介入へ
新世紀一八年一〇月一五日、瑠都瑠伊方面軍が予想し、恐れていた、日本政府や日本軍上層部が予想だにしていなかった事件が発生することとなった。ローレシアのポートマリー港を出港した瑠都瑠伊汽船の貨物船『常盤丸』(二万五〇〇〇トン)がノーフォークに向かう途中、南大西洋アフリカ沿岸でイスパイア帝国軍機の攻撃を受け、撃沈されたのである。
通常、北アメリカ大陸に向かうには地中海を通過するのであるが、『常盤丸』はローレシア向けの貨物も積載しており、ポートマリー経由でノーフォークへと向かっていたのである。乗員も船会社もその危険性は十分に承知していたが、依頼主である日本本国の企業は十分に理解しておらず、輸送コストの面から南大西洋を北上することを譲らなかったといわれる。こういった場合、瑠素路で地中海経由のノーフォーク便とローレシア向けの便とに積替えするのであるが、運用コストの面からそれを嫌ったものと思われた。
結果として、日本人船長および二等航海士が死亡し、その他にキリール人三等航海士、ウェーダン人船員五名が死亡した。助かったのは日本人一等航海士とキリール人船員四名、ウェーダン人船員三名だけであった。ちなみに、この船長はよほど予感があったのか、あらゆる航海記録を船会社に送っており、攻撃を受けた当時の映像記録も衛星通信で送り、マスターデータも航海士すべてに持ち出すよう指示していた。その結果、映像によって確固たる証拠が残されていたといえる。後に、船会社はこれを基にして依頼企業から損害賠償を勝ち取っている。逆に依頼企業は業績不振にいたることとなった。
しかし、ことはそれだけでは済まなかった。日本船籍の船で日本人および友好国であるキリール人やウェーダン人が死亡したことで国際問題となったのである。これが日本人だけの乗員であれば、対応にある程度の日本政府の意思、たとえば、抗議するだけとかそういうことも許されたかもしれない。しかも、民主党現政府はそれをやろうとしたものの、キリールとウェーダンからの突き上げを受けることとなった。さらに国民からの批判も相次ぎ、結局解散総選挙まで追い詰められることとなった。
そうして、新たに誕生した自由党政権はそのマニフェスト通りに、対イスパイア帝国に対しては強硬路線、それは南原英夫元総理大臣以来の軍事による解決策をとることとなったのである。このときの総理大臣は父親が自民党時代にライオンヘアで名をはせた総理大臣の息子であった。彼は就任するとすぐにもっとも現場に近い瑠都瑠伊方面軍司令部に詳細な調査と可能な限りの準備に入るよう指令している。
シナーイ大陸北部諸国や西部諸国、中東では、軍神今村動く、として各メディアに取り上げられている。それほど、今村俊彦陸軍中将の名前はこれら地域に知られており、有名人であったといえる。なにしろ、これら諸国の建国や政治改革に彼が関わらなかったことがないということが知られていたからである。なかでも、ウェーダンではよく知られているのは、彼の妻がウェーダン人であったからであろう。
瑠都瑠伊方面軍司令部では、救助された八名の事情聴取を再度行うとともに、彼らを救助したローレシア沿岸警備隊の担当者からも事情聴取を実施していた。さらに、南大西洋のセントヘレナ島、アセンション島、トリスタン・ダ・クーニャ諸島、中でもトリスタン・ダ・クーニャ諸島への攻撃および侵攻が準備されることとなった。これは、ローレシアへの攻撃が主にこの諸島から行われていたからであろう。ちなみに、先の『常盤丸』攻撃はセントヘレナ島から行われたものと考えられていたといわれる。
何度も述べたように、実のところは瑠都瑠伊方面軍司令部では既にトリスタン・ダ・クーニャ諸島への侵攻準備はある程度まで整えられていた。そのため、これらの行動は日本政府、というよりも、本国軍上層部に対するカモフラージュであった。表面的にはこれらの準備は日本本国軍上層部には知られていなかったからである。
それほど、この世界では日本本国と瑠都瑠伊との紛争に対する危機意識や行動に相違があったといえる。これは何も軍や政府に限ったことではなく、一般住民においても同様であったとされる。多くの場合、瑠都瑠伊の各種メディアの報道に対して、日本本国では過激すぎる、との批判がなされていたのである。これは特に南原政権が任期満了で終わってから目立ち始めていたといえるだろう。
こうして、瑠都瑠伊での戦争に対する介入準備は進められていくこととなった。これまで、表立ってできなかった海軍艦艇に対する準備はおおっぴらに進められることとなった。また、本国から回航されてきた輸送艦二隻に加えて、ローレシア航路に就航していたものの、ローレシアとイスパイア帝国との開戦によって運航を停止していた大型客船四隻が徴用され、兵員輸送に充てられることとなった。輸送艦だけで四個大隊規模と各種装備、客船で一個連隊強、合わせて一個旅団規模の兵員輸送が可能となる。
客船徴用については、元々日本軍には強襲揚陸艦といった艦種は装備しておらず、まとまった兵員の輸送には民間船舶の徴用が必要であったからである。国連、特に英米仏は最低でも一個師団規模の軍が移動できるだけの輸送艦を装備するべきだとしていたが、日本政府はそれを必要なしとして拒絶していたのである。計画としては六隻であった輸送艦が四隻だけ装備されているのは、南原政権時代の予算決定の結果であり、残る二隻は南原の後の政権によって中止されていたのである。
そうはいうものの、これはあくまでも最大輸送量であり、ローレシアへの輸送に使用されるものであった。この時点で、侵攻の拠点となるローレシアへの移動であり、そこから各所に分派されることになっていたといえる。現実問題として、想定されている上陸作戦が島嶼であることから、師団単位や旅団単位の兵員輸送は必要ないと考えられていた。つまり、輸送艦一隻で輸送できる二個大隊で十分可能だと思われていた。むろん、海上および航空支援があってのものであった。
さらに、航空母艦『しょうかく』と「こんごう」型イージス巡洋艦四隻、汎用駆逐艦八隻(うち四隻は輸送艦とともに本国第四艦隊からの派遣)と一個機動部隊の準備もなされることとなった。これで、瑠都瑠伊に残るのは汎用駆逐艦八隻、海上保安隊の巡視船のみとなる。とはいうものの、「むらさめ」型駆逐艦四隻はセーザンとセラージに分派されているため、瑠都類に残るのは「たかなみ」型駆逐艦四隻と巡視船のみであった。
今村としては瑠都瑠伊方面軍海軍全力を動かしたかったわけであるが、プロリアやグルシャという存在がある以上、瑠都瑠伊を空にするわけにもいかず、また、カラーチのイスパイア帝国軍が在る以上、セラージの二隻、精製油の積み出しの多いセーザンの防衛力も必要であり、これら地域の戦力を動かすことが不可能であった。
同じことは陸軍にもいえた。この時点で、セラージには一個旅団、セーザンには一個旅団が配備されていたため、瑠都瑠伊方面には二個師団があった。そのうちの一個旅団が派遣部隊とされ、残る一個旅団は予備部隊となるため、瑠都瑠伊近郊で軍事行動を取れるのが、一個師団のみとなる。さらに、マダガスカル島駐留部隊が一個旅団存在するが、これは基本的に本国からの派遣部隊であり、指揮下に入っているとはいえ、動かすには本国の許可が必要であった。しかし、こちらはアフリカや南米の大陸に上陸するわけではなく、小さな島への上陸であるため、航空支援や海上からの支援があれば、大隊規模で十分であろう、と今村は考えていた。
こうして、新世紀一八年一一月には陸海ともに準備が完了することとなった。とはいうものの、日本政府も簡単に介入にゴーサインを出せるわけでもなかった。その理由は、介入すれば、イスパイア帝国軍がセーザンやセラージに攻めてくる可能性があったからだと思われた。瑠都瑠伊方面軍海軍を動かすということは、攻めてくるイスパイア帝国海軍艦艇に対する備えが薄くなるということであったからであろう。