五
私のアパートはワン・ベッドルームと言われる作りで、八畳ほどのベッドルームと、ほぼ同じサイズのリビングルームが付いている。独身男の一人住まいだから、当然散らかり放題だけれど、マットに文句を言う余裕があるとは思えない。
彼の衣服を脱がせ、私のTシャツとショートパンツを着せてから、やっとベッドに押し込んだ。それから、リビングルームへ薬を探しに戻った。
日本ではあまり聞かない家具付きのアパートというのは、こちらでは珍しくないらしい。リビングルームにはテレビもあるし、ソファーとコーヒーテーブルもある。
その間に、大型のトランクが口を開けたままになっていた。片付けよう片付けようとは思いながら、引っ越してきてから数ヶ月間、ずっとそのままにしてしまった。必要な物があれば、そこから出して使うのだ。
膝をついて持って来たはずの常備薬を探した。トランクから出した覚えがないから、まだあるはずだ。ハワイに来てから、幸い薬が必要だったことがない。
ピンクの紙袋を見つけて、私は一瞬マットのことを忘れた。
常備薬一式は、彼女が買い揃えて渡してくれたものだ。日本でも一人暮らしをしていた私に、どんな薬が必要になるか、家族よりも彼女の方が知っていた。だから出発前にそれらを買い揃え、可愛らしくかつ、私の持ち物の中では目立つ色の袋に入れてくれた。
どうしても彼女に会いたくなった。
紙袋を手に座り込んでいたのは、そう長い時間ではなかっただろう。開けたままのドアからマットの苦しげな声が聞こえて、私は我に帰った。慌てて袋を開ける。懐かしいパッケージの胃薬や風邪薬と一緒に、栄養剤も入っていた。
起きたのかと思ったけれど、マットは意識がなかった。無理矢理起こして薬を飲ませると、再び失神するように眠った。額は熱いし、呼吸も苦しそうだが、とにかく温かくして休ませればいいのだろう。私もシャワーを使わないと、風邪をひきそうだ。
濡れた衣服を一まとめにして、ゆっくりとシャワーを浴びると五時になっていた。今日は日曜だから、仕事の心配はしなくていい。何か食べようと思ったときに、マットも空腹なのに違いないことに気が付いた。本当なら薬を飲む前に何か食べさせるべきだった。しまったと思いながらベッドルームを覗く。
彼はひどく魘されていた。額から首筋から、たった今海から上がって来たかのように汗が流れている。
「ち、違うよ。俺はそんなんじゃない。そんなヤツ俺は知らない」
切れ切れではあったが、彼の言っていることは聞き取れた。起こすべきかと迷っている間に、彼のうわ言は続いた。
「……もう忘れたって」
昨夜、ガールフレンドの一人と喧嘩した記憶が、うわ言になっているのかと考えたが、マットが大きな声で「やめろ」と叫ぶに至って、私は彼を揺り起こした。
「あ、ああ、遼一か。いやな夢見ちゃったよ。……でも、さっき岩場で見たあれは夢じゃないよなぁ」
彼の瞳はまだ焦点が合ってない。それでも私のことは分かるらしかった。
「なに言ってんだ。変なもの吸って幻覚を見たんだろう。もうドラッグには付き合わないからな」
「たかがポットで、幻覚なんか見るかよ。本当にあの女が見えなかったのか? 畜生、あの女、どうやって俺の名前を……」
語尾は途切れた。彼は再び眠りに引き込まれてしまったが、私は目が冴え渡った。
台所で米を磨ぎ、マットのための粥を用意しながらも、私は考え続けた。あの時岩場には誰もいなかった。それは確かだ。私も視線を感じたり、何か動くものは見えた気がするが、それはマットが海に落ちそうになった後だ。マットは幻覚を見たのに違いないが、彼は吸っていた物のせいではないと言う。
もしかすると彼は重度の薬物中毒なのではないか。だから摂取していない時でも、体に残った薬物が幻覚を見せるのかもしれない。
今まで、偶々それに気が付かなかったとは充分考えられる。まさか警察に突き出すような真似は出来ないが、彼が薬物から手を切る方法はあるだろうか。
鍋を電熱器にかけて、インターネットを検索した。以前、ホノルル市関係のサイトでそういった治療センターの案内を見た気がする。
案内はすぐに見付かった。ここなら相談にのってくれるだろう。しかし、彼らは警察や移民局に届け出る義務があるのだろうか。それに、マットが同意するだろうか。
すぐにはマットに話せなかった。せっかく作った粥も、マットは三口しか食べられない。やむを得ず残りを冷蔵庫に放り込み、再び薬と栄養剤を飲ませた。
「迷惑かけるな」と朦朧とした口調では言うものの、すぐまたベッドに沈み込んでしまう。そして何度も魘された。
陽が高くなる頃になっても、彼の症状は変わらなかった。日曜でも救急病院はあるだろうし、ワイキキ周辺には観光客が飛び込める、休日なしのクリニックがあると聞いたこともある。保険がなくても金さえ払えば拒否されることはないだろう。
そんなことを考えてインターネットを検索したり、何度か彼の様子を伺ったりしていたが、夕方になって覗いたとき、彼の呼吸がそれまでとは変わっていることに気が付いた。
魘されてもいないし、苦しそうな呼吸音も聞こえない。試しに額に手をやると、まだ熱はあるものの数時間前に比べれば嘘のように下がっていた。
七時まで待って、私はマットを起こした。
「まず食べなよ」
温めなおした粥を出すと、彼は盆の代わりになっている物を見て小さい掠れ声で笑った。大振りのハードカバーの本だったからだ。「ホントに遼一っぽい」
その本にだって、前回は気が付かなかった。大分良くなっているらしいと胸を撫で下ろす。
お粥なんて久し振りだよ、と言いながらマットは少しずつ口に運ぶ。私はベッドの端に腰を下ろして薬物中毒の話をし始めた。意外なことにマットは真摯な態度で聞いた。しかし、薬物中毒の件に関しては頑なに否定した。
「マジで幻覚見るほどドラッグやってないよ。そんな金ねぇもの」
「じゃあ、夜の海にふらふら歩いて行くのは一体なんだよ?」
言い合いというほどではないが、私がじれてきた頃、マットが食べ終わった器を本ごと手渡した。すげぇ美味かった、という感想のあと、彼は長い長い溜息を吐いた。微かに洩れた声といい、疲れきった老人のようなそれだった。
「あのさ、俺は遼一みたいなヤツからすると、ロクでもない人生送ってるけど、幻覚見るほどドラッグにはまっちゃいないよ。金ないからってのも、ホントだけどね」
高熱を出した後だけに、疲れてはいるのだろうが、彼がぼそぼそと喋る調子は熱のせいだけとは思われなかった。
「俺ね、もう十年ちょっとこっちにいるんだ。マットって本名じゃないよ、もちろん。最初は語学留学で来て、やる気満々だったんだけどドロップアウトしちゃった。親とか怒ってさ、俺もムカついたから縁切っちゃって、『その内見返してやる』って思ったんだけどな。就労ビザってちょっとやそっとじゃ取れないんだよ。まともな仕事には就けないし、学生ビザも切れるし、なんかこんな暮らしが身についちゃった」
初めて自分のことを語るマットは弱々しかった。
「日本に帰れば? 親御さんに謝ればいいじゃないか。仕事だって日本ならもっといい仕事があるよ。ビザの心配だってしなくて済む」
「いい仕事って、なんだよ? 高卒で専門学校中退で、こっちの語学学校だってドロップアウトしちまったんだぜ。タトゥーも入ってるしよ。コンビニのレジ打ちか? 工事現場とか?」
コンビニのレジ打ちだって、不法滞在で不安定な仕事を続けるよりはましではないのか。少なくとも健康保険は手に入れられるだろう。
私が口に出す前に、唇の端をぎゅっと吊り上げてマットは皮肉っぽく笑った。そうすると口の脇に深い皺が出来た。
「日本に帰ったって、いい事なんかないよ。いかにも人生に負けましたって感じじゃん? それくらいだったらこっちでのんびり暮らしてた方がいいや」
あくまで彼は日本に帰った方が良いと思うのは変わらなかったけれど、それ以上説得することを諦めた。常々マットが観光客を小馬鹿にしているのは知っていた。
焼肉屋のビラ配りの際、日本からの観光客に愛想よく渡すくせに、後から「けっ、田舎もん」などと言って哂う。日本ではない土地で暮らしていることがマットのプライドらしかった。
外国で暮らすこと自体に価値はないと、私は思う。といってそれをはっきりと口に出すことはためらわれた。
「じゃあ、とりあえずは頑張って熱を下げるんだね」
説得を諦めたことを示すためにそう言うと彼は、今度こそ邪気のない笑顔を見せた。
「ああ、迷惑かけちゃったよな。思うんだけど、あの幻覚は熱のせいじゃないかな。岩場に行ったときから多分熱があったんだよ。でなけりゃ幻覚が俺の名前を呼ぶわけがない」
腑に落ちないながらも私は「そうかもな」と頷いた。ついで先ほどからの疑問を口に出した。
「マットの本名はなんていうんだ?」
「そんなのどうでもいいじゃん。意味ないだろ」
だるそうに、しかしはっきりと言った彼に、私はそれ以上突っ込まなかった。私たちはそういう馴れ合いの関係だった。空になった食器を受け取り、部屋を出ようと思ったときにマットの声を背中で聞いた。
「暮れは帰ったほうがいいんじゃないか?」