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 月曜の朝、まだマットは微熱があったが、非常用の部屋があるからと私の出勤に合わせてアパートを出た。女友達のところではなく、別な場所があると言う。

「貸し倉庫なんだけどさ、空調もあるしマットレスも置いてあるんだ。友達と共有だから、そこにいれば誰か来るから」

 貸し倉庫と聞いて気の毒に思ったが、眠れるようにしてあるのは、泊まれる環境だからだろうと深く考えなかった。土曜の夜は一睡もせず、日曜の夜はソファーで眠ったから、正直言ってベッドが恋しかった。二晩も三晩も寝ずに論文を書いたり、ゲームをしたのは昔のことだ。

 ただでさえ身の入りにくい月曜の授業をこなし、昼に教官室へ戻った時にはへとへとだった。出勤の前にコンビニで買った昼食をつつきながら、ふとハワイへ来る前に聞いた話を思い出した。

 恩師に挨拶に行った際、居合わせた社会学の元教授が教えてくれた話だ。

 定年を過ぎて非常勤で教えている彼がまだ大学を出たての頃、アメリカ本土へ留学した。同じ頃、外語系で有名な大学の教員がアメリカの大学へ留学していたのだが、彼は落第して、失意の内に帰国の途に着いた。

 日本へ空路で向かう場合、真っ先に見えるのは富士山だそうだ。

その富士山が、アメリカの大学で落第してしまった教員の心にどんな作用を及ぼしたのかは分らない。ただ彼は富士山が見えた途端、飛行機のトイレに駆け込み、頚動脈をカミソリで切ってしまったのだそうだ。

「当時の留学生仲間の間では、肝の冷える話だったよ」と、元教授は話を結んだ。

 それが実話なのか、あるいは都市伝説ならぬ留学生伝説なのかは判断出来ない。恩師が常々「あの男は話をでっち上げるのがうまい」と言っていたから、事実ではないのかもしれない。しかし正に「肝の冷える」話ではある。

 マットはその教員とは違う。失意の帰国をせずに、違法でも外国へ留まる道を選んだ。私だったらどうだろうか。この大学での職を解かれて、次の仕事のあてもないまま日本へ帰国することになったら。

 まず帰るだろうな、と考えたとき、ノックの音と共に浅黒い顔が入ってきた。ハワイ語担当のグラント・タガワだった。

「ミスター・キド、またベントーですか? 好きですね」

 ベントーという日本語が広くハワイで使われているのは、引っ越して間もなく知った。もっとも携行できる食事という意味ではなく、米飯におかずが付いてパックになったものを指すらしい。味は日本の物に比べて遥かに落ちるが、コンビニでも扱っているのが嬉しい。

「ええ、まあ」

 いつもの曖昧な笑顔で箸を動かすと、タガワは断りもなく椅子を都合して私の側に座った。

「疲れた顔をしてるじゃないですか。もしかして例の論文のせいですか?」

 タガワという名字は日系の父方から受け継いだものだから、自分は立派な日系なのだと彼は主張するけれども、母方から貰った白人とハワイアンの遺伝子が彼を日本人には見せない。浅黒い肌にくりっとした大きな瞳が、年齢よりも彼を若く見せている。

 日系だと主張する割に、日本文化にそれほど興味がなかったらしい彼だが、最近小泉八雲にご執心だそうだ。彼の敬愛するハワイ民俗学者――といっても故人だが――も八雲に興味を持っていた影響もあるとか。

 日本語で書かれた小泉八雲論を、いくつか要約する約束をしていたのだ。週末の間に、日本の友人に送ってもらうつもりが、すっかり忘れていた。

「すみません、週末は友人が病気になって面倒を見てたので」

「ああ、なるほど。しかし、あなたにそんな友達がいるとは知らなかった」

 両の眉を不必要なほど上げて、「これは意外」という表情を見せる。いかにも西洋人的な仕草だ。友達の少ない奴と思われていたことに、反論はなかった。

「ミスター・タガワ、バジル・ホール・チェンバレンに関する論文は読みました? 八雲と親交があった人ですから、面白いかもしれませんよ」

 油っぽい唐揚げを飲み下して私はタガワに告げた。論文を送ってもらうのには、一日か二日かかるだろう。時間稼ぎだ。

「チェンバレンとの書簡は読みましたが。しかしミスター・キド、顔色が悪いですね。お友達のことが心配ですか?」

 きっと私は嫌な表情を浮かべたと思う。彼はハワイ生まれのハワイ育ちだ。大学の学部こそ本土へ行ったけれど大学院はハワイ大学で、今もハワイで順調な研究生活を送っている。

「友人は日本人なんですが、私も含めて……、外国で暮らすというのは苦労もありますから」

 羨ましいのだ。私だって出来ることなら、日本の大学で研究を続けつつ教鞭を取りたい。

「そりゃそうでしょう。この土地は外国人にも暮らしやすいとは思いますけど、地元の人でないと分からないことも多いですしね。想像はつきます。だから、もっと私たちを当てにしなさいよ、ね?」

 笑うと極端に目尻が下がる。私はすっかり嫉妬の毒気を抜かれた。

 何か言った後に「Ya?」と付けるのはハワイの方言のようなものだと聞いている。日本語でいうならば「でしょ?」とか「ね?」といった感じだろう。

 年中聞いている言葉だし、便利なので自分でもよく使うが、彼の言った「Ya?」には不思議な温かみがあって、私の心と口を軽くさせた。

「じゃあさっそく、聞いて欲しい話があるんですが」

 何度も言葉に詰まりながら、私は週末の事件をタガワに話して聞かせた。途中から彼の表情が険しくなったのは、マットの薬物使用のせいだと思っていた。

「それは……、いけませんね」

「そうでしょう? 彼は病院で治療を受けるか、日本に帰る方がいいと思うんです。しかし、本人にその気がないものをどうやって説得したものかと」

 アドバイスを仰ぐように言うと、タガワは下唇を付き出した。次いで、広い額にかかっている黒い巻き毛をかき上げる。

「違いますよ。幻覚を見たのが本当に熱や薬のせいなら話は簡単です。そうでない場合も有り得る」

「彼の神経が病気だと?」

 それも違います、と低く言ってタガワは眉間に皺を寄せた。そうすると少しだけ童顔が年相応に見える。彼は三十代半ばのはずだ。

「あなたはまだ知らないでしょうが、この土地には色んなものが棲んでいるんですよ。笑ってもいいですけどね、私はコーリング・ゴーストの仕業かと思うんです」

 は、と気の抜けた声を発して、私は彼の顔をまじまじと見た。「コーリング・ゴースト」と彼は、はっきりと言った。直訳すれば、呼ぶ幽霊ということになるが、本当に幽霊なのか、それともそういうあだ名の現象があるのだろうか。

「私の専門は語学ですが、ハワイの文化の一側面として、霊や心霊現象もアカデミックに取り上げられているのが昨今です。そしてね、無視出来ないんですよ」

 小泉八雲好きの民俗学者はハワイ「幽霊学」の第一人者でもあったと先日、聞かされたのを思い出した。黙っている私が説明を求めているとでも思ったか、タガワは滔々と語り出した。

 コーリング・ゴーストとは、やはり幽霊らしきものだった。人気のない場所で、突如見知らぬ美しい女から名前を呼ばれる。相手が自分の名前を呼ぶことから、不思議に思いながらも彼女に誘われて行くと高所から落ちたり、あるいは高熱が出て数日の内には死んでしまう。

 呼ばれるのはほとんど男性だが、ごく稀に女性が男性に呼ばれることもある。マットが遭遇した出来事と、ぴったり一致する。

 コーリング・ゴーストが現われるのは、ホノルルのあるオアフ島に限らず、ハワイ全島で似たような報告がなされている。古くからいるハワイ系住民の間には一般的な幽霊だと言われており、呼んだ女性に誘われそうになった少年を、先祖の霊が助けたといったケースもあるのだそうだ。

 もっともハワイだけによらず、サモア諸島などでも山間部で出会うと死ぬと言われている「アイトゥ・ファフィネ」は現在でも信じられているから、ポリネシア系の場所では珍しいことではないのかもしれない。

 マットが海に落ちそうになった後、私が感じた視線や、動くものの話をする気にはなれなかった。あの時の不気味さが甦りそうだったからだ。

「でも、科学的じゃないですね」

 代わりに小さい声で反論らしきものを述べた私に、タガワは大きな黒目を向けた。

「いやだなぁ、ミスター・キド。今の科学だって万能じゃありませんよ。科学的にどうだってそんなこと構いやしません。大事なのはどう対処するかでしょう、ね? 地動説が支持される前だって、引力が発見される前だって、我々は物を落とすと地面に落ちることは知っていて、材質によっては割れたりするので気を遣っていたんですよ」

 出来の悪い生徒に諭すようにタガワは言う。彼の声はその外見に似ず、低めで落ち着いている。教員をやるにはぴったりの声だろう。

「それじゃこの場合、私が気を遣うべきなのは何でしょう?」

「彼に、事件のあった場所には二度と行くなと言うことです。あなたも行かない方がいい」

 おずおずと尋ねた私に、タガワは簡単に答えた。予想をはるかに超えた簡潔な解答だ。そうですか、とだけ言って後の言葉が続かない。

「そうですよ。だって薬物使用は誰かの助言だけでは、止まないでしょう。強制的に病院に連れて行きますか? 精神を病んでいる場合だって同じです。保険もない彼の治療費を払う覚悟がありますか? もっとも移民局に通報すれば、強制的に日本へ送り返してくれるかもしれませんね。日本へ戻れば良くなるという保証でもあるなら、最良の手でしょうけど」

 あくまで穏やかに、微笑さえ浮かべてタガワは言い、私はまたしても黙り込んだ。反論の余地はない。

 しばらくして彼は、論文の件は急ぎませんから、と笑顔で帰って行った。

 次の休み時間にマットの携帯電話にかけてみた。壊れた電話はまだそのままだろうとは思ったけれど、他に連絡手段がないのだから仕方がない。電話をくれるようにとだけ伝言を吹き込んだ。

 マットから電話があったのは、それから三週間も経ってからだった。


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