二
お互いの携帯電話の番号を交換して別れたその夜以来、週に一度か二週に一度の割合で、マットと会うようになった。はっきりとは言わないが、彼の年齢も私と同じ三十代前半ということが分ってからは、より親しみが湧いた。
何ということはない。会って食事をしたり、酒を飲みながら他愛のない話をするだけだ。マットは日本の話題も詳しかったし、何よりも私の愚痴に親切に付き合ってくれた。
初めて会ったとき、彼が何をしているのかその内分かると言っていた意味も次第に分かった。仕事は常に行き当たりばったりで、怪しげな店の客引きやビラ配りが主だし、時折、非合法薬物を扱っている気配すらある。住んでいる場所も一定していないようだった。
それでも彼と会うと、不思議とくつろいだ気分になれる。そう言うと、
「だから俺、女の子には不自由しないんだ」
彼は得意そうに笑った。実際、彼は常に複数の女性の匂いをさせていて、自分で住まいを構えずに済んでいるのもそのためらしかった。
マットによると女性との付き合いはなくてはならないもので、私の世話も焼きたがる。
「遼一は固い仕事なんだし、紹介したら喜ぶ女の子はいっぱいいるけど」
何度マットに言われても、頷かないのには理由がある。三年ばかり付き合っている相手がいるのだ。向こうも三十を目前に、そろそろ結婚したがっているのは分っている。常勤の大学講師への足掛かりとして今の仕事を受けたのも、彼女との結婚を意識しているせいもあった。
遠距離恋愛でも、今はIP電話もメールもある。しかしその肌に触れられないのは、どうしようもなく寂しい。
彼女がいるから、と誘いを断る私に、マットは呆れたような半分同情したような顔をした。
「いいけどさ、あんまり真面目過ぎるとアタマおかしくなっちゃうぜ」
「おかしく」なった人間を知っているのか、と聞こうとして止めた。自分とは関係がないと思いたかったからだ。確かに私は寂しくて、どうにかなりそうだと思ったことがある。だからマットと会い続けたのだ。
彼と会うのはいつも夕方だ。ワイキキの大通りに疲れた陽射しが落ちる頃、彼のサングラス越しの笑顔に会いに行く。日本のプロ野球がどうだとか、俳優の誰それがワイキキを歩いていたとかいう世間話をしているだけで慰められた。
とはいえ日本人の多いワイキキでも、異郷にいる自分を忘れることは難しい。
免税店の近くをぶらぶら歩いていた時だ。通りかかった白人の女が「ハイ、マット」と声をかけた。どういう職業か一目で分かる服装だった。
「アレある?」、「いや、今はない」といった不穏な会話を聞こえないふりをしてやり過ごすと、マットは妙に朗らかに笑った。
「あいつ、本当に好きでさ。気のいいお姉ちゃんなんだけどね、ドラッグにハマらなけりゃあんな商売しなくて済んだのか、あんな商売だから、ドラッグでもなきゃやってられないのか、どっちだろ? 俺の扱うのなんて大したものじゃないけど」
私は思わず振り返って彼女を見た。尻の見えそうな短いスカートを履いた彼女は、夕食後のそぞろ歩きを楽しむ家族の側を、高いヒールの靴ですたすたと歩いて行く。染めた金髪の根元が黒くなっているのが痛々しい。
昨今は日本でも非合法薬物が手に入りやすくなっていると聞いたことはある。小説などによると、そういった物を摂取しつつ「商売」をする女性だっているようだ。しかし、日本での私の交際範囲には、薬物も売人も存在しなかった。係わり合いになりたくもない。
相槌も打てずにいる私に構わず、マットは続ける。
「こっちじゃ、あんなお姉ちゃんは珍しくないよ。先はどうなるのか考えてないんだろ。ホラそこの婆さんだって、どんな過去があるんだかね」
彼が指差した路上には、コンクリートの花壇にもたれてホームレスの老婆が座っていた。風下に行けば、恐ろしい悪臭がするのは分っている。枯れ木のようになった彼女は、大小便もその場で垂れ流しらしい。人種すらもうよく分からない。その脇をブランド・ショップの紙袋をいくつも提げたカップルが、愉しげに通り過ぎた。
「なんか、すごい場所だな。よく考えてみると」
「考えてもしょうがないよ、馬鹿だな。きっとニューヨークとかはもっとすごいぜ」
けろりと言い放たれると、それもそうだという気がしてくる。しかし、新宿などの雑踏とは別の異様さがあるのは確かだ。
言葉や人種だけが異国なのではない。価値観や考え方、生活の違いが異邦人である自分を実感させる。たとえばワイキキを異様だと感じ、馴染めないと思うことも一つだろう。
薬物を扱うマットを好ましいと思う訳がないが、やめろと諫言して他の仕事を斡旋することも出来ない。といって、会うのを止めようとも思わない。一方マットは、薬物を勧めることは全くしないし、普段はその話もしない。馴れ合いが友人関係を支えていた。
給料が出た後など、私から申し出て勘定を持つことはあったが、マットから金銭的な負担を掛けられたことはなかった。それが私たちの奇妙な関係を長続きさせてもいた。
もっともマットは私が大学から貰う給料が、決して多くはないと知っていた節もある。
十一月の感謝祭を過ぎた土曜の夜、私は電話で彼女と口論になった。
話題は私が帰省するかどうかというものだった。アメリカでは新年を数日かけて祝う習慣はないが、クリスマス休暇があるから何とか日本で正月を迎えられる。いくら少ない給料でも、年末年始に日本に帰る飛行機代くらいは捻出できる。
しかし私は、彼女にハワイに来て欲しかった。私の暮らしている街を見てもらいたかった。加えて言うならば、全くの異国に一人でいる私の状況を、その目で見て慰めて欲しかったのだ。
「年末年始にハワイなんて、いくらすると思ってるの?」
あっさりと言ってのける彼女が、悲しかったと同時に腹立たしかった。自分はずっと同じ場所で同じ人間に囲まれているくせに、恋人の街へ旅行することも出来ないというのか。
「じゃあいいよ、こっちから行くのだって高いからな。帰らない」
彼女が返事をする前に、IP電話を切った。一分、二分、と彼女が電話をかけてくれることを期待したが無駄だった。代わりに今まで使っていたPCではなく、携帯電話が鳴った。
「よう、遼一。今、何やってんの?」
聞き慣れた声はマットで、私は思わず時計に目をやった。もう夜の十二時になろうとしている。いつも彼が電話をかけてくるのは夕方の早い時間と決まっていた。
「何って、今、彼女と喧嘩したところだよ」
思わず正直に言ってしまうと、間髪入れずに彼は電話の向こうで爆笑した。
「なんだよ、俺もちょうど飛び出して来たところなんだ。土曜の夜だってのにお互い情けないなぁ」
あまりに明るい笑い声に、私は少し気分が軽くなった。
「どっか行こうぜ。車で迎えに来てよ」
一人で悶々と部屋にいるよりは、マットと遊びに行った方がずっといい。彼女は携帯電話の番号も知っている。いいよ、と返事をして電話を切り、私は腰を上げた。