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 携帯電話が鳴ったのは、夜の十時少し前だった。その朝日本から帰って来た私は、飛行機の中で眠れなかったせいでアパートに着くなり眠ってしまい、日が沈んだ頃に目を覚ました。

 日本から運んだ本を床に広げている時に鳴った電話は、マットからだった。

「今日、帰って来たんだろ。これから会わないか?」

 休みは明日まで取ってある。一人でいるのが嫌だった。快諾してワイキキに行くよと続けると、それには及ばないと言う。「車あるんだ。そこまで二十分で着く」

 マットに会うのは、彼が海に落ちそうになって以来だ。あの時の寒さを思い出して、私はシャツの上からウインドブレーカーを羽織った。

「久し振りだな。本場の日本食はやっぱり良かっただろ」

 快活な口調や、夜だというのにかけたままのサングラスは相変わらずだったのに、説明のしがたい違和感を覚えた。以前の彼とは何かが違う。あの夜かけていたサングラスは、携帯電話と一緒に壊れたから新しいものだが、前のと同じ形だ。もしかしたら彼の運転してきた車のせいかもしれない。古くない型のドイツ車だ。誰かから借りたのだろうが、マットには似合わない車だと思った。

「ちょっと付き合ってほしいとこがあんだよ」

 助手席に乗り込むと、彼は馴れた様子でハンドルを操った。道もよく知っているようだ。アパートの路地を出ると、迷う様子もなく最寄りの乗り口から高速道路に乗り、街を東側へと向かう。

 車中での話題は、自然と帰省の話になった。

帰る前には彼女と毎日のように電話もし、二人の仲は問題ないと思ったのは私だけだったようだ。はっきりとは言われなかったけれど、あてのない遠距離恋愛は、彼女には負担なのだ。「やっぱり、距離って大きいね」と泣き笑いの顔で言われてしまっては、返す言葉もない。

「でも、別れようって言われたんじゃないんだろ?」

 慰めるように言って、マットは煙草の灰を灰皿に落とした。丁寧とは言えない動作で、灰皿の周辺には大分灰が飛び散った。

「そりゃ、もう他に誰かいるわけじゃないから。自然消滅狙いってヤツじゃないのー?」

 語尾をひどく伸ばしたのは、ヤケ気味なせいだ。きっぱりと別れを言い渡さなかったのは、私の性格を知っている彼女の優しさだろう。それを言うと、マットは声に出して笑った。

「分かるよ。俺も、『ダメだろう』と思うことがあってもさ、はっきり『ダメだ』って言われないほうが楽なんだよね。でも、そうやっている内に、案外ツキが回ってくることもあるんだよ」

 彼が言っているのが、女性関係のことか、今の生活のことかは分らない。ただ、前に電話で話した時も機嫌が良かったし、今晩会った時から調子が良さそうなのは見て取れた。

 そんな話をしている内に、車は高速道路からカラニアナオレ・ハイウェイに入って、先日通ったショッピングセンターに近付いていた。ここで人に会う約束があると、マットはショッピングセンターに車を乗り入れた。

 降りようとする私を制し、すぐに戻るからと、マットは小走りに近くのコーヒーショップへ向かって行った。

 残された私はすることがなかった。最初は彼女のことを考え、次いでクリスマスにしたグラントとの話を考えた。「彼の状態を何とかする気がない」わけではないのだ。ビザのない不法滞在では、将来が明るいものであるはずはない。

 いつかのホームレスの姿を思い出した。やはり、日本に帰るように説得するべきだろう。まずは、いま何が上手く行っているのか尋ねようと思いついた頃マットが帰って来た。ご機嫌だった。

 鼻唄を歌いながらコーヒーを差し出すと、エンジンをかける。

「近くまで来たついでにさ、この間のあそこに行ってみようぜ」

 コーヒーが零れるほど驚いた。グラントの忠告をわざわざマットに伝えなかったのは、まさかマットがもう一度行きたがるとは思わなかったからだ。

 零れたコーヒーをナプキンで拭い、私はグラントの話をした。マットはげらげら笑った。

「マジ? じゃあ肝試しってことでさ。お化けならお化けでいいじゃん?」

 一体何がそんなにおかしいのか分らないが、彼は楽しそうに笑い続ける。車はすでにショッピングセンターを出て、展望台の方向へ向かいつつあった。

 あの夜、どれだけ苦労して駐車場まで戻ったかを思い出すと、力が抜けそうだった。はっきりと幽霊らしきものを見たのは彼だというのに、この鈍感さはなんだろう。

 半分近くまで欠けた月が低い位置に出ていた。展望台の風は今夜も強い。

 マットが当然という顔をして塀を乗り越える。その時に笑って「今日はサンダルじゃなくて、ちゃんとスニーカーだから大丈夫だよ」と自分の足元を指差した。何が大丈夫なものかと思いながら、私も彼に習って塀を登る。耳元で風が鳴った。

「俺、今度メインに行ってこようかと思ってんだ」

 先日と同じ窪みに着いて腰を下ろすと、私が尋ねる前に彼が口を開いた。メインというのはアメリカ本土のことだと確認して私は首をかしげた。

「そっちの方にいい仕事でもあるのかい?」

「そういう言い方もあるな。せいぜい一ヶ月かそこらだよ」

 一ヶ月で仕事というのは何なのだ。疑問を口に出そうとした時、私のことを誰かが呼んだ気がした。

 最初は風が鳴っているのだと思った。実際、風は益々強くなり波の音もうるさくて、すぐ隣にいるマットと会話するのが難しいほどだった。

 しかし、その声は繰り返し私の名前を呼んだ。聞きなれた声だった。

 遼一、遼ちゃん。

 岩陰から現れた人影を見て、私は飛び上がった。

 なぜここに彼女がいるのだ。

「来て欲しかったんでしょ? 会いに来たよ」

 おぼろな月明かりは逆光で表情までは見えなかったが、間違いなく彼女だった。背後で誰かが何か叫んだ。

「なんで来たんだ。俺たちはどうせ別れるんだろ?」

 彼女の薄いワンピースの裾が風になびいている。近寄って来ない彼女の声を聞き取ろうとして、私は二歩、三歩と歩み寄った。

「別れたりしないよ。遼ちゃんは別れたくないでしょ?」

 後ろから物音が響いたが、雑音にしか聞こえない。彼女が誘うように肩を動かし、両手をゆっくりと差し出した。

「好きよ」

 私の右手を掴んだ両手から、彼女の体温が伝わる。ずっと恋しかったのはこれだ。彼女はついにハワイまで来てくれた。ゆっくりと私を引き寄せる彼女を、抱き締めようとした。

 いい香りの髪が頬に触れた瞬間、世界は無音になった。

 息が苦しい。何がどうなっているのか分らない。

 とにかく苦しくて苦しくて仕方がない。

 何度か体のどこかに激しい衝撃を受けて、やっと自分が水の中にいるのだと分かった。波が打ち寄せる度に、抵抗も出来ずに岩に打ち付けられ、渦巻く水に呑まれる。

 段々と上下の感覚がなくなってしまう。どちらに向かって水を掻いたら空気が吸えるのか。

 耳の奥で、まだ彼女が私を呼んでいた。苦しい気分が失せて来た。

 私は意識を投げ出した。


 また誰かが呼んでいる。けれども今度は彼女ではない。動かない目蓋を必死に持ち上げて見た。

「リョーイチ、リョーイチ。You’re gonna be okay.」

 この男は誰だっただろう。思い出せないが、彼は必死に私に呼びかけている。まるで私が大事な家族ででもあるようだ。

 彼の後ろに見える月は相変わらず明るい。最後の気力を振り絞って、私は彼に向かって笑いかけてみせた。



「ひどい目に遭ったね」

 緊急外来から一般の病室に移されると、すぐにグラントがやって来た。

 私は頭を七針縫い、肋骨二本に罅が入り、足を捻挫していた。縫われたりレントゲンを撮られたり、スキャンにかけられたりしている間、誰かに連絡を取ることは考えもつかなかった。なぜ私が病院にいると分かったのだろう。

「君に言わなかったけど、ザックは警察官なんだ」

 私の顔色を読んで、グラントは申し訳なさそうに言う。

それで思い出した。私を懸命に呼んでくれたのはザクリーだった。

「俺が海に落ちて、マットが警察を呼んで、それでザクリーが助けてくれたわけ?」

 意識が戻るとすぐ、入れ替わり立ち代わり警官がやって来た。立ち入り禁止の場所で何をしていたのか、同行の男とはどういう関係かといったことをしつこく聞かれた。

 非合法薬物の尿検査も求められたが、どういう経緯で私が海に落ちたかは、誰も尋ねなかった。

 逆に、男はどうなったか、現場に日本人女性はいなかったかと質問すると、彼らは少し戸惑った表情をした。男についてはいずれ分かると言い、日本人女性はいなかったと断言されてすっかり当惑してしまった。

 おそらく彼らは私がドラッグの幻覚作用で海に落ちたのだと考え、だから尿検査を受けろと言っているのだろう。私は一向に構わないが、マットは大いに構うだろうとそればかりが心配だった。

 彼女はいなかった。コーリング・ゴーストは、今度は私を呼んだのだろうか。

「マットはどうしたかな? 知ってる?」

 最初の質問に答えずに黙っていたグラントは、一度唇を引き結んでから開いた。

「彼は死んだよ」

 海に落ちたショックで、英語の聞き取り能力がなくなったのかと思った。数回同じことを言わされたグラントは「何度聞いても同じだよ」と顔を歪めた。


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