七
どうしただろうと思いながらも、クリスマス休暇前の試験などに追われて日を過ごし、いよいよ明日はクリスマス・イブという日になって、やっとマットが電話してきた。
「携帯はすぐに新しいのを買ったんだけどさ、なんだか急に忙しくなっちゃって」
屈託のない声で話す彼は続いて、私の年末年始の予定を尋ねた。彼女との仲直りはとうに済んでいた。安くはなかったけれど飛行機のチケットを買ったと告げると、マットは弾んだ声で「良かったじゃん」と喜んでくれた。
「楽しんで来いよ。戻ったら会おうな。この間世話になったから、何かご馳走するよ。あれからついてるんだ、俺」
ついている、というのは一体どの点でついているのか、私は聞かなかった。病気のせいで弱った体を引き摺るように帰って行った背中だけを覚えていたので、微塵も暗さを感じさせない口調にまずほっとして、それ以外のことはどうでも良くなってしまった。
「いいのかい、それで」
分厚いハムを切り分けながら、グラントは少し非難がましい瞳を私に向けた。
例の事件を相談してから、グラント・タガワと私は急速に親しくなっていた。彼が日本文化にさらに興味を持ち始めたこともあるし、私もハワイ文化を知りたいと思った。
自分の持っているものに興味がある相手なら、心を開くのは簡単だ。ファーストネームで呼び合うまでに、時間はかからなかった。
彼が親しみやすい外見とは異なり、かなり人間を選んで付き合うタイプだということを知った時には、ちょっとした優越感を感じたりもした。そういえば私が勤め始めた頃は、彼は決して近くには寄って来なかった。
「緊張し過ぎてるみたいで、側には寄りたくなかったな」
当時の私をグラントはそう評した。それは当たっているだろう。みっともない真似をしないようにと、そればかり気にして周囲を受け入れる余裕がなかった。
「でも君は親切で真面目だ。友達になるのはタイミングもあるだろう? 今まで他の人と親しくならなかったのは、言葉だけが理由じゃない。下手なサーフィンみたいに、波に乗るタイミングを外してたんだろう」
ちなみに俺は乗る波を選ぶからね、と言い切った彼は自分のことをよく分かっている。親しい人間が出来ると、他の人間とも怖がらずに話せるようになる。以前よりも職場へ行くのが楽しくなった。
初めての学期末試験を問題なく乗り切れたのは、まずグラントのお蔭だったと言っていい。連日顔を合わせて試験が終った頃には、日本へ帰省する前に訪れるクリスマスは、彼の家で過ごすことになっていた。
カウアイ島の親族の家へ集まる習慣になっているタガワ家の人々は、習慣を変えることなく三泊四日の小旅行に出かけたが、グラントとそのすぐ下の弟、ザクリーだけはオアフ島の自宅に留まった。
二人とも「いい年をして独身だし、ガールフレンドもいないから、親戚に会うと色々言われる」と、グラントは肩を竦めて説明してくれた。
クリスマスは七面鳥だと思い込んでいたが、実際、七面鳥は感謝祭の食べ物でクリスマスはハムだそうだ。あれこれと調味料を加えて、長時間オーブンで焼き上げたそれを、グラントは生真面目な顔で私たちに切り分けた。
「マットって彼は、急に忙しくなって、しかもついてるんだろう? 危ないことをしてなきゃいいけど。君に巻き込まれて欲しくないよ」
話しながら一きわ大きく切ったハムを、ザクリーの皿へ取り分ける。ザクリーは顎を軽く上げる動作だけで礼を示した。
「彼は最初に出来た友達なんだ。付き合いは切りたくないな」
「付き合いったって、馴れ合いじゃないか。彼の状態を何とかするつもりがないなら、友達は選べよ」
そうなのかな、と私は溜息まじりに呟いた。「そうした方がいいよ」という声は、驚いたことにザクリーの口から出て来た。
グラントの弟、ザクリーは兄と違っておそろしく無口な男だった。初対面で弟だと紹介されたときから、あまり喋らない。といって無愛想なわけではなく、目が合えば何とも親しげな微笑を送ってくる。
兄のグラントが小男で口数が多く、せわしなく動くのに対して、ザクリーは大男で無口でおっとりしている。
グラントは私が言おうとしている先を読んで次々と言葉を補ってくれるから、会話に不自由しないし、ザクリーは言葉よりも表情や仕草で会話出来るタイプだったから、私は楽にしていられた。
「考えてみるよ」とタガワ兄弟に短く返事をして、目の前のハムに集中した。タガワ家に伝わる調理法のお蔭で、私はハムの美味さを堪能した。
「本土に比べてハワイでは老若男女の区別なく、怪異現象がよく話題になるね」
食後にワインを傾けながら、話題はいつしかグラントの分野に移っていた。
もっともあまりアカデミックな話だと、ザクリーはともかく私が分らないから、もっぱらグラントが実際に見聞きした怪談と言っていい。彼の専門は語学だが、いずれはハワイ文化全般にまで広げるつもりらしい。
「それも『友達の友達が』、というんじゃないんだ。『私が』なんだよ。何か不思議な体験をしたとして、否定される不安なしに語れる土壌があるんだね。語る側にも聞き手にも『そういうこともあるだろう』という考えが共通してる。これはこれで健康な共同体だと思う。ところで先月うちの学生がね……」
学生のアパートに出た老婆の幽霊は、実は火山の女神ペレではないか、という話に始まって、グラントの話は尽きなかった。彼によると、オアフ島はおろかハワイ全島、至るところがお化けスポットらしい。
島の西端のカエナ岬は死者が旅立つ場所と言われており、道路すら通っていない。ファーリントン・ハイウェイという道が近くまで敷かれているだけだが、そこに幽霊パトカーが出るそうだ。
「聖なる土地だから道路を引かないわけ? 幽霊パトカーはそれに抗議してるとか?」
「道路を敷設しないのは、自然保護のためらしいよ。幽霊パトカーの理由は分からないけど、抗議じゃないだろうね。その手前のマカハ・ビーチ周辺でも、現在の科学では説明のつかない事件が沢山起きてる」
現在の、というところに力を入れてグラントは言った。語られる話の真偽のほどはともかく、ここまで怪談だらけの場所を私は他に知らない。グラントがハワイ文化の側面と言い切るだけのことはある。
私の常識を超えた場所に住んでいるのだと、心細さが頭をもたげた。
「とりあえず、行くなと言われている場所には行かない。するなと言われていることはしなければ、怖い目には遭わないよ、多分ね」
次いで話してくれたのは、私も顔見知りの警備員の話だった。警備会社から大学に派遣されている彼は、本土出身の気のいい白人だ。彼がグラントに話した体験だ。
別の警備会社に勤めていたとき、夜中にある小学校を見回っていると、何とも嫌な気分になった。誰かが見ているような気もするし、背後に気配も感じる。といって振り向くと誰もいない。毎晩同じ目に遭って、次第に体調も悪くなってきた。
事実だけ並べると私があの海辺で体験したのをほぼ同じだ。つい唾を呑んだが、その音が大きくなかったと思いたい。
「で、どうしたの?」
「うん、上司に配置換えを頼んで、受け入れられなかったから、今の警備会社に転職した」
「普通、小学校で前に何があったか調べたりしないか?」
怪談の終わりには因縁が付きものだ。もっともこれを怪談と呼べるかどうか分からないけれど。グラントは首を振った。
警備員の彼は、これは自分の知らない領分だろうと判断した。
彼にとって重要なのはそこで自分に起きることだけだ。踏みとどまって見極めたり、調べたりする必要は皆無で、そこへ行かないという行動だけを取った。
「賢い対処じゃないか。未知の領域にはむやみに足を踏み入れない。俺は今度、その小学校を調べに行くつもりだけど、怖いことが起きたら逃げ帰るよ」
最後は笑ってグラントはワインを口に運んだ。
自分の話はしたくなかったけれど、マットは以前、あの岩場で見られている気がしたと言っていた。しかも彼は誰もいなかったことまで確認している。その話をすると、グラントは大げさに口を開けてみせた。
「そんな事があったのに、また同じ場所へ行ったのか。まあ、大した不快感じゃなかったんだろうね」
「その時もコーリング・ゴーストは様子を伺ってたのかな」
言いながら自分でおかしくなった。いつの間にか私は、あそこにいたのは幽霊だと考えている。
「いや、その時は気のせいで、この間はマット自身も言っていたように、本当に熱のせいかもしれないね」
笑って取り消すと、ザクリーがやけにきっぱりとした声を出した。
「それは違うね。ああいうものは、いる」
言った後は説明もなしで、又にこにこしているだけだ。グラントが補足のように口を開いた。
「支障がない限り、いると思って行動した方がいいんだよ。コーリング・ゴーストは街中には出ないから、山や海に行くときは一人で行かない。もし、この前マットが一人でその岩場に行っていたら、確実に海に落ちてただろう? 万が一何か起こっても、一人でなければ助かる確率は上がる。それはコーリング・ゴーストじゃなくて、ただの事故や遭難でも同じことだ。そう考えて行動するのは、難しいことじゃない」
「そうか。でも、いるとか、いるんじゃないかと思うと怖いよ」
「雨月物語」や「今昔物語」を読んで面白いと思うのは、昔々の作り話だからで、実際に幽霊だのがいるとすると、正直言って恐ろしい。
「もちろん怖いよ。だから怪しげな事が起きたら、まず逃げ出すって言ってるじゃないか。だけど俺は、幽霊よりもドラッグのやり過ぎで、通りすがりの人に銃を向ける、くそったれの方がよっぽど怖い」
そういう事件が数日前に起きていた。撃たれたのはスーパーマーケットで、夕食の買い物をしていた主婦だ。ここは幽霊も非合法薬物も「どこかの誰か」の話でない場所らしい。寂しいと思うことは減ってきたけれど、怖いと思うことが増えた。