航空輸送
このころ、瑠都瑠伊に進出していた航空機製造会社が共同開発した機体があった。ARB5-200という旅客機である。日本本国では三菱が生産するMRJ各種が運用されていたが、移転前に国際線で多く運航されていたB-767などと比べると、航続距離がどうしても足りないといえた。最大のMRJ-200でも六〇〇〇kmほどであった。元々MRJシリーズは近距離航空輸送を主目的として開発されていたため、長大な航続距離を必要としなかったこともあるが、現状ではこれ以上の航続距離延長は不可能であったといえる。
対して、瑠都瑠伊ではアフリカ大陸南部のローレシアや欧州西北部のロンデリアへの航空輸送が増大しつつあった。これら二国への乗り入れには最低でも八〇〇〇kmから九〇〇〇kmの航続距離が必要であった。瑠都瑠伊に進出していた航空機製造各社への依頼もあったが、現状では商業的に無理があるとして日本本国の本社が開発を許可しなかった。そこで、瑠都瑠伊に興った瑠素路重工が航空機製造各社に協力を要請して機体開発に乗り出した。そうして完成したのが先に述べたARB5-200であった。
むろん、旅客機の開発はそう簡単にできるものではない。そこで、既存の情報から、ベース機を選び、それに似せた機体を開発することになったという。その理由は開発が急がれたことと米国に対するライセンス料の支払いを避けるためであったようだ。そして、現物が存在したB-767をベース機にした四発の機体が完成することとなった。四発になったのは、当時、日本にあった国産航空機エンジンでは双発とすることが不可能であったからであったとされる。
その諸元は次の通りであった。全長四八.六m、全幅四七.六m、全高一四.六m、自重八万九八九〇kg、最大離陸重量一八万○四六○kg、最高速度八九○km/h、巡航速度七八六km/h、上昇限度一万三〇〇〇m、航続距離一万二○〇〇km(最大重量時)、エンジン瑠素路重工CF2-RE-120ターボファン×四基、推力一万二〇三〇kg×四、座席数二〇〇~二四〇というものであった。機体、特に胴体の外観をみてもB-767と似ていたが、径の小さいエンジンを四基搭載していることで全体の外観は大きく異なるといえた。
この機体は瑠都瑠伊の航空会社で採用され、運航が始まった。多くの場合、瑠都瑠伊~マダガスカル島間、瑠都瑠伊~ローレシア間においてのものであった。そもそもが、この二箇所との運航がメインで、ロンデリアは二の次であったようだ。そうしてすぐにこの機体が優秀機であることが判明する。MRJベースの空中給油機に不満を持っていた瑠都瑠伊方面軍空軍司令部では早速この機体を改造した空中給油機を発注している。日本本国でも、老朽化の激しいE-767やKC-767の代替機として注目されることとなった。もちろん、無給油で日本本国~瑠都瑠伊間の運航が可能なため、航空輸送各社からの受注が相次ぐこととなった。米国や英国でも採用が決定している。
とはいうものの、製造ラインがひとつしかないため、製造数が少ないこともあり、既存の軍用機、P-3Cベースの改造機はそのまま使用されているが、一部、P-3C-AWACSがローレシアに売却された理由もここにあったといえる。後継機のARB5AWACSが完成したからである。国土交通省の認可が下りると最初に改造されたのがこれであったからであろう。結局のところ、この世界でも、もっとも優秀な旅客機といえるのがARB5-200ということであった。
ARB5-200の成功がそれまで無名(日本本国やその近隣国家で)だった瑠素路重工を世に知らしめ、企業クラスでは中小企業であった同社を一躍大企業へと成長させることとなったともいえるだろう。つまり、同社は賭けに成功したといえるのである。むろん、失敗していれば、それこそ、二度と立ち上がれないほどの損失を出していたかも知れないのである。
そうして、新世紀一八年夏には、ARB5-200を用いた民間人の瑠都瑠伊~ローレシア間の移動が可能となっていたのである。もっとも、護衛戦闘機が随伴できないため、安全とされる空域のみにおいてのものであった。ローレシア~マダガスカル島間の移動に関しては既存のMRJでも可能であったが、セーザンからマダガスカル島までは過荷航行が難しいため、現状では人や物の移動は船舶に頼っていた。それを一挙に解決したのがARB5-200旅客機の登場であったといえる。
他方、ロンデリアではボーイングB-707に似た四発の機体を有しており、航続距離九〇〇〇kmの旅客機を有していた。この機体は現在も、ロンデリア~瑠都瑠伊間を運航していた。とはいえ、電装関係が日本に比べて劣っているため、安全上に問題があると判断されていた。もっとも、だからこそ、GPSのないこの世界でも運航が可能であったといえるだろう。
ローレシアにおいては、やはり、八〇〇〇kmほどの航続距離を持つ機体が存在していた。しかし、移転前との環境が違いすぎるため、こちらも安全性が低く、定期運航には問題があるとされていた。運航高度が移転前には五〇〇〇mであったのが、この世界では倍の一万mまで可能であったが、機体内の与圧などに問題があった。結局、日常的に八〇〇〇~一万mを飛行する日本では使用不可能であったとされる。
ちなみに、この世界では未だGPSが移転前ほど使用できない状態であった。日本はそれを成し遂げようとしていたのであるが、相次ぐ世界問題で先送りされていたのである。つまり、移転前の日本の宇宙技術ではGPS構築が不可能という理由ではなく、未だ日本の影響のおよばない地域があることで、完全なGPSの構築に問題があり、なしえていなかったということであった。いずれにしろ、地上電波局(ロラン-C)と幾つかの航法衛星を利用しての運航であり、この面では移転前よりも若干の退化をしているといえるだろう。
この不完全ながらも、衛星航法運航はシナーイ大陸北部および西部、太平洋では構築されており、一応の安全運航が可能であった。太平洋各国ではその政府が行っていた。ウェーダンやキリール、ウゼル、カザル、トルシャール、瑠都瑠伊、トルトイ、ナトル、サージア、セラクで設置、当初は日本からの人材派遣であったが、現在では各地の政府に委託されている状態であり、地上局の人員は瑠都瑠伊で一年間の教育を受けることが義務付けられていたのである。
現在は一時停止しているが、ローレシアでも設置工事が進められていた。こちらは元々が似たようなシステム(地上局を利用した航法)が存在していたため、若干の変更で可能だと判断されたからである。しかし、対イスパイア帝国戦争が勃発したため、現在は発信が停止されている。イスパイア帝国側に利用されることを恐れたためであった。そういうわけで、マダガスカル島までは安全運航が可能だとされ、そこから先のローレシアに向けては航空輸送は制限されているといえた。だからこそ、現状ではマダガスカル島まではローレシア側航空機が、そこから先は瑠都瑠伊側が航空管理をしている状態であった。
対して、ロンデリア方面はというと、地中海沿岸、北大西洋沿岸、北海沿岸に地上局が設置され、慣性航法と地上電波局を利用しての運航であった。そのため、よく航路から外れる事故が起きている。幸いにして、現在のところは墜落事故は確認されていない。前にも述べた、瑠都瑠伊までは日本側が、そこからロンデリアまではロンデリア側が担当するという取り決めはそういう理由があったといわれている。
元々、これらの航法衛星は日本近隣の海洋航行の安全性確保のために進められたものであり、現在では太平洋やラーシア海、インド洋、ペルシャ湾、紅海の安全運航か可能となっていた。それを航空航路にも使おうとしていたわけで、航法衛星を管理する地上管理局が設置できないための不完全であったといえるだろう。少なくとも、ロンデリアで使用されている慣性航法装置と地上局の組み合わせによる運航よりも安全性が高いといえたのである。
むろん、日本本国でも同様の機体の開発はされており、原型機は完成し、それなりの性能を見せていたという。しかし、機体価格が高価で航空会社各社は導入に踏み切れないでいたとされる。その点、ARB5-200の場合、製造価格が日本で開発されたそれよりも五割近く安価であり、性能的にも遜色のないものであったため、日本本国で開発された機体とは競争にならなかったといわれている。これは、瑠都瑠伊が日本本国より人件費が安かったこと、製造に必要な資材が安かったことに関係しているとされた。
ARB5は後に長銅タイプの300が追加され、航続距離が伸び、客席数が三〇〇~三四〇席のタイプも生産されている。こちらは旅客機専用とされ、軍事用には使用されることはなかった。そして、顧客は日本と米国、英国、ローレシアであった。中華民国や朝鮮民国、インドネシア、ブラジル、フィリピンでは、P-3Cを改装したレシプロ旅客機やC-130を改装したレシプロ旅客機を運航していた。これら地域ではジェット旅客機よりもレシプロ機が好まれていたためであった。利用者がそれほど多くなかったこと、運航コストを低く抑えるため、さまざまな自然環境が影響していたといわれている。
とはいうものの、現状での運航は瑠都瑠伊から日本本国、日本本国近隣地域、東太平洋に限られていた。対イスパイア帝国戦争が始まっており、ローレシアへの乗り入れは危険すぎたからであった。それでも、日本本国との便数は多く、これまでのように中継地を経由する必要がないことで、運用コストが低減できることから航空各社には歓迎されたといえるだろう。