四
塀の内側から見たときは、それほどとは思わなかったが、実際に足を踏み入れてみると意外に広い。そして足場が悪かった。岩の破片が転がっている場所があるし、岩肌は結構滑りやすい。段差や岩の裂け目もある。
ここは人間が歩く場所ではないのだ。歩くことを想定されていないから、当然整備もされていない。そんな場所にこの前行ったのはいつだっただろう。
岩場は大きく一つではなく、いくつか崖のようになって海に突き出している。その間は小さな入り江になっているのだが、入り江という言葉から連想されるような静けさはない。
非常に小型のリアス式海岸とでも呼べばいいだろうか。波が激しく打ち寄せ、渦を巻いている。落ちたら這い上がるのは相当難しいだろう。
長い時間をかけて私達は崖を下りた。岩は巨大な階段状になっており、先の方はこれまた大きな台の形の岩に、波が打ち寄せている。水際の近くに岩が抉れてできたような窪地があった。
「休もうぜ」
無造作に腰を下ろしてマットがポケットを探った。ここまでの道程で履物が悪かった分、彼の方が神経を使ったのに違いない。私も隣に座り、胸ポケットから煙草を取り出した。車の中に忘れて来なかったのは幸いだった。
マットがポケットから出したのは煙草の箱だったが、中に入っていた煙草は妙に細い粗雑な巻きで、フィルターが付いていなかった。私は黙って自分の煙草に火を点けた。日本から持って来たウィンドプルーフのライターだ。
風を避けるために片手で覆いをしながらも、マットは火を点けるのに悪戦苦闘している。ほんのわずか躊躇してから、私はマットに自分のライターを差し出した。
「サンキュ。それ日本製? やっぱ日本の物はいいよな」
深く吸い込み、溜めるようにしてからゆっくりと煙を吐き出す。風があるのに、なんとも言えない強い匂いがした。
「それ、普通の煙草じゃないだろう?」
引っ掛かるものを堪えきれずに尋ねた。もしかすると口調が咎めていたかもしれない。
「ああ? 心配すんなよ。誰でもやってるって」
薬物に関わっている人間はきっと皆、同じ言い訳をするのに違いない。
私達は黙って海を眺めながら、それぞれ自分の物を吸った。マットが私の前に非合法な薬物を持ち出したのは初めてだ。もっとも注射器などを取り出したわけではないし、実際に非難めいたことは言わなかった。満月の光もリラックスした気分には一役買っていた。
「ここの岩ってなんでこんなに筋がついてるんだろう?」
弛緩した声を出しながら、マットがすぐ脇の岩壁を指す。周囲の岩と同じく地層を示す横線が入っている。バウムクーヘンのようだ。
「地層だろ? ここは火山の噴火で出来た島だから、溶岩が流れた跡かもね」
私も詳しいことは知らない。マットはふうん、とだけ言って話題を変えた。
「前にここでやったことあってさ」
何をやったのかは聞くに及ばない。彼が「やった」と言うときはセックスしかないし、相手は彼にとって重要ではない。今度は私がふうん、と言う番だった。
「外でやるのもいいよな? あのときは今日みたいに満月じゃなかったけどさ、興奮したな」
経験がないとは言わないけれども、ベッドか布団があった方が私にとっては好ましい。それを言うとマットは声を上げて笑った。
「遼一らしいや。でも、別に外だったから興奮したんじゃないぜ。誰かに見られてるような気がして、興奮したんだ。岩の陰から誰か覗いてると思ったんだ。だけど、終ってそっちに行ってみたら、そこは人が立ってられるような場所じゃねぇの」
「なんだよ、それ。怪談?」
「いや、興奮したってそれだけ」
マットの声は弛緩したままだ。今のように、彼は時々猥談ともつかない話をするが、嗜好が違うので、相手と会えない私が羨ましくなるような話はまずない。とはいえこのまま猥談に突入するのはごめんだった。
ふいにマットが立ち上がった。何か言ったようだが聞き取れない。彼はそのままふらふらと歩き出した。私達の前にあるのは台のような形の岩場だけで、向こうは海だ。
「どうしたんだ?」
声をかけたが聞こえている風ではない。おぼつかない足取りで、彼はしぶきに濡れる岩場へ足を踏み入れた。腕をゆっくりと前へ伸ばす。誰かを捕まえようとしている手つきだった。歩みは止まらない。
「おい、マット」
私が立ち上がったのと、彼の足取りが速くなったのは同時だった。このままでは海に落ちる。慌てて追いかけたが、彼の背中は遠くなる。夢中で彼の名前を呼ぶ。
彼の背中と岩で弾ける波の距離がほとんどない。思い切って飛んだ。
腰にしがみ付いたつもりだったが、結果として彼を岩に叩きつけることになってしまった。波がうねった。
胸から上を海に突き出した形で倒れたマットはもろに波を被った。しかし、落ちはしなかった。一しきり苦しげに咳をしたあと、腹這いのまま後退してやっと顔を私の方へ向けた。
「さっきの女はどこ?」
私も上半身はすっかり濡れていたし、倒れ込んだときに打った肘がひどく痛んだ。
「何が女だ。馬鹿野郎」
マリファナが、これほど強烈に幻覚作用のあるものだとは知らなかった。そんなものを屋外で服用したら、危ないのに決まっている。私は初めてマットに腹を立てた。まだ岩の上でしぶきを浴びている彼の腕を取って立たせた。
「帰ろう。危ないじゃないか」
きょとんとした表情で周囲を見回した後、私の顔を見てマットは頷いた。同時に身震いを一つする。風が、濡れた体から体温を攫っていく。
ふいに陸の方から視線を感じた。反射的に振り返ったが、人影は見当たらない。誰かに見られている気がしたというマットの話を思い出した。立ち入り禁止区域にいる後ろめたさのせいなら幸いだが、こんな時間にこんな場所に人がいるとしたら、私たち同様ロクなことはしていないだろう。人でなかったら、なお嫌だ。妙な寒さを覚えて、早く戻りたくなった。
ところが帰りは来たときよりも数倍時間がかかった。降りるときに段差が大きかったり傾斜がきつかったりした場所は、飛び降りたり滑り降りたりしたのが、上りはそうは行かない。おまけにマットはまだ足元が危ないままで、「寒い、寒い」と言うだけだ。
その間、私は何度か視線を感じたし、視界の隅で何かが動くのも認めた。状況のせいで気が昂っているのだと自分に言い聞かせたけれど、不気味だと思う気持ちはどうしようもない。マットが使えないのが無性に腹立たしかった。
何がなんでも駐車場までは戻らなければならない。夜が明けたところで助けが来る場所ではない。
両腕を体の前で組んで震えるマットに何か着せ掛けてやりたいとは思っても、私のシャツも彼のタンクトップに負けず劣らずびしょ濡れだ。
「登らなきゃどうしようもないだろう」
自分とマットを叱咤して、私達はじりじりと岩場を上った。段差の大きいところは迂回し、傾斜のきつい場所は私が先に上がってマットを引っ張りあげた。そうやって腕を掴み、引き上げて彼の背中に触れたときに妙に熱いのに気が付いた。
ようやく展望台の塀に辿り着いたときには、腰が抜けそうな安堵感を覚えた。塀を乗り越えたところで座り込んでしまいたかったが、マットは明らかに熱がある。苦しそうな息をしている彼の額に手を当てると、思った通りかなり高いようだった。
「医者に行こうか?」
「いや、保険ないし。誰か女のとこに行くから……」
のろのろとショートパンツのポケットから携帯電話を引っ張り出す。しかしスウィッチを押しても、光は点かなかった。しばらくためつすがめつして、マットは溜息とともに「画面が割れてる」と洩らした。私が飛びついた時に割れたのに違いない。
「しょうがない。俺のアパートで我慢してくれ」
覚悟を決めて私はマットの腕を取った。こうしている間にもどんどん体が冷えていく。マットだけでなく私も熱を出しそうだ。一刻も早く熱いシャワーを浴びたかった。
マットを助手席に押し込んで、私は車をスタートさせた。彼はもう自分でシートベルトを締めることも出来なかった。
来た道を戻り、カラニアナオレ・ハイウェイの長い道を辿った。ハイウェイの終点はそのまま高速道路H‐1(エッチワン)に乗れるようになっていたけれど、私はフリーウェイに乗らず、右端の一般道路を辿った。
両側二車線の道路が鄙びた感じのする街を通り抜け、長い坂道を下って再度高速道路の高架が見えてきた頃、やっと見覚えのある場所に出た。アパートまで十分ほどの地点だった。
玄関で崩れ落ちそうになるマットを、何とか奥まで担ぎ込む。彼が小柄なのがせめてもの救いだ。