静観の理由
改「むらさめ」型「あぶくま」型両駆逐艦やミサイルなどの軍事物資を供給していた日本であったが、セラー半島の戦い以来、日本とイスパイア帝国との間は緊張状態にあるものの、戦闘は発生しておらず、また、日本もあえて南大西洋まで進出することはなかった。さらに、ローレシアとは連絡が密になされてはいたが、もう一方のロンデリアとはそうではなかった。つまり、その行動を把握することが難しかったといえる。
日本からの軍事物資、その多くは瑠都瑠伊で生産されたものであり、瑠都瑠伊からローレシアへの輸送となるもので、どちらかといえば、日本本国は直接関与することはなく、報告を受けているのみであった。当然として、ローレシアの各港湾に瑠都瑠伊の貨物船が向かうこととなり、ある程度の危険性を持つものであったといえる。むろん、ローレシア西部の港湾は避けられ、東部の港湾に集中することとなった、航路としては、セーザンからアフリカ大陸沿岸沿いに南下し、マダガスカル島の西を通過することとなり、危険を避けるための努力はなされていた。
ローレシア側も瑠都瑠伊の貨物船が入港あるいは出港時の前後数時間は沿岸警備部隊を出し、貨物船の安全を図る処置を取っていた。それは積載貨物の重要性を物語るものであったといえる。その多くがミサイルなど誘導兵器であり、精密機械といえるものであったからだ。今のところ、ローレシア側でそれを生産することは不可能であったからである。二四時間体制で生産しているとはいえ、まだまだ不足している状態であったからだろう。このころには、銃弾や砲弾といった一部弾薬類は日本からの技術導入、多くは工業機械や設計図といったものだった、により、生産可能であったが、誘導兵器の頭脳である電装品の多くは未だ生産不可能であった。
日本としても、セラー半島での戦闘が終結した以上、あえてイスパイア帝国に対する戦闘は行う意思はなかった。セラー半島の場合、セーザンやセラージといった拠点があったが、イスパイア帝国に対する直接攻撃にはこれといった拠点がないからである。移転前の地図を見ても判るように、日本から南大西洋は遠すぎるのである。さらにいえば、その場合は陸軍ではなく、海軍が矢面に立つこととなる。GPSが完全に稼動するかどうか不可能である以上、艦隊運用が困難であり、装備する艦艇の多くはかっての第二次世界大戦時のそれよりも航続距離は短いため、より艦隊運用が困難となる。
ましてや、日本海軍は第二次世界大戦以来、南大西洋はおろかインド洋での戦闘行動の経験がないのである。移転してからの装備はアメリカ型のものが主流とはいえ、各種艦艇、特に航空母艦の運用経験は訓練でしか経験がないのである。最も近いマダガスカル島を拠点にしたとしても、六〇〇〇kmもの航行が必要となる。仮にローレシア西部を拠点化したとしても、二〇〇〇kmもの距離があった。イスパイア帝国本国である南米となると、補給物資がどれほど必要か判らないといえた。日本がイスパイア帝国に対する宣戦布告を行わないのにはこの点にあるといえただろう。
この当時の日本海軍はラーシア海や地中海、紅海、北太平洋ではハワイ以西、西太平洋ではインドネシア、インド洋では北部を想定した軍備でしかないといえる。むろん、イスパイア帝国の存在とその国情を知ってからは若干の再編が行われ、現在でも継続中であったが、移転前の米国のように世界に軍を派遣できる体制ではないのである。日本近隣が安全であるとはいえ、海軍の半数を派遣することなど到底不可能であるといえた。
もしも、日本海軍が南大西洋に介入するとすれば、戦闘艦艇で二個艦隊、補給艦や輸送艦など補助艦艇は七割が投入されなければ、戦いに勝てないだろう、そういわれていたのである。陸軍でも、三個師団、しかも完全充足の部隊が必要であろうと考えられていた。そして、敵地、つまり南米大陸上陸制圧ともなれば、陸海空軍のほぼすべて、三○万人を投入しても不可能であろう、そう考えられてもいた。
いずれにしろ、日本単独では到底不可能であったといえる。むろん、日本とともに移転してきた軍事力、在日米軍すべてを用いたとしてもである。唯一の可能性は、ローレシア軍およびロンデリア軍との連合軍形成であったかもしれない。もうひとつ、技術的格差というものを加味すれば、ローレシア軍との二国連合でも可能であったかもしれない。しかし、ローレシア軍側も未だ準備不足であり、いま少し時間を要すると思われた。
日本としては戦闘による解決を望んでいるわけではない。否、対話による解決を望んでいたといえる。しかし、セラー半島での戦闘発生以来、対話の窓口がなかったのである。カラーチのイスパイア軍は既に本国とは切り離されており、彼らとて本国との連絡が途絶えている状況では、対話すら成り立たない状況であったといえる。この点、前知事の佐藤が商館設置を断った負の側面が出ていたといえるだろう。
しかし、瑠都瑠伊方面軍司令部では、いずれは戦闘による決着が必要であろう、という意見が多かったといえる。なぜなら、現状では石油が産出しているのはこの世界では中東だけ、むろん、波実来やサリル、ストール、マガダンといった地域で産出しているが、南米大陸から最も近いのは中東であった。ゆえに、戦闘にはガソリンや重油が必要である以上、備蓄がなくなったイスパイア帝国軍は必ず中東に攻めてくるだろう、そう判断していた。
もっとも、瑠都瑠伊方面軍においても、日本軍上層部や日本政府も奇襲を受けることはないだろう、そう判断していたといえる。移転前の第二次世界大戦時のように、レーダーが一般的ではない時代ではなく、レーダーを含めて電子技術が発展している現在、注意を怠らなければ、探知できるであろうとしていたからである。ちなみに、偵察衛星により、南大西洋でのイスパイアおよびローレシア、ロンデリアの軍事行動の一部が日本軍上層部では把握されていたといえるだろう。
そういうこともあって、日本としては静観するしかなかったといえるだろう。やはり距離がありすぎた、それが最大の問題であった。シナーイ大陸での陸戦はともかくとして、海軍は専守防衛に徹していたため、侵攻準備が十分ではない、そういえた。瑠都瑠伊方面軍海軍にしても、防衛作戦は多く練られてはいたが、侵攻作戦はほとんど考えられていなかったといえる。
これまでは、侵攻作戦あるいはそれに近い作戦として考えられていたのは、カラーチのイスパイア軍に対するもの、ロシアの移住地、プロリアに対するものであって、その他はそれぞれの移民地域の防衛についてのものであった。カラーチのイスパイア軍のそれは再侵攻を防ぐためであり、ロシアの移住地においてはあまり統制の取れた情報が入ってこないためであり、プロリアに対しては、クーデターなどの問題があり、攻撃を受けた場合の逆侵攻作戦であったといえる。いずれにしても、机上のものであり、真剣に検討されたものではなかった。その理由は彼我の軍事力の差にあったといえる。