九
「ドラッグを巡るトラブルだったんだ。マットは撃たれたんだよ」
どういうことかさっぱり分からない。混乱している私にグラントは、順を追って説明してあげるよ、と溜息混じりに話し始めた。
「警察は詳しい場所や背景は発表しないし、ザックも言わない。だから細かい点は俺の推理だけどね」
海に落ちた週明けに私のアパートを出た後、マットは行った先の貸し倉庫で、ある犯罪組織が隠しておいた覚醒剤を見つけて盗んだ。大都市ほどではないにしろ、ホノルルにも犯罪組織はある。彼らが商品としての薬物を隠すのに、貸し倉庫がよく使われるそうだ。
貸し倉庫といっても、大小さまざまなサイズがある。一般的なのは四畳半から六畳ほどの大きさで、仕切りはあるものの、上部が日本で言う欄間のように開いて金網だけになっており、音などは筒抜けらしい。
グラントは、そういった倉庫の一室で寝ていたマットが偶然、他の部屋で交わされた会話を聞いたのだろうと言った。
具体的に倉庫の鍵などはどうしたのかは分からないが、覚醒剤を手に入れたマットは早速売り始めた。「アイス」と呼ばれるそれは、マリファナなどに比べて格段に高価なものだそうだ。マットは売り方を知っている。私が電話をした時に機嫌が良かったのは、大金を手に入れたからだった。
「でも、ホノルルは狭いからね。盗まれた方は頭に来て泥棒を探すし、そうでなくてもいきなり卸し元も分からないアイスを売るんじゃあ目立つだろ? 彼はそういう事は考えなかったみたいだね」
「あの夜、一ヶ月くらい本土に行こうかって言っていたんだ。逃げるつもりだったのかな?」
「一ヶ月じゃあ逃げたことにはならないよ。もしかしたらアイスが金になるんで、自分で本土から運ぼうとでもしたんじゃないか」
私が黙り込むと、グラントはともかく、と話を続けた。
普段は慎重な組織が動き出したのは、すぐに警察に察知された。あの夜、マットは組織に尾けられていて、組織は警察に尾けられていたのだ。
マットがショッピングセンターで接触した相手は、すでに薬物所持で逮捕されたと、グラントは付け加えた。
「ザックは言わないけどね、もしかしたらリョーイチの話を聞いてヤツなりに思う所があったのかもしれないな。俺だって、マットが急に羽振りが良くなったって聞いた時に忠告しただろう」
「それで……、どこで彼は死んだんだ?」
グラントの目と口が大きく開いた。
「ちょっと待ってくれ。君は組織の連中から逃げるために、海に飛び込んだんじゃないのかい?」
私が彼女、あるいは彼女の形のゴーストと話している間に、組織の人間はマットに近付いた。そして溺れている間に殺してしまった。銃声を聞いて展望台付近にいた警官達が駆け付けた時には、マットはもう息をしていなかったそうだ。
マットの動きをも監視していた警官達は、マットに連れがいることも知っていた。だから周囲を探して私を見つけてくれた。
「もっと早く警察が来ていればマットは死ななかった、と君は言いたいだろうね。だけど、奴らがアクションを起こさなければ、警察だって手は出せないんだよ」
そうか、そうなんだ、と言いながら呼吸が苦しかった。
罅の入った肋骨が痛んだ。あのサングラス越しの笑顔にはもう会えない。なぜこんな事になる前に、無理矢理にでも領事館へ連れて行かなかったか。
マットは死んでしまった。彼女にももう会えない気がした。
犯罪組織の構成員が五人も逮捕されたニュースは新聞の一面を飾り、覚醒剤の取引を巡るいざこざで「マット」と名乗る日本人が殺された件も報道された。しかし、マットは相変わらずマットのままだった。
財布に入っていたのは現金だけだし、唯一の手掛かりだった携帯電話は他人の名義だった。マットに名義を貸していた日本人女性は、彼の死を悲しみはしたものの、マットの本名などについては知らなかった。
警察が調べて連絡を取ったその女性以外、マットの素性を探る手立てはなかった。「あれは自分の知っている誰それではないのか」と、警察に連絡した人間がいなかったからだ。
私と、マットの友人だった女性が「日本人だった」と証言したため、警察は日本総領事館に知らせはしたらしい。しかし、パスポートの有無や在留届はおろか、名前すら分からないとあっては日本国民として扱うことは出来ないとの返答だったそうだ。
そういった話を、私はタガワ家のリビングルームでザクリーから聞いた。
一般病室に移された翌日には退院を言い渡された私に、グラントが家に来るようにと勧めてくれたのだ。グラントの両親に、祖母、弟妹に加えて甥や姪までいる大所帯は、静かではなかったけれども慰められた。
彼女の姿をした得体の知れないものにまた会う恐怖も私の中にはあったから、いつも誰かがいる環境には助けられた。
初めはマットを、次は私を誘ったコーリング・ゴーストは一体何だったのか。マットの時は、彼の知らない女の形だった。私の前には彼女の姿で現れた。
「そういえば、マットの名前は分からないままだけど、でもコーリング・ゴーストは呼んだんだ」
私はふいに思い出してグラントに告げた。マットは自分の脳が見せた幻覚だから、自分の名前を知っているのだと考えたけれども。
「だけど後で魘された時には、自分じゃないって言ってたんだろ? 彼はマットのままでいいんじゃないか。君が聞いたときだって教えなかったんだし。きっとその名前で呼ばれていた頃には、戻りたくなかったんだ」
妙に納得した顔のグラントに、私は少し腹が立った。
「だけど、そんなの寂しいじゃないか。外国で、誰にも知られないで死んで行くことを考えてみろよ」
「寂しいのは、君だろう」
厳しい調子でグラントは言い切った。
「彼は仕方なかったんだ。あんな生活をしていれば、こういう死に方だって予測出来たはずだ。彼には元の名前に戻って、日本に帰る選択肢だってあったんだ。君はそう進言したことだってあったじゃないか。帰らずに危ないものに手を出したのは、彼が決めたことだろう? 君だって、一歩間違えば死んでいたんだよ。撃たれるか、溺れるかしてね。将来もし君が死んだら、間違いなく日本へ連絡が行くように手配するよ。そう思えば寂しくないかい?」
圧倒的な正論に、私は俯いた。死んだ後に連絡されたって、果たして自分がそれを感じるかどうかは分からない。
「君を落ち込ませるために言ったわけじゃないよ。友達が死んで、悲しいのは当たり前だ。だけど、あんまり寂しがっていると、またコーリング・ゴーストに呼ばれるよ」
ぎょっとして顔を上げた。コーリング・ゴーストは、寂しい人間を呼ぶのだろうか。だとしたら、マットがそれを見たとき、彼もやはり寂しかったのだろうか。
あの夜、彼女の姿をして現れたゴーストの声や仕草を思い出して、背筋が寒くなった。同時に、その存在を疑っていない自分にも気が付いた。
「冗談だよ。そんなに簡単に法則性なんて割り出せるもんか。君の体験は俺の研究にとって貴重なサンプルだけどね。こう考えたらどうだろう。いつかコーリング・ゴーストに呼ばれた少年を、先祖の霊が助けた話をしたよ、ね? 君のケースはあれと似ていて、しかも逆だ。君を助けたいと思う何かが、彼女の姿で現れたんだ。あのまま岩場にいたら、危ないと判断して君を海に引きずり込んだ」
「マットも一緒だったら良かったのに」
「そいつは君だけが大事だったのさ。だから確実に君を捉まえられる人の姿で登場したんだ。きっと君のために命綱なしで海に飛び込む、馬鹿な警官が来るのも知ってたんだろうよ」
実に下手くそだったけれど、グラントが私を慰めようとしているのは分かる。口元がわずかに綻んだ。真っ赤に照れたザクリーがキッチンへ入って行く。その手に白く目立つ包帯を見て、少し救われた気持ちになった。