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 車はハワイに引っ越して間もなく買った。無論、新車を買う余裕も必要もなかったから中古車だけれど、一応日本車だけあって不具合もなく使える。ハワイ大学に近いアパートから、マットの指定したワイキキの西側までは十分とかからなかった。

 常夏の島とはいえ北半球にある以上、ハワイにも冬はある。夜にはかなり気温が落ちるのにマットはいつものタンクトップで、寒そうな素振りも見せずに車に乗り込んで来た。相変わらずサングラスは外していない。

 十二時を過ぎても人通りが多いのは、やはり週末だからだろう。

「どこに行く? その辺に車を置いて飲みに行こうか?」

 いつものお定まりのコースを提案した私に、マットは首を振った。

「男二人ってのがなんだけどさ、ドライブしようぜ。満月じゃないか」

 思わず苦笑が洩れた。ドライブなんて久しく行っていない。世界的な観光地に住みながら、車で遠出をしたことがなかった。道を知らないこともあったけれど、一人で行くのがつまらなかったからだ。

「いい場所があんだよ」

 マットに言われるまま、ハンドルを操る。長方形のワイキキを西から東へと流れるカラカウア大通りは四車線の一方通行だ。日本では信じられないほどに、ホノルルでは一方通行が多い。覚えてしまえば便利なのかもしれないが、それが面倒で車で出歩かない癖が付いたのかもしれない。

 カラカウア大通りは途中から三車線になり、ワイキキ・ビーチのすぐ側を通ってカピオラニ公園へ入る。公園内は一車線だ。暗い公園内をスピードを落として走り、指示に従って公園の反対側の交差点から曲がりくねった道に入った。

「今、どこを走ってるの?」

答えが返ってくる前に、道はきつめのカーブを描きながら上り坂になっていた。

「ダイヤモンド・ヘッドを上ってんだよ」

 なるほどと私は無言で頷いた。ダイヤモンド・ヘッドから見る満月は悪くないだろう。

 ところが、やがて見えてきた展望台に心得たつもりでブレーキを踏むと、マットは不満そうな声を出した。

「おいおい、ここが目的地じゃないぜ。こんなカップルばっかのとこ、冗談じゃない」

 言われて展望台を横目で見ると、確かに膝ほどの高さのコンクリートの塀にカップルが鈴なりだ。道はすぐに下り坂になった。

「いいから、まっすぐ行って。ずーっとまっすぐ」

 街灯はあっても、そのオレンジの光は日本の街灯に比べて柔らかく頼りない。下り坂は左右に高い木の茂る中へと続いている。私は恐る恐る車を進めた。

「ここはカハラって、高級住宅街なんだ。ここいらの家はみんな何億もするんだぜ」

 へぇ、と生返事だけして暗い道に車を進める。やっと右手に公園らしいものが見えて来たときに、マットが「次のストップサインを左ね」と指示を出した。そういえばここまで、信号も一時停止のサインもなかった。

 左に折れてさらに細くなった道を突きあたりまで進んで、ハイウェイに合流する。「カラニアナオレ・ハイウェイ」とマットに言われて面食らった。当たり前だが、こちらの地名などはハワイ語が多い。ローマ字読みと同じなので、アルファベット表記なら戸惑うことも少ないが、耳で聞くと理解出来ない。

そのカラニアナオレ・ハイウェイは片側三車線の大きな幹線道路だ。

「あとはしばらくまっすぐ走ってくれればいいからさ。あ、あんまりスピード出すなよ。お巡りがその辺の路地で張ってるからさ」

「詳しいね」

「そんなもん、長く住んでれば常識だよ」

 短い言葉には、新参者への優越は含まれていなかった。むしろ、やり切れない疲労のようなものが感じられて、私は内心驚きながら尋ねた。

「マットは日本で生まれたんだろ? どれくらいこっちにいるの?」

 オレンジの街灯に照らされた道路は緩いカーブを描いている。時々信号はあるものの、ほとんどが青で、車は制限速度を守りながら、東へ向かっていた。質問に一瞬黙った彼は、溜息と共に返事をくれた。

「なんだかんだで十年ちょっとかな。よそうよ、そういう話は」

 触れられたくないのだろう。以前も身の上話をふった折はごまかされたが、はっきり拒絶されるのは初めてだ。所在がなくなって、私は黙り込んだ。

 単調に続く道路を眺めて十分ほど経った頃、マットが口を開いた。

「正月はどうすんの?」

 自分で顔が歪むのが分った。それなんだけどね、と口に出してしまうと、後は止めどなく愚痴が流れ出た。

 信じられないよ、普通は彼氏に会いたいと思うじゃないか。だってハワイだぜ、近いし観光だって出来るのに。いや、ハワイじゃなくたって、恋人が暮らしている場所を見たいと思うだろ。それともあれかな、もう他に気になるヤツが出来たのかな。くそ、まだ半年も経ってないんだぞ。

 刺々しく喋る私と反対に、マットはいつもの軽い調子で、しかし親切に一々「そんなことはないよ」、「きっと結婚資金を貯めたいんだろ」と慰めてくれる。

「彼女はきっと遼一の方から会いに来てほしいんだよ」

 何度目かの慰めをマットが口にした頃、道路は片側三車線から二車線になった。右手は海だが、車窓越しにちらりと見た限りでは波もなく静まり返っていた。道順についての指示はない。そのままアクセルを踏み続けた。

 左手はガソリンスタンドと小さいショッピングセンターだ。店はとっくに閉まっているの気の早いクリスマス用の装飾だけが、ピカピカと自己主張をしている。クリスマスなんて、なくていい。私はひどく忌々しい気分になった。

「おい、右の車線に入れな」

 マットの声に従ってハンドルを回す。目の前は急な坂になっている。

 信号が変わって、私は車を進めた。道幅は狭くないし、道路のアスファルトも新しいようだが、すぐに街灯がなくなり道路の右手に見えていた人家も途絶えた。

「対向車がないから、ハイビームにして大丈夫だよ」

 闇の中に吸い込まれて行くようで、思わずアクセルから足を放しそうになった時、マットが軽く言った。言われた通りライトを上向きにすると不便はないものの、対向車すらないのが不気味だ。坂を上り切るとカーブになった。その先にまた緩い坂が待っていたが、私は坂の向こうに見えるものに一瞬目を奪われた。

 月が海を照らしている。坂は真っ直ぐに海に向かっていた。

「ダイヤモンド・ヘッドなんかより、こっちの方が月がきれいだろ?」

 得意げなマットの声には、生返事を返した。

 海にぶつかる寸前に道路はカーブし、陸地に沿って今度は下り坂になっている。なるほどこの道は、海のすぐ脇を走っているらしい。天気の良い昼間に来たら、さぞきれいだろう。

「あーっと、スピード落として。ほら、そこに展望台があるだろ? あそこに停めてよ」

 マットが大声を上げ、何事かと私が慌ててブレーキを踏まなければ通り過ぎていたかもしれない。広めの駐車場に車を入れた。十数台は停められそうな駐車場に他の車の影はない。マットはさっさと車を降り、私も慌てて外に出た。

 風が強い。潮の香りがする。そして、明るい。街の灯は今通ってきた山肌に隠れて見えないし、街灯もない。ただ月が煌々と周囲を照らしている。その明るさに驚いた。

 他の展望台でも見られるように、ここにも駐車場と歩道の先に塀がある。大きな石をコンクリートで繋ぎ合わせて作ったものだ。しかし、ダイヤモンド・ヘッドの塀が膝ほどの高さなのに比べて、ここの塀は腰の高さだった。

 塀の向こうには草木のない巨大な岩が海に面していて、その上にまん丸の月が輝いていた。月光の下で波が岩にぶつかるのが見える。

 太陽の下で見るそれは爽やかさを感じさせるものだが、月の灯りだと荘厳な印象を受ける。

「明るいね」

「だろ? 月の明るさを感じるにはこういう場所がいいんだ」

 偉そうにマットは口の端を上げた。

先ほどのワイキキでも大分涼しかったが、今は半袖シャツが辛いほどに風が強くて寒い。こんなことなら途中のコンビニでコーヒーでも買ってくれば良かった。

 満月を眺めながら飲むコーヒーも美味いだろう。言ってくれれば良かったのに、と文句を口に出しかけたが、マットはなおも寒そうな素振りすらない。

 彼は塀に手を掛けて跨ぎ越そうとしていた。

「行こうぜ」

「どこに?」

 ここから先には行かないように、という意味で塀があるのではないか。ご丁寧に「危険なので入らないで下さい」といった内容のサインが二つも出ている。面食らって言うと、マットは呆れたように掌を上に向けてみせた。

「頼むよ、アベックじゃないんだからさ。駐車場にずっといて何しようってんだよ」

 それではこの先の岩場で、男二人ですることがあるのか。私は黙って後に続いた。塀を越えると足元で砂がじゃりっと音を立てた。

「足元、気を付けな」

 私はスニーカーを突っかけて出てきたが、マットはビーチサンダルだ。注意を促しながら、彼も足取りが慎重だった。サングラスを外してショートパンツのポケットに入れる。

 彼がサングラスを外すのはめったにない。小さいが愛嬌のある目だと思うけれども、本人は目の周りに皺が多くて嫌なのだと、女性のようなことを言う。


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