トリスタン・ダ・クーニャ島
この世界のトリスタン・ダ・クーニャ島は先にも述べたように火山島ではないが、それ以外にも相違点は存在したといえる。島の形は移転前と同じようにほぼ円形であった。島の周囲には環礁があるが、その高さは平均海抜二mで東に外洋に続く通路がある。島の周囲は平均六〇mの絶壁になっているが、南に半径一kmほどの湾があり、島ではここだけが海抜四mで唯一の港湾といえる。島のほぼ中央部には標高四五〇mの山があり、その西には荒れた岩だけの土地があり、それ以外の地域は草原であった。その草原の北のはずれに二五〇〇mほどの滑走路が存在するのが、衛星情報で確認されていた。
とはいうものの、大まかな情報でしかなく、派遣軍の長である安西少将はより詳しい情報を望んでいた。そこで、航空母艦『しょうかく』と「こんごう」型イージス巡洋艦を派遣、艦載機による偵察が行われることとなった。これはローレシアのサウスタウンからみても二〇〇〇km(移転前ではケープタウンから約二八〇〇km)離れているため、陸上機による偵察が難しいためであった。ローレシアの機体で可能なものが存在するが、偵察用機器、カメラなどの性能が低く、十分な情報が得られない、そう判断したためであろうと思われた。また、航空機自体が鈍重な爆撃機であるため、迎撃機に対する対処が不可能であったことも理由であろう。
偵察は新世紀一八年一二月二五日に実施されることが決まった。合わせて、年明けにも侵攻作戦が開始できるよう、準備が進められていた。これは瑠都瑠伊方面軍だけの作戦行動ではなく、ローレシア軍との共同作戦であるため、それなりの準備が必要であったからであろう。当初の空母艦載機による空爆だけではなく、ローレシア空軍の爆撃機が加わることとなり、さらに、戦艦部隊が加わるためであったようだ。
しかし、この艦載機による偵察で思いもかけない事実が判明することとなった。その発端はトリスタン・ダ・クーニャ島に一〇〇〇kmまで近づいた『しょうかく』から発進した早期警戒管制機E-2C<ホークアイ>が同島からと思われるSOS電波を捉えることとなったからである。むろん、世界が異なれば、発信電波の意味も異なる可能性があるが、その電波はインド洋で初めてイスパイア船籍のタンカーが発信していたものと同じであったのだった。
瑠都瑠伊方面軍海軍を率いる大田少将は、念のためと、予定通り偵察機を発進させ、当初予定の高高度からではなく、低高度からの偵察を行わせることとなった。さらに、予定では四機であったが、これを八機と増やし、うち四機は対空装備で護衛とした。そして、<ホークアイ>をトリスタン・ダ・クーニャ島から一六〇kmまで進出させ、艦隊も三二〇kmまで進出させている。むろん、参謀からは危険視視する声も挙がったが、あえてそれを実行したのである。
「島中に白旗が上がっている?」瑠素路の方面軍司令部司令官室で棟方少佐からの報告を受けて鸚鵡返しに今村がいった。
「はい、閣下。安西少将からの報告では、島中に白旗が掲げられ、SOS電波が発信されているとのことで、現在、無線での対話を試みているとのことです」
「ふむ、港湾には船舶は?」
「確認できない、とのことです」
「船舶が確認できない?おかしいな」
「大田少将からは港湾への接近を具申されているようですが」
「それはだめだ。原因がはっきりするまでは許可できないよ。疫病の発生ということもありえるからね」
「では?」
「安西の部隊から一個中隊を対ABC装備で派遣するしかないな。たしか、『ぼうそう』にはその装備が搭載されていたはずだ。そう命令してくれ」
「はい、すぐに」そういって棟方少佐は司令官室をでていった。
しかし、その後、今村の元に続報が入ることとなった。無線による対話の結果、本国から見捨てられ、食料の補給が途絶え、島内にいる四万三〇〇〇の兵が栄養失調であり、既に二〇〇〇人が死亡しているという。そして、降伏するので、人道的な処置を要求しているとのことであった。
それでも、今村は艦艇の接岸許可を出すことはなく、代わりに、対ABC装備の一個中隊を可能な限りの食料を満載したローレシア空軍の輸送機C-10<カーゴラン>で派遣することとされた。また、ローレシア陸軍も一個中隊の派遣を決定していた。C-10<カーゴラン>は同国の戦略爆撃機であるB-30<ボマー>の派生タイプで、完全装備の歩兵を三〇〇人搭載することができ、航続距離が六〇〇〇kmあるが、今回は食料と医薬品を搭載しているため、一個中隊一一〇人のみの搭載となったのである。万一に備えて、『しょうかく』の航空隊が護衛として派遣されることとなった。
しかし、今村の心配は杞憂に終わることとなった。輸送機で現地入りした中隊長の安曇良一中尉に対して、彼らイスパイア帝国陸軍第四軍は毅然とした態度で接し、正式に降伏を申し入れたという。素直に武装解除に応じ、食料の配布には理路整然と対応したという。重傷者、といっても怪我ではなく、栄養失調で生命に危険があるものも多数いたことから、安西少将は空路による食料輸送を続けざるを得ない状況であったともいう。四万三〇〇〇人に対して航空輸送では不足していたことがわかったからである。さらに、ローレシアで貨物船を提供してもらい、海路での食料と医薬品の輸送を始めるが、こちらは到着まで時間を要するため、という理由もあった。
一連の事態が収拾したのは新世紀一九年一月も終わりになってからであったという。年明け早々には安西も現地入りし、陣頭指揮を執っていたという。その結果として、今回の事態の真相が明らかとなってきたのである。身柄を拘束された四万三〇五六人のうち、純粋にイスパイア帝国軍人は一万五〇〇〇人、残りは南米大陸の原住民であることが判明している。そして、第四軍最高指揮官を含めて司令部要員は島を脱出、残った軍人の最高位者である第一三四師団師団長のネルロン・ドメッティ中将が指揮を執っていたという。そのドメッティ中将は安西の事情聴取になんら隠すことなく、知る限りのことを話している。
それによれば、予定されていたローレシア侵攻作戦が不備に終わったことで、本国では戦略の転換が計られ、トリスタン・ダ・クーニャ諸島を含めた南大西洋の島嶼地帯の放棄を決定、イスパイア帝国軍人は引き上げる予定であり、原住民からの徴兵兵員は放置を決定したという。しかし、トリスタン・ダ・クーニャ島に残された一万五〇〇〇人に対する引き上げ船団は往路の途中で潜水艦の攻撃を受けて沈没、その後は船団派遣が途絶えたという。島に残った多くは原住民主体の兵団であり、本国は放置を決定した旨の通信を最後に、彼らの要求には応じることはなかったという。そういうわけで、彼ら第四軍はローレシアに対する降伏を決定したものの、その後、ローレシア軍が現れず、これまでここに孤立していたという。
とはいうものの、この小さな島に四万三〇〇〇人を養う能力はなく、それをどうするかという問題が残ることとなった。安西や大田には解決の方法がなく、瑠都瑠伊方面軍司令部に指示を請うしかなかった。安西や大田が考えていたのは、捕虜をローレシアに引き渡すことであったが、ローレシア側もよい顔をするはずがなかったのである。
瑠都瑠伊方面軍司令部でも頭を悩ませたが、たまたま司令部に顔を出していた第三六師団参謀の向島中佐がカラーチへの移送案を出したのである。それに対して、今村はイスパイア帝国軍人はよいとしても、原住民から徴兵された兵士たちについては問題が発生する可能性が高いことを指摘する。対して、八原主席参謀から原住民から徴兵された兵士については、ひとまず、マダガスカル島へ移送し、労働に付かせること、今後発生するであろう南米大陸侵攻作戦において志願者あるいは全兵士を南米に送り返し、確保した地域での労働なり、兵役に付かせればよいのではないか、との案が出されることとなった。
カラーチのドレーズ少将も当初は渋っていたが、最高責任者として考えた場合、労働力ともなるし、あるいは兵力として採用することも可能であることを指摘され、さらに、今後は軍を退役して政治家に転進すれば、階級が上の軍人であっても、命令を下せるだろう、との向島中佐の指摘により、受け入れを決定することとなった。つまり、この時点でドレーズがほぼ軍から退いており、統治者として動いていることを指摘されたのである。これは、幾度かカラーチを訪れている向島だからこそ知っていたことであろうと思われた。
そうして、一月末には瑠都瑠伊方面軍から抽出の一個大隊が駐留し、さらに、セーザンから対潜哨戒機部隊六機が飛来、瑠都瑠伊から駆逐艦二隻が派遣されて駐留することとなった。ローレシアから建設会社関係の民間人が派遣され、島内改修にあたることとされた。とはいうものの、瑠都瑠伊からの派遣軍は先の一個大隊のみであり、それ以外は駆逐艦の乗員や対潜哨戒機の乗員などすべてローレシア海軍軍人があたることとされていたのである。いうまでもなく、これはロンデリアに対する備えであった。軍人が約五〇〇人程度であれば、民間人を加えても二〇〇〇人程度は自給自足できるはずであった。むろん、軍需用品や工業製品は輸送せざるを得ないが、食料はそれくらいの人数なら賄えるはずであった。