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新生イスパイア

 イスパイア占領後の最大の問題として挙げられたのが、占領軍についてであった。現状で日米が占領軍として出せる戦力は合わせて五個師団六万人でしかなかった。それで、イスパイア全土の占領統治が可能なのか、という問題である。さらに、直接の戦闘国であるローレシアの軍、一〇個師団一二万人を加えても、一八万人にしかならない。しかし、この世界では、というよりも、イスパイアではテレビを含めた映像メディアが発達していたこともあり、日米(実際は米国)の見積もりである五〇万人を遥かに下回る一八万人で可能であることが判明する。


 その最大の理由として挙げられるのが、軍事政権に対する国民の支持がまったくなかったことにあったといえる。実のところ、いくつかの軍事政権に属する軍が立てこもろうとした場所があったが、事前に占領軍の知るところとなり、制圧、武装解除されていた。これには地域住民の告発(悪く言えば、密告)があったためだとされている。つまり、国民の目が完全にもとの政府を見限っており、さらに、警察組織の活発な動きもあって、一部企業を除く国民のほぼすべてが占領軍を歓迎していたこともあり、予想以上に少ない占領軍の駐留で統治が可能だったということにあった。


 占領軍たる日米ローレシア軍はイスパイアの官僚や警察組織を占領統治に利用せざるを得なかったが、彼らは反発することなく、占領軍の指示に従っていた。その理由は、敗北直前までの軍事政権のあまりの杜撰さに、代わって首班の座についた首相や官僚は、自らの意思では改革どころか国の建て直しすら難しかったという側面があったようで、敗北、占領という、この機会にまとめてやってしまおう、という魂胆が見て取れるのも事実であった。


 結果からいえば、日米ローレシアの要求のうち、民主化と政治改革、軍の再編は予想以上に進むこととなったといえた。特に民主化においてはこれまでの絶対王政とそれに続く軍事政権に苦しめられてきた民衆がこぞって支持し、ほぼ第二次世界大戦後の日本と同様の展開をみせることとなった。政治改革においては、日本の議員政治の問題点を踏まえ、アメリカ型の二院代表制が導入されることとなった。軍の再編においては、日本は口出しすることなく、アメリカ主導で行われ、ほぼアメリカに準じたものとされた。ただし、陸海空三軍とされ、海兵隊の創設は禁止されることとなった。


 外交においては、日米主導で決定され、国連加盟各国との国交開設と通商条約の締結が行われることとなった。むろん、多くの場合、不平等条約ともいえたが、これは一〇年後に再協議されるということで日本が賛成している。そうして、占領軍の駐留は二年間、それ以後は監視のために、八年間の軍、おそらくは国連軍として、多国籍軍が一個師団駐留するとされた。これには多くの親王派政治家が存在するため、今後、再び絶対王政への移行を防ぐためであったといえる。


 また、根強く残っていた貴族階級においては廃止はされなかったが、その権限の多くは形骸化する方向に向けられたといえる。このあたりにも第二次世界大戦後に連合軍が日本に強いたのと同じ状態であるといえただろう。むろん、これらはアメリカ主導で実施されている。これまで日本が関与してきたシナーイ大陸北部各国ではそこまで強要されておらず、貴族階級が存在するからである。もっとも、多くの場合、政治に関与することができないようになっていたが。


 軍においては親王派の将兵は当面の間は予備役へと編入されたため、軍人による反発は当面は起こらないと判断された。こちらもほぼアメリカ主導であったが、日本も、第二次世界大戦中にあった派閥対立(陸軍での皇道派と統帥派との対立)のこともあり、賛同することとなった。ここでも重視されたのが、文民統制の利く軍への再編であったといえる。ただし、親王派の将兵の中にいた視野の広い優れた人材においてはその限りではないとされた。その中には既に瑠都瑠伊方面軍の手に落ちた二人も含まれていた。


 そうした結果として、新生イスパイアは日本に近い政治体制となったといえる。それは正しく、第二次世界大戦後の日本であったかもしれない。これまで貴族以外に高級軍人にしか付与されていなかった選挙権が二〇歳以上の男女に平等に与えられ、民主化へと進むこととなったといえる。もっとも、国法たる憲法の策定には日本国憲法が参考とされていたため、当然のことといえたかもしれない。


 当然といえるが、農地改革として、これまで貴族が所有していた土地が農業従事者に分配されることとなり、一挙に改革されることとなったが、これまで農作業に従事していたとはいえ、自ら進んで栽培作物の選定など未経験であったため、いらぬ混乱を招くこととなったといえる。ここでも、日本は人材を派遣し、それなりの対応を迫れれることとなった。むろん、あくまでも、政府、いわゆる官僚に対する指導であって、直接農業従事者と接触することはなかったといわれる。ここにも、日本が求める農産物を中心に決定され、イスパイア本来の農作物栽培を阻害するなどの問題が生じていたとされる。また、これまで各地の貴族が所有していた企業、その多くは軍需企業であった、民間に払い下げられ、その経営からはもとの貴族は排除されていたとされていた。


 国連において何よりも問題とされたのが、パーゼルの存在であったといわれる。元々がイスパイアの軍人が元になって興った国であったからであろう。国連としては、パーゼルのイスパイア軍人を祖国に帰還せしめることを強く要求していたとされる。しかし、当のパーゼルではイスパイアから見捨てられたという意識が強く、イスパイア本土への帰還を望むものは極めて少なかったといわれる。民間人はともかくとして、軍人同士では対抗意識が強く、関係は険悪であったといえるだろう。結局、国連から同地に調査団が派遣され、その結果として一年後に改めて協議するものとされた。


 ちなみに、その結果であるが、パーゼルにあるイスパイア人で、イスパイア国籍を放棄することで、パーゼルという国家の建国が承認されることとなった。結局のところ、元からの軍人の多くは同地において家庭を持ち、また、多くの混血児が誕生していたこともあり、本国に帰還せしめることが不可能であったこともその原因のひとつであったようだ。さらにいえば、中東での新たな問題発生より、そめ問題を解決するためにも、瑠都瑠伊の進言をこれまで受け入れてきたパーゼルの軍事力が必要だと判断されたことも大きな理由だといえた。


 ともあれ、いくつかの問題はあったものの、イスパイアにおける改革は進められ、貴族と一部軍人を除いて、急速に進んでいくこととなったのである。そうした自由をこれまで知らなかった一般国民が水を吸い込む砂のように、浸透していったことが原因であったといえるだろう。もちろん、多くの問題も発生していたが、それは徐々に解決されていった。そうして、駐留軍が監視軍へと変わるころには、それなりに安定していたといえるだろう。


 これにはイスパイアの敗戦が首都の一部、軍事施設の破壊のみで決定し、一般国民が状況を理解するころにはすべてが終わっていたことが大きいといえたかもしれない。そして、大都市への無差別爆撃などなく、軍事施設および軍備以外の機能がほぼそのまま残っていたことが大きな要因だといえただろう。国王が日本軍の保護下にあったことも終戦を早め、また、一般国民に負担を強いる強引な占領政策を行わなかったことも関係していたかもしれない。


 そうして、これらの多くの問題が早期に解決に向かったのは、下級官僚(日本でいえばノンキャリアにあたる)が強烈に改革を進めたこと、これまで、貴族の横槍でまともに機能することのなかった警察組織が貴族という箍が外れたことで、十分以上に機能し始めたことが大きいといえただろう。さらに、これまで、貴族に牛耳られることが多かった地方官僚の反発もあったといえた。


 最終的にはアメリカに準じた行政体となることとなった。この当時の日本も道州制を敷いていたが、イスパイアのそれはさらに進んだ、アメリカそのものといえるまでに似ていたといわれていた。地方の分割が容易に解決したのも、それまでの貴族領をそのまま州としたからであり、もとの貴族の権威によって大小あるが、そのあたりは無視されることとなった。結果的に、それが地方の団結心を強めたといえるだろう。


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