南米へ
南米東北部への進出(あえて侵攻とは言わない)は予定通り実施されたが、派遣された部隊は当初の予定とは異なっていた。今村としては、自身の子飼いともいえる第二一師団隷下の連隊を基幹とした部隊派遣を考えていたようであるが、いまや遊兵となった感のあるマダガスカル島の第三八旅団が派遣されることとなった。指揮官は第三八旅団旅団長の郷原良行少将であり、瑠都瑠伊系以外の、というよりも本国系派遣部隊が第一線に出ることとなった。この部隊の代替戦力としてトリスタン・ダ・クーニャ島攻略をなしえた部隊がマダガスカル島に移動することとなった。
ただし、この部隊の輸送と護衛には、瑠都瑠伊方面軍海軍が当たることとなった。今村にとっての懸念事項というのは、郷原がローレシア軍と折り合えるかどうかが気がかりであったようだ。郷原は一度瑠都瑠伊方面軍指揮下に入っていたが、元々は本国からの派遣であり、今村のよく知る人物ではなかったからである。今回の任務も本国からの指令によるもので、郷原自身が志願したものではない、その点が問題だと考えていたようであった。
今村自身は今回も瑠都瑠伊を出ることはかなわなかった。その理由は、トリスタン・ダ・クーニャ島で捕虜となったイスパイア帝国軍上級将校の事情事情聴取が瑠都瑠伊で行われていたからである。この事情聴取は瑠都瑠伊方面軍だけではなく、本国から将官三人を含む一二人が派遣されてくるほどのものであった。パーゼルのドレーズとは異なり、ドメッティ中将は紛れもない高級将校であったからだと思われた。いずれにしろ、本国がいかに関心を持っていたかという表れであっただろう。
とはいうものの、南米大陸(移転前でいえばベネズエラに相当)へは特に問題もなく実行され、何の抵抗もなく日本およびローレシア両軍合わせて一個師団強の規模、一万六〇〇〇人は上陸することとなった。日本側の施設大隊により、上陸部隊用の簡易居住施設の設置と平行して周辺一〇km圏内の確保がなされたのは上陸後二週間を経た後であったとされる。
瑠都瑠伊方面軍司令部に入った情報では、当地はほぼ無人の状態であり、西方および南方に原住民の居住している集落が存在するようであるが、この時点では接触はなされていないということであった。今回の主目的は周辺域、五〇km圏内の完全な安全確保と上陸軍を除く三万人程度が居住できる施設の設置にあったとされる。その後は、民間人による資源調査とその開発が予定されていたが、原住民との接触や予定域以外への進出は含まれてはいなかったのである。というのも、安全確保と居住施設の完成後は先に述べたように、マダガスカル島に移送された原住民主体の同地への入植が予定されていたからであった。瑠都瑠伊方面軍司令部としては、マダガスカル島の負担軽減のため、早い時期の彼らの南米大陸入植が望まれていた。
南米大陸上陸作戦が起案されたのはセラー半島での戦闘が終結してからであったとされる。捕虜となったイスパイア帝国軍兵士からのサンプルで、南米大陸には有害な病原微生物が存在しないだろう、という仮定の上であった。それまでのイスパイア帝国商人からは得られなかった情報が得られてからであったといわれる。当然ながら、トリスタン・ダ・クーニャ島で接触したイスパイア帝国軍人、とりわけ、原住民兵士からのサンプル採取によってさらに詳しく調査された上でのことであった。
瑠都瑠伊を含めて日本国ではこの世界に未知の病原微生物が存在しないのではないか(実際には一種類だけ検出されていたが、未知のものではなかった)、との考えが広まりつつある中、厚生労働省ではこれまで警笛を鳴らしていたが、マダガスカル島でもアフリカでもそれらは発見されていなかった。それでも、南米大陸では存在する可能性があるとして、注意するよう宣言はなされていた。というのも、この時点でも、十分な調査がなされたのはシナーイ大陸北部および東部、西部、北米大陸、インドネシア、フィリピン、ソロモン諸島などであった。ラーシア大陸東部や欧州部、南米大陸では十分な調査はなされていない状況であった。
移転後に移住した移民国家はともかくとして、日本では未だ国外に渡航する人間が少ないのはこのあたりに原因があるようであった。もっとも、少ないとはいっても、一九年初頭において、日本列島の人口は七〇〇〇万人ほどと減少し、四割超の人間が国外に移住していたといわれる。むろん、単純には比較できないが、日本列島では相も変わらず少子化が継続していたが、国外、波実来やリャトウ半島といった近隣地域、瑠都瑠伊では逆に多産化が進んでいるといえた。日系人(シナーイ大陸各国人と日本人の混血を含む日本国籍所有者)だけで八○〇〇万人近くに達していたといわれる。それは、日本人だけではなく、移民した国家でも同様であったとされる。
話しが少しそれたが、この世界では日本人も国外に出ることが多かったといえた。むろん、移民ではなく、一時的な商用で、という意味である。原因は単純明快で、言葉が通じる、その一点にあったといえた。そんなわけで、厚生労働省の警告も半ば無視される状態であるといえた。だからこそ、今回の南米大陸開発にも多くの民間人が志願していたといえる。ただし、彼らの要求のひとつに、その地域の安全、ここでいうのは他国人からの襲撃を受けない、という意味であって、病気や怪我などについてのものではない。というのも、移転前のアメリカと異なり、日本人は銃刀を持たないからであった。法律が改定され、正当な理由があれば、銃刀は所持できるが、そもそもがそのような経験が国内ではできないため、国外に出る場合でも、多くの日本人たちは丸腰で出ることが多かったのである。
今回も本国だけではなく、瑠都瑠伊や波実来から資源調査のため、多くの人間が現地入りすることになっていた。リャトウ半島のガス田が発見されたころから国内外を問わず、資源調査会社が乱立、熾烈な競争を繰り返していた。ちなみに、トルトイのウラン鉱脈を発見したのは、当時、社長を含めて社員が五人しかいなかった零細企業だったが、現在では社員数五〇〇人を数え、資源調査専門会社ではトップ三に入る大企業へと成長していた、も含まれていた。むろん、多くの企業がむやみやたらに調査している訳ではなく、移転前の資源情報を元に調査しているといえたが、これまで、ほぼ五割近い確率で資源が発見されているといえた。ウラン鉱脈発見はそうではない例の一つであった。
上陸地点ではなんら問題が発生することなく、八月には早くも予定された施設の八割が完成、民間人の受け入れが可能となっていたといえる。電気は大型発電機五基で賄われ、本格的な発電施設の完成までは当地の電気を賄えることになっていた。水は内陸の湖から引かれて上下水道が完備されていたが、ガスはローレシアから搬入されていた。少なくとも、上陸地点を中心に半径二kmの範囲でそれなりの生活が可能となっていたといえるだろう。その後は地域住民による開発が中心となる予定であった。
むろん、この間に近隣の原住民との接触もあったが、平和的に接触がなされたといえるだろう。そして、彼らからの情報収集により、有力な資源のめどが立ってもいた。それは鉄鋼脈であり、燃える空気であった。中でも、燃える空気が重要で、天然ガスあるいは気化した石油の可能性があった。仮に、天然ガスであれば、現地でのライフラインが現地の資源で可能なことを意味する。もっとも、天然ガスであれ、石油であれ、産出が確認されてから施設が完成するまでには早くて一年半、現地で利用できるまでに最低でも二年は必要だと思われた。それでも、ある程度の見通しが立つこととなったのは、日本、というよりも、瑠都瑠伊にとっては喜ばしいことであったといえるだろう。なにしろ。二万八〇〇〇人にもおよぶ捕虜への投資額が軽減することとなったからである。
そうして、八月半ばには順次捕虜の移送が始まることとなった。むろん、無条件で、というわけではなく、捕虜に対する十分な説明の後に実施されることとなった。驚いたことに、五〇〇〇人近い捕虜が南米大陸東北部への移送を望まなかったとされる。一部の捕虜、南米の故郷でイスパイア帝国軍に家族を殺され、天涯孤独の身となった兵士たちはマダガスカル島での生活を継続することを望んだといわれる。彼らにとっては、マダガスカル島での生活はそれまで以上に恵まれたものであったということになるだろう。とはいうものの、瑠都瑠伊にしてみれば、捕虜としての、いわば、お客さん扱いをしていた面があり、純粋に住民として生活していけるかとなるとまた別問題であったといえるだろう。
結局、すべての捕虜の移送が決定され、何年か後に希望すれば、マダガスカル島への帰還が認められ、さらに、帰化すれば、日本国籍が与えられるものとされた。二万八〇〇〇人という人数がどれほどのものかといえば、ベーネラ(上陸した地域の近隣の原住民がその地域をこう呼んでいたことから命名された)の初期開発には十分な人数だったといえる。僅か三ヶ月とはいえ、それなりの技術と経験を身に付けていたことで、開拓民として十分な人数であったといえるだろう。
事実、その後の三年間で瑠都瑠伊の予想以上にベーネラの開発が進んだことがその表れであるといえた。さらに、周辺の原住民を取り込み、ベーネラの定住人口は一〇万人近くに達していたのである。その当時、天然ガスによる火力発電所が完成、いわゆる自給自足が可能であったとされる。むろん、天然ガスや鉄鉱石、ボーキサイトといった資源は瑠都瑠伊やローレシアに輸出され、初期投資分の費用は半額が回収されていたといわれ、今後は外貨獲得が可能であり、国家としての独立が可能だと考えられるまでになった。現地駐留の軍人を含めれば、一二万人、日本やローレシアの民間人を加えれば、一六万人に達していたのである。そうして、マダガスカル島への帰還を望むものは一人としていなかったという。
港湾設備も整い、ローレシアやロンデリアからの大型貨物船の入港も増えつつあった。そうすると、現地住民にとっての関心ごとは、イスパイア帝国の侵攻ということになっていった。幸いにして、陸上での接触はないものの、海では幾度かイスパイア帝国の軍艦や潜水艦らしきものが確認されていた。しかし、日章旗や旭日旗、五極旗(ローレシアの国旗)を確認すると、離脱していき、ベーネラ駐留海軍も追跡することはなく、戦闘になることはなかった。このころにはイスパイア帝国の内情が幾分か明らかになり、その対応が若干の変更をもたらしていたといえるからであった。