの眩しさに目が眩むこと数秒。一秒。二秒。


 未だレイは健在であった。

 生きていることに疑問を覚えつつもレイは恐る恐る目を開いた。

 視界に映ったのは下半身だった。自分の体を覆っていた死骸は何処かに消え去っており、ただ10m程飛んだ場所に下半身だけが落ちていた。初めから上半身などなかったようにその綺麗な断面からは何の血流も漏れていない。まるでいまも生きていたかのように綺麗である。

 だが、もう生きてはいない。先程までレイの命を脅かしていたサイクロプスはただ、肉塊となってその下半身を残していただけだった。

 そして、それだけではない。


「これって、…私がやったの? 」


 レイの周りの白鋼の床に彼女を中心に放射線状にヒビが入っていた。たかがヒビ割れ、されどヒビ割れ。白鋼を傷付けるほどの魔法を自分が使ったのだと認識するのは些か想像し難く、しかしその光景はそれが事実であると証明した。

 安堵と驚嘆で我を忘れてしまっていた。恐怖で固まっていた身体が、心が時間と共にしだいにほぐされていく。段々柔らかくなっていく。

 暫く呆けていたレイだが、通路からキメラの声が聞こえてきたことで我を取り戻した。一難去ってまた一難。時は待つことを知らない。

 彼女は覚束ない足取りで立ち上がって後退し始めた。

 あくまでも前を警戒しながらも後ろを確認すると、変化が起きていた。初め広間にきた時に開かないか試したあのドアが開いていたのだ。闘中の何処かのタイミングで開いたに違いない。

 何のことはない。初めにレイが確認した時に開かなかったのは魔法の規模が小さくて機械が認識しなかったからだったのだろう。 戦闘中の二度の魔法行使のうち何方かで開いただけにすぎない。


「ちくしょうっ。私の馬鹿野郎。」


 初めに気付いていれば、こんな目に会うこともなかったのに、と毒づきながらも退路に駆け込むレイ。体力は限界だったが、動けない程の負傷がなくて幸運だったと言える。

 通り抜けるとすぐに扉は閉まった。まだ扉の向こうからキメラの鳴き声はするが、取り敢えずは安心だ。所詮、ただの獣であるキメラに白鋼を壊せるはずがないのである。いや、人間ですら最新設備で莫大な費用をかけなければ不可能だ。

 さて、それはともかく。この部屋は何なのだろうか。部屋を見やるレイ。

 奥に何があるかと言うと…。


 視線を前に向けたレイは立ち尽くすこととなった。

 部屋の中央に黒い金属でできた馬鹿でかい円柱があった。直径は軽く30m、長さは100m程ありそうな円柱が此方に底面を向けて横たえた状態で空中に固定されているのだ。

 円柱のあるこの部屋自体も何処かの野球ドームくらいには広く、その広大な壁にビッシリと配線やら、基盤やら、何か得体のしれない装置やらが覆っている。所々そこから伸びたコードが円柱の側面に刺さっていた。

 円柱を固定している台は、太い幹のようで、根元には根っこのように光り輝く配線が放射線状に広がっている。まさに機械仕掛けの世界樹だ。

 唖然として言葉も出ない。今、レイが立っている入り口から円柱までは一本の橋がかかっているが、白鋼製の太く頑丈そうなこの足場もこの部屋の規模と奇妙な円柱──まるでライト○イバーの柄のようだ──の迫力に圧されて非常に頼りなく見える。

 触らぬ神に祟りなし。そう結論付け、下手に調べるのを止めたレイはしかし、他にどうすることも出来なかった。

 もう一度広間へのドアを一瞬だけ開けてみて確認した所、10体はハウンド達が待ち構えていた。

 とてもじゃないが相手にしてられない。1人で同時に処理できる数ではない。

 二択だった。体力が回復するのを待って決死の逃避行を仕掛けるというのは決定済みだ。問題はその回復に待つ間に、恐らくこの施設の中心部を担うであろうこの部屋、特に謎の円柱を調べるか否か、という二択だ。

 どちらにせよ生きて帰れる可能性は低い。どちらを選んでも完全に五分の条件である。

 こういう場面に出くわすと人の行動は四つにわかれる。つまり、保守と革新と自棄、そして逃避だ。特に前者の二つに人は割り振られることは多いが、レイはその中でも後者の方の人間だ。

 革新、やれるだけのことを全てやらずに終わるなど彼女は許さない。


「あれ……? 」


 円柱を調べることには決めたのだが、一歩踏み込んだ所で身体が傾いた。数kmに及ぶ全力疾走とその後の戦闘。過剰に分泌されたアドレナリンのお陰で気付かなかったが、極限状態に身をおいていた彼女の身体は想像以上に疲弊していたようだ。


「ふぁあ…。」


 ──どうせ調べるにしても眠った後の方がいいだろう──

 その思考を最後にレイは泥のように眠った。


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